2013/11/30

インセインとピーマン(2)

そのカレン人の女性は,1993年から2001年まで日本で働いていたのだ。その後,やはりカレン人の夫が働いているマレーシアに移り,2013年まで働いて,この8月にヤンゴン,インセインのこの家に戻ってきたというわけだ。

玄関を入ると客間があり,立派なソファーが置かれている。大きなクリスマスツリーも飾り付けられ,家の主がスイッチを入れると電飾が点滅を始めた。もうすぐSweet Decemberと呼ばれる12月がやってくるのだ。

白い毛をふさふささせた犬が走りよって来る。マレーシアから連れてきた愛犬! 運ぶのになんやかんやで10万円かかった。「離れてた間は毎日泣いてたよ」 大金も惜しくはない……

壁には作り付けの木の戸棚が並び,そのガラス扉の向こうで,上品な食器類やティーカップが静かに輝いている。

わたしがそれらを見つめていると,彼女は言う。「これはみーんな,日本で買ったものだよ。これもこれも」と,漆器や日本人形を指差した。

そればかりではない。彼女は家全体に手を広げて言った。「日本,ありがとうございま〜す」

ま,大笑いだ。

まったく結構づくめ! 20年以上,時には家族と離ればなれになりながら,異国の地で働き詰めに働いて,ようやく迎えた静かで落ち着いた老後。子どもたちも独立して,アメリカやマレーシアでなんとかやってる。

これぞ停戦交渉の効果! ビルマ政府とカレン人が二度と戦うことのないように! このインセインが,老夫婦の静かな住居が,砲撃されることのないように!


2013/11/29

インセインとピーマン(1)

ヤンゴンのインセインは刑務所でも有名だが,大きなカレン人居住地があることでも知られている。

ここは1949年にビルマ軍とカレン軍(カレン民族防衛機構)との間で非常に大きな戦闘が繰り広げられ,多くのカレン人が亡くなった場所でもある。

ビルマにいる間,そこに暮らすあるカレン人がわたしを家に招待してくれたので,久しぶりにインセインに行った。

雰囲気はヤンゴンの他の部分と少し違う。ひしめく家々の間を車一台通れる分の細い道があたかも敵の侵入を妨げるかのようにくねくねと蛇行分岐している。確かに防衛的な意図もあるにちがいない。しかし,戦争後インセインに住み着いた多くのカレン人が狭い土地に家を建てているうちにそんな町並みになったのかもしれない。

ただしインセインのカレン人居住地が他のところより貧しいとか,汚いとか言うことはできない。暮らしそのものは,ビルマの普通のものだ。ただし,仏教徒ではなくキリスト教徒のそれだが。

さて,わたしを招いてくれた女性の家は,素晴らしく立派なものだった。敷地に入るや否や,広く開け放たれた玄関とその両脇の神殿風の円柱が目に入った。

「さあ! この宮殿で貴婦人(レディ)がお待ちかねです!」 同行してくれたあるカレン人はそう告げる。

玄関前の車寄せに止められた車から出たわたしは,玄関ポーチの階段を1段,2段……まるで瀟洒なホテル!

そして,玄関口には,おお,レディが姿を現し,わたしを招じ入れながら喜びの声を上げる。

「あ〜,ぜんっぜん変わってないね〜! 別れた時と同じだよ〜!」

日本語だ。

2013/11/28

ブレードランナー(キムチ・カット)

今回のビルマ滞在中に韓国に出稼ぎに行ったことのある2人のカレン人に出会った。

とはいうものの1人は実際に韓国で働いていたわけではない。韓国の漁船に乗っていたのだ。

海の男というものはどこでも気性が荒いものだから,幾度か韓国人乗組員と衝突したとか,ロシアのどこかの凍り付いた海で,2月のひと月のあいだ船のなかでじっとしていたとか,『ブレードランナー』中の"I've seen things you people wouldn't believe...(お前たち人間には信じられないようなものを俺は見てきた……)"ではじまるあの有名な台詞をまったく彷彿とさせる。

この男性が船に乗ってまず困ったのは食べ物で,特にキムチがダメだったという。しかし,しばらくするうちに慣れて大好物になった。

もうひとりの男性は韓国の金浦の工場で4年間ほど働いた経験を持つ人で,作業中の事故で片手に穴があいた。その穴から「向こうが見えた」というが,今は傷跡のみ残っている。

彼もキムチはダメだった。

ヤンゴンの西にティリミンガラー市場(Thiri Mingalar Market)という大きな青果市場がある。

キムチを前にした彼が思ったのは「何だこのキムチってのは! ティリミンガラー市場の野菜クズ捨て場の匂いがするぜ!」

しかし,数日後にはお椀片手に「OK! キムチ! Come! Come!」という状態,その食欲を危惧した韓国人が「2つで十分ですよ!」と言ったとか言わないとか。

2013/11/27

猿酒チャイティーヨー

また酒の話だが,ヤンゴンのレストランであるカレン人とビールを飲んでいた。

わたしたちの席は入り口に近く,テーブルの脇を人々がひっきりなしに行き来している。ビールのキャンペンガールが席を回って新しい商品を客たちに試飲させていたりもしてる。

流行りの飲み方なのか知らないが,わたしの友人はABCという黒生ビールと普通の生ビールを半分に割って飲んだ。で,わたしもそれを真似した。割るために黒ビールを余計に頼むのでテーブルの上はジョッキだらけだ。

わたしは気がつかないうちにジョッキをテーブルの端すれすれに押しやっていたらしい。友人がわたしに注意した。

「気をつけて! それじゃチャイティーヨー・ロックだ!」

チャイティーヨー・ロックというのはビルマ仏教の聖地にして奇観のひとつで,巨大な石が今にも転がり落ちそうなほどの絶妙なバランスで山に乗っかっている。これについては以前に書いた(「チャイティーヨー」)。

さて,カレン人の友人はこの奇石にまつわるカレン人の伝説を教えてくれた。

チャイティーヨー・パゴダというのはモン州にあるが,その山の辺りには昔カレン人が住んでいたのだという。あるとき,カレン人たちはこの岩に縄をかけて引き摺り下ろそうとした。ところが,石はびくともしない。それどころか,この不遜な行いにより,カレン人たちはサルになってしまった(伝説終わり)。

この話を教えてくれたのはカレン人だけれども,ビルマ民族仏教徒のカレン人への眼差しが強く反映されていると思う。

合意の必要

ヤンゴンのシャン料理のレストランで,カレン人の友人たちと飲んだ。

わたしが行った時にはすでにもうはじまっていて,みんなウィスキーを飲んでいる。

シャンの酒をやらないか,と勧めるので飲むと,中国の強い酒みたいなやつだ。一杯だけ飲んでウィスキーにする。

つまみはシャンの牛のモツの煮込み。これは高田馬場のノングインレイでも食べることができる。

わたしたちは飲みながら,カレンの政治の話をした。現在,カレン民族同盟とビルマ政府は停戦交渉を行っている。

「まあ,どうなるか分からないね」と1人がいう。「いまのところ双方ともどんな合意にも達していないのだから。こっちはせいぜい様子見だな」

「様子見,"Wait and see."」 というのは今回のビルマ滞在中によく聞いた言葉のひとつだ。停戦がうまく行くか,スーチーさんが大統領になるか,2015年に何が起きるか,ひとつ様子見だ……。

これを「庶民のしたたかさ」などと持ち上げる人もいるかもしれないが,そんなものではない。様子見人生なんてひどくつまらないもんだ。本気で生きることができない……。

やがて,彼の携帯電話が鳴った。取り上げて何か話している。

電話を切ると,彼は言った。「女房が言ってきたんだ,もう十時過ぎだから帰ってこいってさ,で,俺は言ってやったよ,俺たちの間にはそんな合意は結ばれておらん!とね」

2013/11/07

封じる力

ビルマの仏教は,上座部仏教徒と呼ばれるもので,われわれの伝統である大乗仏教とは伝統が異なる。

日本のお坊さんは,たいていの場合,妻帯肉食を俗人とともに享受していて,これは上座部仏教にはまったくありえないことだが,僧も俗も根本的には違いがないというのが大乗の仏性というものなのだから,これはこれで理にかなっている。

これに対して上座部のお坊さんは,俗人とはまったく異なる存在であり,両者の断絶はさまざまな戒律によって維持されている。

そのひとつが,接触に関する規定で,ビルマのお坊さんはお金や女性に触れてはいけないとされる。

ビルマ問題の専門家である田辺寿夫さんが『ビルマの竪琴』 について,そもそもお坊さんは竪琴などという遊興に用いられる道具に触れることなどない,と指摘され,かくして水島上等兵の面目丸潰れとなったが,これも同じような事情によっている。

10月27日,中野駅北口広場で開催されたダディンジュ祭で,この仏教の行事にふさわしく,その始まりにビルマのお坊さんが会場でいくつかの宗教儀式を行った。

お坊さんの列がお店の前を回って寄付や供物を受け取ったり,集まってお祈りしたりしたのがそれだが,お坊さんの托鉢が始まる前に「お坊さんはお金を触ってはいけないので,寄付するときはお坊さんの後に付いて歩いている人に渡してください」と田辺さんの通訳を通じて運営から注意があった。

わたしは在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の会長をしている関係から,お坊さんが来たら寄付をするようにと,お金が入った封筒をもたされていた。

封筒を手にBRSAの露店先で待っていると,やがてお坊さんが前に差し掛かった。

わたしはこういうことははじめてで,封筒を差し出したまま,それを食べ物のパックと一緒に鉢に入れた方がいいのか,それとも後ろの人に渡した方がいいのか,一瞬戸惑った。するとお坊さんは手ずからその封筒を取り,後ろの人に渡したのだった。

さ,触った!

お金の持つ世俗パワーを封筒が封じていた,ということであろう……(わたしが撮影した下のビデオでも同じような光景が見られる)。

2013/11/06

囚人の希望

日本軍がビルマを占領していた時に,エーヤワディ管区のミャウンミャという町で起きた話なのだが,その辺りはカレン人が広く住む地域で,日本軍はたくさんのカレン人を捕らえ,ミャウンミャ市内の刑務所に入れた。

というのも,キリスト教徒の多いカレン人をイギリス植民地政府のスパイだと疑ったのである。

投獄された者のなかに,ある1人のカレン人がいた。彼は,他の多くのカレン人と同じく身にいわれのない罪で逮捕されたのであり,自分がいつか解放されることを祈っていた。

それは,可能性のないことではなかった。というのも,毎日のように,4〜5人のカレン人が房から外に出されていたから。彼は自分が同じように釈放されるのを待ち続けた。

そして,それらのカレン人が毎日,日本軍に射殺されていたのを知ったのは,彼が釈放された後のことだった。

この話をしてくれたのは,ある在日カレン人で,彼は子どもの頃この話を本人から聞いたそうだ。

日本軍はアウンサン率いるビルマ独立軍(BIA)とともにビルマに攻め入り,短い占領時代が始まるが,その間に多くのカレン人を殺した。

もちろんのこと,カレン人の中にはそのために日本人を憎む人も多いが,いっぽうで「カレン人を憎むビルマ人が日本軍をそそのかして殺させたのだ」とも主張する。

実際に,BIAはこの時期にカレン人に対する虐殺や集団強かんを行っている。

このような残虐行為は,次第に日本軍にも把握されるようになり,日本軍はBIAと一緒になってカレン人を迫害するのは控えるようになった。

この日本軍の「改心」については,もうひとつ興味深いエピソードがあり,それはカレン人を助けていた日本人医師が,カレン人への弾圧をやめるように軍に掛け合ったというものだ。

本当かどうか分からないが,この「改心」がなければ,知らずして自分が処刑されるのを待ち続けたあのカレン人が生き延びることもなかっただろう。

2013/11/02

豆のフライ

すでにお知らせしたように,今日は松戸市馬橋の商店街イベントに在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)として出店した。

販売したのはペヤージョーという豆のフライで,役員のミンアウンカインさんが朝の4時までかかって仕込んでくれたものだ。

「インド豆」と呼ばれる豆を一晩水に浸したものをすりつぶして,タマネギ,ニンニク,ショウガ,マサラスパイスなどを混ぜる。それを手で丸めてダンゴにして油で揚げると出来上がりだ。


これはとても美味しいし,ビールのつまみにもよい。しかも辛く作らないので,子どもの受けも良い。先週のダディンジュ祭りでも完売した。

そんなわけで今回も売れるに違いないと期待したのだが,そうでもなかった(さいわい赤字にはならなかったが)。

やはりビルマ関係のお祭りで売るのとは違って,普通の人は見慣れない食べ物にはあまり手がのびないようであった。

しかし,商品として悪いわけではない。試食してもらうとけっこう反応がよい。なので,売り方,関心の惹き方に改良すればきっといける,と思う。

後もうひとつ改良すべき点があるとすれば,こうした店をやるたびに,つげ義春の「散歩の日々」を思い出してしまう,というわたしの心構え以外になかろう。

放置しておけば,しまいにゃ石まで売りかねん。

2013/11/01

言語学の逆襲

エドモンド・リーチの『高地ビルマの政治体系』(1954,日本語訳は1995年,関本照夫訳,弘文堂刊)は文化人類学の名著にあげられるほどの本で,おそらくこの本だけでカチン民族のことを知っているという人も多いのではないかと思う。

すでに60年以上前の研究なので,現在の文化人類学から見てどのような評価をされているかは分からない。少し必要があって目を通したのだが,当時の文化人類学に対してものを言おうとしているようなところがあって(「今日の人類学がもつ社会構造概念の根本的転換が必要だと,わたしは主張したい(p316)」とか),当たり前のことだが,そうした部分は古くさく感じるし,また大して面白くもない。

この本のテーマのひとつは,従来の1言語=1民族=1文化という単位で定義するやり方が「絶望的までに不適当(p321)」な「カチン民族」をどう理解するかということで,これはわたしにも確かに興味深く思えた。

カチン民族というのは,実のところ民族ではなく,同じ文化を共有するいくつかの民族(ジンポー,マルー,アツィなど)の集合体であり,これは通俗的な民族概念,例えば「日本語話者=日本民族」では理解できない。

その「理解できない」ところがこの本では理論的に重要な役割を果たしているのだが,まあ,どこまで理解できたかは分からない。おなじみの親族構造の系統樹みたいのとその説明をすっかり読み飛ばしたからだ。

それはともかく,民族,言語を一対一対応させるやり方を批判するリーチは,その際にしばしば言語学を引き合いに出す。簡単にいえば,言語学者がひとつの言語の話者集団をひとつの民族と勝手に決めてしまうので,文化人類学者は迷惑している,と。

わたしはどちらかというと言語学に肩入れしており,とんだとばっちりを喰らった気分だ。

ところで,カチン語(ジンポー語)にはもともと文字はなかったが,19世紀末にアメリカの宣教師がローマ字をもとに文字を導入した。

ローマ字というのは現在の世界では主流の文字体系なので,カチン人は,ビルマ文字やそれと同系統の文字を使うカレン文字などにくらべていまのところ圧倒的にその利点を享受している。

どの国のどのコンピューターでもカチン語でメッセージを送ることができるからだ。

しかし,その一方カチン語には,ビルマ語やカレン語などと同じように声調というものがあり,ビルマ文字やカレン文字ではこれをかなりの程度正確に表すことができるのだが,ローマ字起源のカチン文字ではこれはたいていの場合表記されない。また,ローマ字にない音も表記することができない。

その結果,カチン文字の表記には曖昧さが生じることになる。

例えば,"lu"という単語がある。

これをカチン語辞書(オラ・ハンソンの"A Dictionary of the Kachin Language",これ自体非常に古い辞書だ)で見ると,いくつもの意味が載っている。

Lu 〜できる
Lu na 〜できる,〜しなくてはならない
Lu 3人称単数の動詞接辞
Lu 与える
Lu 乱れる
Lu 飲む
Lu 持つ

だが,カチン語についてわたしが持っているわずかな知識によれば,《飲む》のluの後には声門閉鎖音がある。

声門閉鎖音というのは喉の奥の声門による破裂音で,日本語にはないが,世界の言語ではありふれた音だ。「あ・あ・あ・あ」と母音をぶつ切りにして発声すると,「・」の部分で声門が閉じて開くのが分かるが,そのときにこの音が出る。

この音には"ʔ"という記号を当てるのが慣例となっており,したがって《飲む》はより正確には"luʔ"と表記されることになる。もっと正確に,"luʔ31"と声調を付け加えることもできる(31というのは,5段階に設定された声調の高さのうち3段目から1段目に下降することを示す)。

いっぽう,《持つ》と《〜できる》のLuにはそうした語末の子音がなく,声調を加えて表記すれば,"lu31"となる(この3つ以外の"Lu"についてはわたしは分からない)。

つまり少なくとも《飲む》と《持つ/〜できる》の3つについて言えば,カチン文字ではどちらも同じ"Lu"で表されるけど,本当のところ,両者はまったく異なる音だ。これはカチン文字体系が語末の声門閉鎖音を表すすべを持たないということに起因する。

ところが,リーチはこのLuについて次のように言っている。

「ルという語がもつ多数の意味のなかで,私が基本的なものと考えるのは『飲む』である。もし何かを飲めば,それを楽しみそれを『持つ』。もし何かすることがあれば,それが『できる』か『しなければならない』かである(p215)」 

この分析はそもそも成り立たない。というのも,《飲む》のLuと《持つ/〜できる》のLuは似ているけれど,まったくの別物だから。

これは,あたかも日本語の平仮名で書いた「はし」が「箸」と「橋」のどちらにも取れるのを見て,「はし」は2本の長い棒で成されることを示す,などとこじつけるのに似ている。しかし,実際のところ,「箸」の「はし」と「橋」の「はし」は(少なくとも標準語では)アクセントが異なるのであり,これはまったく別の単語と見なさなくてはならない。つまり,2つの単語に意味の繋がりを求めるのはまったく無意味なことなのだ(2種のLuが別物であることは実際にカチン語の話者に聞いて確認済みだ)。

それゆえ,"Lu"に関するリーチの考えはまったくでたらめといわざるをえない。 リーチは似たような誤りを他にも犯していいて,わたしは彼の文化人類学的分析の正当性も割り引いて考えなくてはならない,と思うようになった。

ああ,彼がもう少し言語学に敬意を払っていれば,このような過ちは防げたはずなのに!