2009/11/30

森を見て木を見ない話(11)

11.付記

1)その後、当時のOKA-Japanメンバーすべてが難民として認定されるか、在留特別許可を得た。本文で取り上げた組織よりも日本政府の方が少なくともまともな情報分析をし、また人道的であったというわけである。また、OKA-Japanは創設以来現在まで在日ビルマ民主化団体、非ビルマ民族団体と協調して活動している。おそらく、担当者がメールに記した情報は間違っていたか、それとも他の組織が考えを改めたかのどちらかである。

2)人権侵害をしている団体だから一緒に働かない、というのはある種のダブルスタンダードを前提としているように見える。ビルマほど重大なものはないにしても日本政府も少なからぬ人権侵害の責任を負っている(例えば死刑執行など)。だが、本文で触れた組織が、日本政府と働かない、あるいはその政府を支えている日本国民とは協力しない、などという態度を取っているとは聞いたことがない。

2009/11/27

森を見て木を見ない話(10)

10.すべての人の命を守る

人権という概念が一般的ではない時代、国、場面においては、何が人権であり、何が人権侵害であるか判定することは重要であり、それを専らにする組織の役割は極めて大きい。しかし、それは人権を守るという行為と同じではない、あるいはその一部でしかないのである。

人権について語る時、「誰かの人権」という形で語ることはできない。人権とはすべての人間に普遍的に備わるものとして構想されている概念であり、その意味では、「誰かの人権」が問題になっている時、それは同時にすべての人間の人権についても問題になっているのである。

それゆえ、人権を守るということは、もっとも単純な言い方をすれば、すべての人の命を守るために働く、ということ以外にはありえない。すべての人の命を守ることなど無理だ、と考える人もいるかもしれない。だが、それは今現在語られている人権がその目標にまで達するまで鍛え上げられていないということを意味するにすぎない。人権は常に発展途上にある思想といえる。

あくまでも「すべての人の命」であって、一部の優れた人、人権を尊重する人の命なのではない。人権侵害をする人、死刑を宣告されるまでの重い罪を犯した人の命まで守ることによってはじめて人権の普遍性が確保されるのである。

そして、もうひとつ重要なのは、人権は人間についていわれる概念であるということだ。これは人権の出発点が個々人の命の状況に根ざしている、ということでもある。なぜなら、命とは抽象的なものではなく、個別的具体的な人間とともに常にあるものだからだ。この個別的具体的な人間、それらの人間のおかれた具体的状況を忘れたとき、人権という概念は急速に希薄化していく。

希薄化した人権。それは声高に叫ぶに適している。ある国家、ある組織が人権を尊重するかしないか、誰の目にも、つまり糾弾される側の目にもはっきりとわかりやすく示すのには、有用である。だが、実際に人権を守ることが問題になる場合、具体的な命が問題になる場合には、そのような薄味の人権はむしろ害である。その国家なり組織の奥にある個々の命に目を注ぎ、それらが絡み合う濃厚な人権状況の中で、どのような方法、思考、手段がすべての人の命を救いうるのかを見いだすことに全力が注がれなければならない。このような場面において必要なのは、人権の判定者ではなく、人権の探求者なのだ。

大きな組織に属し、その組織がもたらす庇護、恩恵に慣れてしまった人は、組織を中心に考えるという悪弊にえてして染まりがちだ。そのような人は、世界を動かしているのが個々の人ではなく、組織であると考えるようになるのである。かの栄光に満ちた組織は、OKA-Japanに誤ったレッテルを貼ったとき、 OKA-JapanやKNF-Japanなどの組織の姿に気を取られたあまり、それら組織が具体的な人々の命によって成り立っていることを忘れてしまった。かの気高い組織の人々は、森を見たが、木を見ることはできなかったのだ。

2009/11/25

森を見て木を見ない話(9)

9.死刑宣告

主催者となった組織は、有名で、偉大で、資金も人材も潤沢だ。人権に関する熱心かつ広範囲に及ぶ活動から、世界中の人々から尊敬を集めている。まさに人権の総本山と呼ぶにふさわしく、人権に関して過誤を犯すことなどないかのような神聖な無謬性すら身にまとっている。だが、このような地球的規模で立派な組織でも、やはり間違いを犯すのだと、このとき知った。その原因はといえば、この組織が適切な情報収集と分析をしなかった点にある。とはいえ、間違いは誰にでもあることだ。ぼくが取り上げようとしている点はそこではない。

ぼくが極めて興味深くまた皮肉だと思ったのは、人権の体現者ともいえるこの立派な組織が、その売り物の人権を用いて、ある小さな集団の構成員の命を危険にさらしたということである。

担当者が用いた理屈はこうである。

前提1 OKA-JapanはKNFの隠れ蓑の団体である。
前提2 KNFは人権侵害団体である。
結論 ゆえにOKA-Japanは人権侵害団体である。すなわち、われわれはこのような人々と同席したくない。

もちろん前提1は誤りである(とぼくは主張している)。前提2に関して、ぼくはその担当者に証拠となる資料を教えてほしいと頼んだが、返事はなかった。だが、これは正しいのではないかと思う。KNFはビルマ軍事政権と長い戦争を続けている。戦争の理由に関して、KNFはあくまでも民族を守るための戦いと語るが、戦争は戦争だ。そして、戦争は人権侵害のもっとも大きなものである。とはいえ、KNF-Japanそのものが人権侵害をしているかどうかはまた別に考察すべき問題ではある。

なんにせよ、前提2の真偽がどうであれ、前提1が偽である以上、この推論において結論が誤りであるのはいうまでもない。

だが、それにもかかわらずこの団体は、ある組織を人権侵害団体として誤認定してしまった。このような神聖な組織に反論の機会もなくそう裁定されることが、 OKA-Japanのメンバーにどのような影響を与えるか、わかっていただろうか? OKA-Japanにとって不本意なこの指定がたとえ内々なものであったとしても、その事実はビルマ人社会にあっという間に広まるということを、予測していただろうか? そして、ほとんどテロリストと名指されるに近いそのレッテルが、彼らの難民認定申請にどのような深刻な影響を及ぼすか、少しでも考えたことはあっただろうか? さらに、このけしからん濡れ衣によって難民と認められるのが遅くなったせいで、その分余計に、収容や病気に怯えながら不安定な状況で日本に暮らさなければならないこと、すなわち、それだけ人権を享受できずに生きなくてはならないことを、知っていただろうか? もっと突き詰めていえば、不確定な情報と噂を証人とする欠席裁判で下されたこの託宣が、送還されれば政府に殺されると主張する難民にとって、実質的な死刑宣告になりうることに気がついていただろうか?

2009/11/23

森を見て木を見ない話(8)

8.人権侵害団体に指定される

ところが、ことはまったく愕然とさせる展開をとった。担当者は先に触れたメールの4時間後に「OKA-Japanの協賛は今回見合わせていただきます」と書かれたメールを送信してきたのである。

担当者はその理由として次の3点を挙げた。

1)新しい団体なので活動実績がなくわからない。

2)KNFとの関係
水掛け祭でOKA-JapanのメンバーがKNFから名前が変わっただけと明言していた。KNFが現地で行っている人権侵害が報告されており、彼らと共同行動することはできない。

3)他の協賛団体からの反対
OKA-JapanがKNFの名前替えであるということは、在日のビルマ人の各団体も知っていることであり、OKA-Japanと共同行動をとることに反対している人がたくさんいる。

1番目の理由に関しては、異論の余地はない。だが、2番目と3番目の理由はどうだ。たしかに、OKA-JapanにはKNF-Japanのメンバーもいるし、また水掛け祭では貸店舗を分け合った。だが、それは2つの団体が同一であることの証明とはならない。いったい誰が、どんな意図でそんなことをいったのか。いかなる誤解、曲解、噂、中傷が飛鳥山公園の桜の花びらとともに人々の間を舞い散ったのか。ぼくはひどく混乱し、また同時に困惑した。そして、自分が知るかぎりの事実を徹夜で書き記し、このひどい誤解が解かれることを願いつつ、担当者に送信した。

2009/11/20

森を見て木を見ない話(7)

7.協賛する理由

こうしたいかにも理不尽な状況のなか、OKA-Japanがあえて協賛する、というのは非常に意義のあることのようにと思えた。なぜなら、それはOKA- Japanが偏狭な民族主義には組しないということをアピールすることでもあるからだ。ロヒンギャに敵対的な団体からとやかくいわれる可能性も考えられたが、少なくともいくつかの有力な民主化団体、少数民族団体が協賛団体に名を連ねていることは励みになった。

また、認知度のゼロに近いOKA-Japanがビルマ人の団体や日本人の有力な支援組織と名前を並べることができるのも、魅力的なことであった。一言でいえば、いい宣伝になった。

この宣伝は重要なことだ。当時のOKA-Japanのメンバーのほとんどは難民認定申請中だった。つまり、これらの人々はいつ不認定となってビルマに送還され、軍事政権に再び迫害されるかわからないという状況にあったのである。この最悪の事態を避けるひとつの方策は、OKA-Japanという政治団体が、軍事政権にとって弾圧の対象になるほどの強い活動を行っていることを、難民審査の場で証明することである。

もちろん写真展の協賛程度では、その証明には十分ではないが、その最初の一歩、しかも望みうるかぎりに歩幅の大きい一歩にはなりえた。

さらに、多くのビルマ民主化組織にそっぽを向かれた形になった写真展の主催者にとっても、できたばかりの小さな団体とはいえ、ひとつでも協賛団体が増えるのは、うれしい話のはずだった。カレン人はその歴史的背景ゆえに非ビルマ民族の中でも特別な地位を占めている。そうした民族の名前が見当たらないというのは、主催者側からしても寂しいことに違いなく、KNA-Japanが協賛しない以上、OKA-Japanがいわばその民族的責任を果たすべきのように思えた。

つまり、どこからどう見てもOKA-Japanが協賛団体となった時に損をするものはいなかった。OKA-Japanにとっても、主催者側にとっても良い話のはずだった。すでにメールの返事にも書いたように、ぼくは「これはなんとしても日曜日の会議で話し合わなくてはならない」と心に決めていた。

2009/11/18

森を見て木を見ない話(6)

6.ビルマの差別問題

ロヒンギャというのは、ビルマから逃れてきた難民の民族のひとつで、イスラムを信仰している。ロヒンギャの人々は、自分たちはビルマ国民としてビルマ軍事政権の迫害に苦しみ、家族や仲間を失ったのだ、と訴える。ところが、ビルマ人をはじめとする他の多くのビルマ諸民族の政治団体は、これを嘘だと主張する。「ロヒンギャはバングラデシュからの出稼ぎであり、ビルマの原住民族ではない。もちろん、難民であることは認めるが、彼らがビルマ人、カレン人、アラカン人などと同じ地位で扱われることは承認できない」というのである(ロヒンギャ難民については、この「平和の翼ジャーナル第6号」が実に適切なやり方で取り上げられている。ぜひとも参照してほしい)。ロヒンギャ人がどのような歴史を持つにせよ、ビルマの人々が取る態度は、許容しがたい民族差別、宗教差別に他ならない(付け加えておくが、ロヒンギャ人に強行姿勢を取る組織に所属する人でも、個人的には「同じビルマ人だよ、関係ないよ」と話す人は多い)。

写真展の主催者は日本人の組織であることはすでに述べた。ロヒンギャであろうとビルマ人であろうと、アラカン人であろうと、日本ではみな外国人、難民である。その意味では日本人として、ある民族を特別扱いするわけにはいかないのは当然のことである。主催者は写真展の開催にあたり、日本にあるすべての「ビルマ人」団体に協賛を呼びかけた。その結果、ロヒンギャ人のある政治組織が協賛を申し出たのであり、これを拒む理由は主催者側にはいささかもなかった。だが、これに国民民主連盟解放区日本支部をはじめとするビルマ民主化団体や少数民族組織は反発した。われわれはこのような人々と同席したくない、と憤激したのである。そして、これらの怒れる組織の中に、KNA-Japanも含まれていた(とはいえ、すべての団体が写真展に協賛しなかったわけではないことも明記しておくべきだろう)。

2009/11/16

森を見て木を見ない話(5)

5.招待状

水掛け祭が終わって4日後の4月10日、カレン情報スペース宛にメールが届いた。カレン情報スペース(KIS)というのは、当時ぼくが在日カレン人と毎月一回都内で開催していた催し物で、カレン人と日本人が集っていろいろな情報を交換し合う広場ができればと思ってはじめたものだった。このKIS宛のメールは次のような内容だった(実際のメールに基づくが、そのままの引用ではない)。

カレン情報スペース様

6月にビルマの現状を記録した写真展を開催します。
在日のたくさんの団体さんとも共同行動を行います。
カレン情報スペース様もぜひ協賛団体としてお誘いさせていただきたいと思いご連絡いたしました。

その翌日に出したぼくの返信は次の通り。

担当者様

写真展の共同行動のお誘いありがとうございます。ぜひとも、協力させていただきます。

ところで、KNA-Japanの他に、新たにカレン海外協会(日本)OKA-Japanというやはり在日カレン人を中心とした民主化グループがこの春に結成されました。日曜日にそちらの団体の会議があるので、協賛の相談をしてみたいと思いますがよろしいでしょうか。

すぐにKISとしての協賛に対する感謝を記したメールが返ってきた。さらに担当者はKNA-Japanの責任者と連絡が取れないと述べ、協賛するかどうかについて代わりに確認してほしいと頼んできたのである。そして、もちろんのことぼくはその頼み事を果たしたが、形式的にしたにすぎない。というのも、そのときぼくはKNA-Japanが、いやそれどころかビルマ民主化団体、少数民族団体のほとんどが、この写真展の協賛を拒否していたことを知っていたからだった。

2009/11/13

森を見て木を見ない話(4)

4.水掛け祭

さて、ここで話を戻すと、このKNF-Japanの親切な申し出のおかげで、OKA-Japanは最初のお披露目のチャンスをつかむことができたのである。

2006年の水掛け祭は4月6日で、場所は例年通り、王子の飛鳥山公園。浮かれたビルマ人と花見客でごった返す中、われわれは生春巻きと軟骨からあげを売った。どのメンバーの顔も生き生きとし、喜びにあふれていた。新しい組織の最初の活動というものはなんとも楽しいものだ。もっとも、この楽しみを維持するのは並大抵のことではないことを後になって知るのだが。

それはともかく、水掛け祭の出店は大成功だった。われわれは日本語で書かれたOKA-Japanの紹介文を配り、新しいグループができたことを大いに宣伝した。さらに、1日の純利益である6万円という金額もなかなかのものだった。カレン人の多く暮らすタイ・ビルマ国境地帯でそれがどれだけの価値を持つか知らない者はいなかった。その国境地帯では、カレンの村人たちがビルマ軍に攻撃され、避難民、孤児となってジャングルの中を逃げ惑っていた。こうしたカレン人避難民を支援すること、われわれはこれをひとつの目的として、OKA-Japanを設立したのだ。

水掛け祭での活動によって、ビルマ人社会で存在を認められるという目標は最低限達成できた。次は、これを日本人に対して行わねばならなかった。日本で暮らす以上、難民問題、ビルマ問題に関わる日本人の協力は欠かせないからである。そして、まさにそれにうってつけの機会が6月に予定されていた。

2009/11/11

森を見て木を見ない話(3)

3.3つのカレン人政治団体

さて、日本のカレン民族政治組織はOKA-Japanを除けば、このKNF-Japanと在日カレン民族協会KNA-Japanの2つがある。どちらも、 OKA-Japanより先にできた団体だ。KNF-Japanはビルマ国境でビルマ政府と戦っているKNFの下部組織で、MさんはKNF日本代表を務めている。KNA-Japanは国際的カレン人組織のKNAの承諾を得て、日本でKNAの名を使っている組織である(つまり、KNAは組織構造的にKNA- Japanを下に置いているわけではなく、またKNA-JapanもKNAの指示によって動いているわけではない。どちらも組織としては独立している)。

すでに2つもあるのに、どうして3つ目が必要なのか、そう思われる方もいるかもしれないが、やはり長くなるのでここでは説明しない。ただ、会の結成時には15人のメンバーが集い、さらに3ヶ月後の6月には会員数が20人になっていたこと、そしてこれは他の2つのカレン人組織それぞれの会員数よりも多かったことを指摘すれば十分だろう(今なおOKA-Japanは日本最大のカレン人政治団体だ)。

もっとも、これには少しトリックがある。OKA-Japanは設立時の方針として、他の組織に所属している人でも積極的に受け入れたのである。だから、OKA-Japanだけにしか所属していないという人はそれほど多くはなかった。

組織のなかには、基本的に他の組織への参加を好まない排他的なメンバーシップをとる組織と、そうでない組織がある。OKA-Japanはその意味ではオープンなメンバーシップでやっていこうと決めていた。だが、それは会員数を増やしたいからという理由によるものではなく、良い組織というものは常に誰でも受け入れ、また会員が組織の外で活躍することを促すものだからである。

だから、OKA-Japanのメンバーはさまざまな背景を持つ人ばかりだった。KNA-Japan、KNF-Japanばかりでなく、国民民主連盟解放地区日本支部などのビルマ人の多い組織に所属している人もいた。後にやめてしまったが、モン民族の人も参加していた。

KNF-Japanは自分たちの会員が他の組織に加わることについて特に反対はしなかった。そんなわけで、KNF-JapanとOKA-Japanとの双方に籍を置いて活動している人は今なおいる。しかし、KNA-Japanにはこのような2重のメンバーシップは受け入れがたいようだった。それで、KNA -JapanのメンバーでOKA-Japanに加わった人は、後にどちらの組織に所属するかの選択を迫られることとなった。KNA-Japanのメンバーとともに3年のあいだ活動し、メンバーではなかったが「スポークスマン」という役職を任されていたぼくもそのひとりであった。

2009/11/09

森を見て木を見ない話(2)

2.あるカレン人組織の誕生

ぼくは在日カレン人による政治団体、海外カレン協会(日本)OKA-Japanの創立者のひとりだ。どうして日本人であるぼくがカレン人の団体の設立にかかわったか、話せば長くなるが、それは今回の話の主題ではない。

主題となる事件が起きたのは、OKA-Japanが結成されて1ヶ月ほど経った2006年4月のことだ。

新しい組織はまず最初に何をなすべきか。なんといっても、日本のビルマ民主化団体、非ビルマ民族政治団体のなかで認知されること、さらに日本人の支援団体の中でカレン人のこういう組織があるということを知ってもらうことが優先されなければならない。もちろん、組織作りやメンバー間の協力関係の育成などやることはいくらでもあるが、どんなに立派な人材と組織があっても、他の組織から相手にされないのではお話しにならない。そういうわけで、イベントなり集会、デモなどに「OKA-Japan」という旗を掲げて積極的に参加することが必要となる。

折りも折り、うってつけのイベントがあった。毎年4月に行われる水掛け祭である。ビルマ民主連盟(LDB)が主催するこのビルマの伝統行事には、多くの民主化団体、非ビルマ民族政治組織が集い、お店を出して伝統料理を売ったり、歌や踊りを披露したりする。

OKA-Japanも参加させてもらおうとさっそく申し込みをしたが、すでに空き場所はなかった。すると、話を聞いたカレン民族連合(KNF- Japan)の代表のMさんが、「自分たちも今年も店を出してカエルのからあげを売るつもりでいるが、こちらは人手も少ないので、店を半分貸すからOKA -Japanで使ってください」と親切にも提案してくれたのである。

2009/11/06

森を見て木を見ない話(1)

1.やや長めの「はじめに」

ぼくがこの物語で行おうとしているのは、特定の団体を非難することではない。その世界的な団体は非常に有益な活動で知られており、ぼくもそれには十分な敬意を払っている。ぼくがしたいのはむしろ、そうした組織的に大きな団体が、規模や歴史の点でその組織ほど十分に保護されていない小さな組織や個人に対して誤りを犯すことがある、という一般的傾向を指摘することである。

また、同時に物語には、ビルマ民主化運動、非ビルマ民族政治運動を語る上で不可欠な要素がいくつも関与している。3年以上前の出来事だが、日本におけるビルマの政治運動がどのように動いているか、そのコンパクトな実例としても読んでいただけることだろう。もちろん、ぼくはビルマの政治運動の当事者ではない。だが、やや特殊な事情から、この出来事の際には渦中にいたといってもよいと思う。そして、その当事者性ゆえに、いくつかの場合で匿名や仮名を用いさせていただかなければならなかった。なぜなら、ぼくが語ることが、つねに客観的で正しいとは限らないからである。できるだけそうであるように努めてはいるにしても、だ。

また、カレン人の政治組織が3つ登場するが、それらの団体に関する記述は、ぼくがもっとも深く関わったOKA-Japanのそれでさえ、2006年当時のものであり、またぼく個人の見解・観察によるものである、ということを明記しておく必要があるだろう。これらそれぞれに個性を持ち、それぞれ立派な活動を行っている団体について、その実情をお知りになりたい方は、ご自分で連絡を取り、直接話を聞くことをお勧めする。ともあれ、誰かがこの物語を読んで、これらのカレン人の団体のひとつにでも悪印象を持ったとしたら、それはぼくの書き方が悪いのである。

同様に、物語で取り上げる匿名の団体に対する見解も、あくまでぼく個人のものであり、OKA-Japanを代表するものでは決してない。現在のOKA- Japanのメンバーの中には、今なお、不安定な人権状況に暮らす者が多数おり、これらの人々の命のためにその団体が果たすべき役割はとてつもなく大きい。

公平を期すためにいえば、ぼくは自分が創立に携わったOKA-Japanで、今なお「国際プログラム担当」という役割をいただいている。これはタイ・ビルマ国境の難民の支援を行う上で、誰かタイに行ける人が必要だったためで、メンバーの誰もビザがなく、海外はおろか東京の外にすら自由に出られなかった時期の名残である。今や、多くのメンバーが喜ばしいことに、何らかの滞在資格を得ている。手間はかかるが、海外旅行も可能になった。OKA-Japanは自立の道を歩きつつあり、それと同時にぼくの役割の重要性も軽減した。それでもメンバーたちはある種の記念のような形で、引き続きぼくがこの役職につくことを許してくれた。とはいえ、これはほとんど名目上のもので、2006年の創立当時のようにぼくが組織の運営にかかわることは現在はない。

さて、件の事件は、当初ぼくを悲憤慷慨させたのであった。だが、同時にどうしてこのようなことが起こるのか、その仕組みについて知りたくもなった。ぼくは長い間考え続け、その結果をこうしてここに公表させていただくわけである。

2009/11/04

身元保証費用

入管に収容された難民認定申請者が仮放免される時に必要なのが保証金。ビルマ難民の場合は現在の相場は30万円だが、50万、100万支払わなくてはならない時代もあった。

この保証金は、申請者の滞在が認められたときに、返ってくる。これを引き出すことができるのは申請者の身元保証人のみ(か、その代理)だ。

保証金はたいていの場合、申請者が用意する。しかし、身元保証人のハンコがなければ、これを取り返すことができない。ここにトラブルの生じる余地がある。

なかには悪い身元保証人がいて、100万なり30万なりの保証金を自分のものにしてしまうのだという。

「第2の上陸」でも書いたが、難民申請者にとって、それまで日本の生活で築きあげてきたものを失うのがいかに簡単であるか、の一例。

2009/11/03

剣とバッグ

日曜日にあるカチン人の結婚式に招かれた。

カチン人だからキリスト教式。カチン人の教会に縁の深い日本人牧師2人ととカチン人牧師が司式。

日本人牧師のひとりはカチン人と結婚した人で、カチン語の名前もある。

指輪交換式と一緒に、カチンバッグと剣を新婦から新郎へと渡す儀式も行われた。牧師によると、剣は家を守ること、カチンバッグは家の豊かさを意味するとのこと。

下の写真は、牧師を前に新郎が剣とバッグをぶら下げている様子。