2013/08/16

鼻緒をすげる

先日,落合でのビルマ関係の集会の帰り,2月にビルマで買ったサンダルの鼻緒が切れた。

その前から切れかかっているのには気がついていたが,帰りまでは持つだろうと押して通したのがよくなかった。

ビルマのサンダルにはわたしの見るところ2種に大別できる。足の裏の当たる表の部分がビロードになっているものと皮のものであるが,この時わたしが履いていたのはビロードのほう。

一緒にいたのが,在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の事務局長のラティントゥンさんで,いつも親切な彼はこれを見ると,自分のサンダルを脱いでわたしに履くように言った。

自分は裸足で大塚まで帰る,というのだ。いくらなんでもそりゃ無理だ。だが,彼は大丈夫大丈夫と引かない。

すぐ目の前にコンビニがあったので,わたしは彼のサンダルを借りて,ビニールの荷造り用のヒモとハサミを買う。自分で鼻緒をすげようとしたわけだが,外に出たら,彼が器用に直してくれた。





家まで帰るのには申し分ない出来だ。だが,落合から高田馬場まで行くと,彼は駅でちょっと待っているように言って,別のビルマ・サンダルを持ってきてくれた。

「買ってくれたの?」

とわたしが聞くと彼は友だちからもらったと否定する。だが,わたしは駅前のビルマの店で彼が新しいのを買ってきてくれたに違いないと疑っている。

それはともかく,新しいのは皮のほうのヤツ。彼によればこっちのほうが丈夫だという。わたしも皮のほうが好きだが,こっちの問題点は,ビロードのに比べて相当キビシい臭いを放つ,ということだ。

2013/08/15

早くビザちょーだい♡

8月9日に在日ビルマ難民たすけあいの会員の仮放免手続きのために,品川の東京入国管理局に行った。

9時ちょっと過ぎから手続きを始め,田町に行って銀行で保証金を収めて,再び入管に戻って仮放免を待つといういつもの流れで,お昼前には出てきた。

彼は2年もの間あちこちで収容されていた人で,特にわたしが仮放免申請してからは,外に出る日を恋い焦がれるあまり,たびたびわたしに電話をかけてきて,状況を尋ねてきた。

しかし尋ねられても,わたしに言えることは何もない。せいぜい励ますぐらいだ。

彼はあるとき毎日のように電話をかけてきたことがあった。精神的に参ってしまったのだという。

わたしは心当たりがあったので,出てきたばかりの彼に聞いた。

「たくさん電話かけてきたときあったけど,あれはやっぱり,7月6日のフィリピン人の一斉強制送還と関係あるの?」

答えはその通りで,送還されたフィリピン人の中には彼の知る人も含まれていたとのことだ。これらの人々は深夜に叩き起こされて牛久に連れて行かれたのだという(わたしが彼の日本語を正しく理解していたならば)。これを目の当たりにしては,不安で堪らなくなるのも無理はない。

ビルマの難民認定申請者は自分たちにも日本政府が同じようなことをするのではないかと大いに心配しているが,わたしはビルマ難民に限ってはそれはないと考えている。それは日本が難民条約に署名しているという前提を危うくするものだからだが,そうではあっても,今回のフィリピン人の一斉強制送還が,ビルマ難民を含む多くの在日外国人に与えた心理的影響は非常に大きいのではないか思う。そして,それは決してよいことではない。

ところで,入管の中では写真撮影は禁止だ。なので,わたしは外の写真しか撮らないのだが,6階の違反審査部門の待合室の記載台の落書きだけはちょっと気になったので写してしまった(わたしは落書きの擁護者を自認している)。これも決してよいことではないが,入管の内部の様子や職員を写したものではないし,またいずれは消される(はずの)ものなので害はあるまい。
 

大号令

カレン殉難者の日式典の会場は,ビルマ関係ではおなじみの南大塚地域文化創造館の会議室だが,式典のビデオ・プログラムのために上映する映像を準備していたら,管理者の方から音がうるさいので下げてほしいと注意された。

音楽を流す部屋ではないので,ということなので,音楽は小さめにして,インタビューの部分はわりと大きめに流していたら,それも大きすぎるという。そこで,OKO-Japan事務局長のダニエルさんが,会議室の外に出て音の大きさを確認し,これくらいなら大丈夫というギリギリの音量で設定をした。

さて,式典が始まった。式典は,カレン人殉難者への敬礼からはじまる。その号令をかけるのはカレン民族同盟(KNU)日本代表のモウニーさんだ。迷彩服みたいなのを着て張り切っている。

彼が号令をかけるのは毎年のことだから誰もが知っている。そこで,あるカレン人がモウニーさんに言った。「この会場は大きい音はダメみたいだから,号令のときは声を小さめにしてね」

すると彼は答えた。

「殉難者の日の号令は,口からでなく魂から出るものだから無理だよ」

カレン殉難者の日式典ビデオ・プログラム

カレン殉難者の日式典には在日ビルマ連邦少数民族協議会(AUN-Japan)のゾウミンカインさんとマイチョーウ—さんも来てくださった。

それぞれアラカン民族とパラウン民族である2人は,日本だけではなく国際的に有名な政治活動家であり,7月末にタイのチェンマイで開催された非ビルマ民族の政治的会合にも参加している(急な参加だったためタイのビザを取るのに苦労され,結局ラオスからタイに入ったとのこと)。

式典のはじまる前に,お二人と話をしたのだが,その時,日本の非ビルマ民族の活動の現状について意見を聞くことができた。

この2人の政治活動家が見るところ,現在の日本の非ビルマ民族の活動は,ビルマ国内への支援,特に日本政府やJICAや日本財団の支援をどう非ビルマ民族の生活のために役立てるか,ということに関心が向けられすぎているという。

これは確かに重要なことで,人々の生活を向上させる働きに異論はないが,しかしそれだけではダメだ,とマイチョーウーさんは言う。

ビルマ政府はまだ本当に変わったとは言い切れず,非ビルマ民族の権利を守るための政治的な活動がまだまだ必要だというのである。

つまり,ビルマが一見変わったから,あるいは日本政府が(物欲しげに)すり寄ってきたからといって,それに浮かれるなかれ,非ビルマ民族の運動の根本である政治的目標をユメ忘るるな,というわけだ。

わたしはどちらかというと政治重視派だが,近頃は猫も杓子も支援支援で,わたしも若干支援活動には関係しているので,「政治的目標」に拘るのはひょっとしたら時代遅れなんじゃあ……との疑念が生じていたが,この2人はまさに破邪顕正の剣でもって,我が痴愚なる思いなしをば粉砕したのであった(というほどのことではないが)。

政治活動というのは,支援活動のように目に見える成果が上がることはないし,派手でもない。アウンサンスーチーさんを見て政治活動を判断してはいけない。その背後にいる膨大な人々の目に見えない努力と命の,行方も知れぬ垂れ流しがあっての彼女の輝きなのである。そして,その垂れ流しは何かの秤で量れるようなものではないのだ。

そんな得体の知れぬ努力をするくらいなら,金を出して(あるいは出してもらって),学校や井戸や何か役に立つものを作ったほうがずっとましだ。何しろ目に見える。計画もたつ。クリスマスまでに3,000人と来た……

そりゃ結構。

しかし,そうした支援を可能にしたのも政治的変化であり,より効果的な支援を行うためには政治的な自由が必要なのは言うまでもない(というほどのことでもないが,ここでは詳しく論じない。ところで,国際支援活動家のなかには,自分たちのしていることは政治とは関わりない,と信じている人がいることには驚かされる)。

それはともかく,2人に政治の重要性をあらためて教えられたわたしは,支援・支援と言われた分だけ政治・政治と言い返してやろうと固く心に誓ったのであった。そして,それがいまビルマで飛んでいるあの鳥が「セイジセイジ」と鳴く理由なのです……いや,そういう話じゃない。

さて,カレン殉難者の日式典のビデオ・プログラムを担当したのは今年もわたしとKNU-Japanのモーミントゥさんで,モーミントゥさんはカレン殉難者の日の由来となったカレン人指導者のソウ・バウジーを取り上げた映像作品と,国境地帯のカレン人の様子を映した映像作品を担当した。

後者は,昨年10月にOKO-Japanの事務局長のダニエルさんがタイを訪問したさいに撮影した映像をモーミントゥさんが編集したもので,なかなかよくできている。

わたしが作成したのは18分の映像作品で,今年の2月にBRSAの支援プロジェクトでビルマを訪問したさいにカレン州の州都パアンで撮影した映像を編集したものだ。

といっても,ほとんどがインタビューで,その相手はキリスト教聖公会パアン教区のビショップだ。

内容についてはいずれ詳しく報告したいが,現在の政治的変化,KNUの状況,和平交渉の実態などについて非常に率直な意見を語ってくれており,わたしとしては有意義な内容だと思われ,また主催者側も勧めてくれたので,この日に上映することにした。

インタビュー中心なのでもしかしたら退屈かもしれないと思いつつみんなに見てもらったが,終わるや否や,マイチョーウ—さんが「素晴らしい!」と言ってくれたので「でしょ〜」と密かに思ったのであった。

2013/08/13

第63回カレン殉難者の日式典

第63回カレン殉難者の日式典が8月11日午後,南大塚地域文化創造館の会議室で開催された。

この日は,カレン民族同盟(KNU)の創立者で、カレン人にとっては伝説的な指導者であるソウ・バウジーが、1950年8月12日にビルマ軍の奇襲により惨殺されたのに由来し,爾来,カレン民族解放運動の死者を追悼する日となった。

主催は海外カレン機構(日本)OKO-Japanで,在日カレン人や非ビルマ民族政治活動家など約60名が参加した。

この日はお盆の休みということもあって,わたしの知る限り二つの団体(BRSAとNLD)が海へのバス旅行を企画したりしていて,参加者はは少々物足りなかったが,少なくとも主要なカレン人は集まったと思う。

日本人は,わたしと,ウー・シュエバこと田辺寿夫さんの2人。わたしはOKO-Jaoanのメンバーだから当然としても,こういうあまり人の来ない日にいらしてくれた田辺さんには本当に感謝したい。田辺さんのビルマの人々に対する愛情と関心は,他の人には真似できないものである。

プログラムは,開会の辞,カレン殉難者への敬礼,カレン民族歌斉唱,カレン殉難者の日の由来の説明,殉難者への献花,ビデオ・プログラム,KNUの声明の朗読(スゴーカレン語とビルマ語),来賓挨拶。

来賓挨拶で,田辺さんはビルマ語でお話をされたが,いつもながらの話術で,タイのメーソットでの体験談のくだりでは会場をおおいに沸かせた。主な内容は,現在日本で取りざたされている改憲への反対表明。これは太平洋戦争当時のビルマと日本軍の状況についてもいくつも著作・翻訳のある田辺さんならではの重みのある挨拶であった。










25年目の88デモ

1988年8月8日の民主化デモから25周年ということで,今年の夏も8888デモが都内で開催された。

五反田駅前の公園から,品川のビルマ大使館前を通過し,その先の公園で終わるというルートもいつもの通りで,特記すべきこともない。

気になったのは人数の少なさ。今回の参加者は300人程度だという。5年前の20周年のときには1,200人だというから,4分の1というわけだ。

まったく,公安や入管の人のほうが多いくらい……これは嘘だが。

なんで少ないか。その理由はいくつかある。

まず,多くの在日ビルマ難民が難民認定されたり滞在資格を得たりして,以前のように必死になって日本で政治活動をしなくてもよくなったということがひとつ。

次に,8月8日の平日に休みを取るのは,多くのビルマ難民にとって難しいということがある。しかし,それでも以前はみんななんとか都合をつけたものだが,今そこまで無理しない。

というか,いろいろな意味で(自分の意志で帰るにせよ,強制送還されるにせよ)ビルマへの帰国が現実的なものとして迫っている現在,少しでも稼いでおきたい,と考えている人もいるのだと。

3つ目は,これはある政治的指導者から聞いたのだが,やはりビルマへの帰国がありうるかもしれないという状況を考えた場合,うかつにデモなどに参加して自分の顔をさらすのは危険だという判断から, 参加するのを控えたというもの。

ということは,結局,ビルマは変わってないってことじゃない? ま,なんにせよ,みんな生き延びるためにあの手この手だ。

さて,もうひとつ,参加しない理由がある。

それは「暑い!」というもので,わたしは実際そう言った人に会った。

賢明な判断だ。














2013/08/02

OKO-Japan

現在,日本には3つのカレン人政治団体がある。在日カレン民族連盟(Karen National League-Japan, KNL-Japan)がそのうち最初のもので,2003年頃から活動を公的に行っている。その翌年に結成されたのは在日カレン民族同盟(Karen National Union-Japan, KNU-Japan)で,これはKNUの正式な支部である。

最後にできたのが海外カレン機構(日本)Overseas Karen Organization (Japan),略してOKO-Japanで,2006年3月に結成された。わたしはこれらのどの団体とも協力して働いてきたが,OKO-Japanは創立にも関わっている。

それで,これら3団体がどう違うかというと,政治方針の違い,リーダーやメンバーとの相性,活動の好み,日本国外の政治団体との関係などいろいろあるものの,本質的に大きく隔たっているわけではない。

実際,どの団体も仲良くしようと努めており,協力してイベントや政治活動を行うこともある。

ついでなので脱線するが,実はKNL-Japan以前に,在日カレン人が民族団体を結成したことがある。うろ覚えだがそれはカレン民族発展機構(KNDO)とかいう団体で2000年前後のことだと思う。しかし,この団体は短命に終わったようだ。

それはともかく,ある男性のカレン人,在日カレン・コミュニティではもっとも年長の1人が,集会で演説して次のように言い出した。

「現在日本には3つのカレン人政治団体があるが,10年前にはたったひとつのカレン人グループ,OKOしかなかった!」

いったい何を言ってるんだ,このおっさんは? 歴史を忘れた民族に未来はないはず……とわたしが思っていると彼が付け足した。

「OKOつまり,Overstay Karen Organizationだ!」

よかった,歴史直視してた。

カチン独立軍(KIA)の病院(6)

この療養室にいたのはカチン民族ばかりではなく,わたしは少なくとも3人の他民族の負傷兵に出会った。


1人はビルマ民族で全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)のメンバーで,30代前半というところ。出身はチン民族などが多く住むザガイン管区カレーミョーだが,チン民族ではない。

彼は臀部の辺りを撃たれてここに運び込まれてきた。 前線にはまだ数名のABSDFメンバーが残って,KIAと行動をともにしているという。どうしてKIAに加勢しているのかと尋ねたら,自分は今のビルマ政府のやり方が間違っていると思うから戦っている,と答えた。カチン語は分からないが,周りのカチン人がビルマ語を話すので問題はないとのことだった。

シャン州から来た若いシャン人もいた。腹部に縫合跡があったが,他の人と比べてかなり回復しているようだった。そばには母親がおり,息子の世話を焼いていた。「カチン人と一緒に暮らしてきた自分は,シャン州とカチン人を愛しているから,一緒に戦っている」のだという。


最後の1人は,厳密にいうと病院の外で出会った若い兵士だ。わたしたちが帰ろうとしているときに彼は話しかけてきた。聞けば,前日の戦闘で亡くなった兵士と同じ部隊にいたという。亡くなった兵士が撃たれた場所は少し離れた場所にあり,戦闘のため他の兵士が近づくことができず,救助が遅れたのだそうだ。

この若い兵士自身も軽度の負傷をしたようで,首の後ろ辺りに分厚い脱脂綿が絆創膏で貼付けてあった。

彼はミッチーナー出身のムスリムで,自分はカチン人の中で生まれ育ち,カチン人と同じようにカチン州を守りたいから戦闘に加わったのです,と話してくれた。