2012/12/24

デモの意味(おしまい)

わたしがこうした人々を擁護するのは、実際のところ、わたしがこうした特徴をすべて兼ね備えているため、これらの人々が苦しんでいるのを見ると、どうも人ごととは思えないためだ。

もしもわたしがビルマに生まれて不運にも日本に逃げてこざるをえなかったとしたら、入管暮らしはまず5年や10年で済むまい。あんまり長いので、きっと、収容所の中でチーズみたいにトロけているはずだ。わたしは仮放免のために自分の保証人をしてくれるような奇特な、というか奇怪な人がいてくれるとはとうてい思えないのである。

そんなわけでわたしは仮放免の身元保証人の要望は絶対に断らないことにしている。これらの人々を外に出すことは、わたし自身を外に出すことにほかならない。

立派な人々は人権の観点から入管の被収容者を支援する。そうではないわたしはむしろ入管収容者に支援されているのである。厚顔無恥もここまでいくと清々しいでしょう。

さて、デモの話題に帰ると、デモは祝日や休日に行われることが多いので、デモ参加者や治安関係者の家族にとっては、父親や母親と過ごす機会を失われる悲しい催しかもしれない。

ま、こんなことを言い出せばきりがないが。

さて、最後に、少なくとも年一度はビルマ関係のデモに参加するわたしにとっての、デモの最高の効果をここで包み隠さず述べれば、それは晴れた日に、普段は通れない車道の真ん中を歩きながら見る風景がとても珍しいので、とっても気分が良い、ということに尽きる。

そんなわけで、わたしは大通りを歩きたいがためだけのデモを組織することはできないだろうか、と考えている。特に目的などは何もない。

シュプレヒコールは「曇り、反対〜!」とか「道、賛成〜!」とかどうでもいいヤツ。

ただ大声を張り上げるのが楽しいだけだ。

もっとも、こんなことをやろうなんて言い出したら、まじめなデモをしている人や、治安関係者がスクラム組んでわたしの家の前でデモを始めるに違いない。ふざけんな、と。