2012/03/31

大瀧会長の「お願い」について

2012年3月21日水曜日に在日ビルマ難民助けあいの会(BRSA)ブログに「2012年3月月例会報告」と題する報告が出た。

この内容にはいろいろ分からないところがあるが、それはともかく「会長のお願い」と題された大瀧妙子会長の言葉がどうも一方的に思えたので、このエントリーに対してコメントをした。もっとも、掲載はされていないのだが。

なんにせよ、大瀧会長のこの非難がそのまま広まってしまっては、非難された人たち(誰かは分からないけれど)にとって公平ではないと思うので、わたしのコメントをここに掲載したいと思う。

(以下コメント)
「会長からのお願い」についてですが、オフィシャルな場を使って会長の名前でこうした一方的非難をするのはおかしいのではないでしょうか。

もしこうしたことをするのならば、調査委員会を設け、しっかりした調査、聞き取り、公平な議論をした後に公にすべきでしょう。しかしそのような報告は未だないようです。非難された人々は反論できないのですから、なおさらこのプロセスは重要です。

それに、このように公然と非難することは、難民認定申請中の難民の命に関わりかねないことですので、よほど慎重であるべきです。

あたかも大瀧会長は、会長ならば民主的手続きを経ずに何を言ってもしてもよいとお考えであるかのように見えます。これは果たしてほかで通用する考えでしょうか。

いや、もしかしたら、ひんしゅくを買っている「一部役員」は当の会長ご本人のことなのでしょうか? 

だったらいいのです。誰よりも先に自戒をする、これは、まさにトップに立つ人のあるべき姿勢ですから。

難民の命を守るという初心を忘れずに頑張ってください。

(コメント終わり)

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2012/05/29に補足を載せました。 「ひんしゅく」をごらんください。

難民を救うな

以下は、「平和の翼ジャーナル」第17号(2012年3月)に掲載してもらったものです。

難民を救うな

以前、あるビルマ難民男性が自殺したときのこと。

彼の妻子がビルマからやってきて葬儀に参列し、わたしはその様子をブログに書いた。すると、ある弁護士事務所からこんなふうに書いたメールがきた。「あなたの書いたものに自殺した男性の実名が記されている。これは、彼の家族の生命の安全に関わることだから削除してほしい。」 なんでも、彼の妻子の難民認定申請を担当しているから、とのことだった。そこで、わたしはこの男性の所属する難民団体のリーダーに尋ねてみた。すると「消す必要はない。というのも、わたしたちの団体は会員名簿を公開しているし、その男性もそれを承知で加入したのだから」とのことだった。弁護士事務所の方にはいい加減な返事をして、わたしは結局削除しなかった(ま、ブログごと消してしまったとしても、誰ひとり気がつきゃしないんですがね、残念なことに!)。

一般に難民を支援する人は、難民の命を守りたがる。安全上の理由、という名目で、難民の名前を隠し、居場所についてシラを切り、ついにはその存在すら抹消しようとする(これは今、第3国定住で日本政府がやっていることだ)。まるで、難民がある支援者なり支援団体の庇護下に入ったとたん、その難民の全人格、全権利まで自由にできるかのようだ(弁護士は依頼者と契約関係を結ぶから、いっそうそういう感覚になるのかもしれない)。危機管理の名の下なら、なんだってできる、報道陣を遠ざけたり、同じ難民との集会を拒んだり、秘密のアジトをつくったり、あるいはわたしのささやかなブログにすら削除を要請したり……(根に持つなあ)。

だが、難民の命は難民自身のものだ。弁護士のものでもなければ、支援者のものでも、政府のものでもない(そして、もちろんわたしのものでもない!)。

難民は命の危険があるから難民となったのだが、それはその人が自分の命を守ることができない、自分の命を適切に管理したり、自分自身のものとして扱うことのできない間抜けであることを意味するわけではない。難民はただ、自分の存在以外に根拠を持つ外的理由(政治、宗教、民族など)によって自分の命を脅かされたから、難民となったのである。
それゆえ、難民となること、あるいは難民であることをもって、その命がその持ち主の手から離れ、その人と離れたところで厳重に取り扱われ、箱に丁重に仕舞われてもいいという契約書に署名がなされたと見なすのは絶対に間違いだ。

なぜなら、それは結局難民をその人が逃げてきた場所へと連れ戻すことになるから。圧政、あるいは難民キャンプという監獄からようやく出てきた人を、難民という檻に再び閉じ込めることになるのだ(もうひとつの入管収容所……)。

だが、本当に必要なのは、その逆の仕事だ。難民が難民という檻から出られるように手助けすることだ。その命を「あなたの命を守る」と言う他の誰かにゆだねさせることではなく、難民が、その命を自分で守ることができるように、自分の命を自分のものとして使えるように手助けすることだ。難民を救うだなんてもってのほかだ。むしろ、難民から、脅かされてきた命を、否定されてきた人間性を救い出さなければならないのだ。

パスポートの問題

以下の文は、在日ビルマ難民助けあいの会(BRSA)機関誌「セタナー」第4号のために昨年書いたビルマ難民会員向けの記事ですが、ビルマ語に翻訳してもらうには長過ぎたためボツにしたものです。

「あなたはビルマから逃げるときに、正規の自分名義のパスポートを取得し、それを使ってヤンゴン空港から出国したと言っています。一方あなたはビルマ政府に逮捕される危険があるとも主張していますが、もし本当にそうならば、自分の名前でパスポートを取ることも、ヤンゴン空港から逃げることもできなかったはずです。それゆえ、あなたの主張は嘘であり、難民と認めることはできません」

これは難民不認定理由として入管が繰り返す理由ですし、皆さんの中にも同じようなことが不認定理由書に書かれていた人がいるかもしれません。

これはもちろん誤った考え方ですが、皆さんにまず気がついてもらいたいのは、これは日本人の目からみればこれはまさにその通りだということです。

日本ではある人物が指名手配された場合、その情報は短い間に、日本全国の警察やその関連する組織に連絡されます。外国に逃亡する恐れのある人物であれば、空港で厳重な警戒体制がとられ、指名手配された人はだれにも気づかれずに外国に出ることはまずできないといっていいでしょう。

わたしは警察関係者ではないので、日本の警察が本当にそんなに有能なのかどうかはわかりませんが、わたしは少なくともそのようなイメージを持っています(もっとも最近、警察も入管も、指名手配犯を見逃すという失態をそれぞれ演じていますが)。

そして、おそらく難民認定審査に当たる人も警察の実情は知らないにせよ、わたしと同じようなイメージを持っていることでしょう。いや、多くの公務員は自分の組織に誇りを持っているはずですから、民間人のわたしが思うよりもずっと強く日本の警察を信頼しているかもしれません。

なので、たいていの日本人はあなたが「軍事政権に命を狙われているため正規のパスポートを取ってヤンゴン空港から逃げ出した」という事実を理解できないのです。それどころか「こんなことはありえない。きっと嘘をついているに違いない」とあなたについて結論づけるのです。

これは仕方のないことです。日本人は、パスポートをとるのにブローカーやワイロが欠かせない社会を想像できないのです。お金を払えばどんな名前のパスポートも作れる政府も想像できないのです。公務員がまともに働くことができず、みんながバラバラに行動し、連絡も、管理も、調整も、合意も、協力も存在せず、ただ脅しだけが存在する政府を思い描くことができないのです。

もちろん、日本の公務員もワイロを受け取ることがあります。しかし、そうした事件はほとんどの場合、ギャンブルや女性問題で多額のお金を必要とする人が起こす特殊なケースのようです。ビルマのように普通の公務員がワイロをとるのとは事情が違います。ビルマでは、政府が給料を払ってくれないため仕方なく生活のため普通の公務員がまるで手数料のようにワイロを取るのです。ワイロを受け取らない公務員のほうが特殊なのです。そして、そうしたワイロを受け取らない公務員が「融通の利かない悪い公務員」として責められ、ひどい場合には反政府主義的だとして逮捕される社会なのです。これはまったく日本人の理解を超えたことです。なぜなら、日本社会ではワイロを受け取るような公務員はいずれ警察に逮捕されるものですから。これはいかに軍事政権下のビルマで、正義が期待できないかの一つの事例です。

このような政府だからこそ、あなたをはじめとする多くの国民が国から逃げざるをえないのですが、それでも日本人は自分の国の政府しか想像できませんから、ビルマの政府も日本の政府と同じようなものだと想像するのです。これは日本人の想像力が足りないことに由来するのですが、誰もが想像力豊かなわけではないのでこれは仕方がないことといわなければなりません(そもそも、自分の国から逃げ出すこと自体が日本人には想像できないのです)。

だからこそ、難民認定申請する皆さんが、日本人がわかるように、想像できるように話すことが重要になるのです。ここで必要なのは皆さんの想像力です。日本人にとって何がわからないかを想像しながら、自分が難民であることを説明しなければならないのです。自分が正しいと思うことをそのまま話せば相手が理解してくれると思ったら大間違いです。常に相手の立場に立って自分のことを話すことを心がけなければなりません。

こんなことを書くと、不愉快に思う人がいるかもしれません。日本は難民条約に加盟しているのだから、それくらいのことは理解していなくてはならない、それなのに相手のせいにするとは日本人というのは本当に傲慢だ、と。確かにそうかも知れませんが、傲慢というものはたいていの場合、無知から生じます。それゆえ、相手がわかるように話すというのは、相手の傲慢を治療する一番の薬なのです。そして、重要なのは、日本社会というのは鈍感で傲慢かもしれませんが、ビルマ政府に比べればずっと頭が柔らかいということです。何度も何度も諦めずに繰り返しいえば、いつかはきっと理解します。日本の難民政策も、多くの難民たちがこつこつと諦めずに自分の思いを訴えてきたために、少しずつ変わってきたのです。

最後にあなたのパスポートに関して入管が上記のように主張してきたらどのように答えるべきかについていくつかのポイントをまとめておきましょう。わたしはビルマの国民ではないので実際には皆さんのほうがよくご存じでしょうが、それだけでは十分ではなく、日本人がわかるように話を整理する必要もあるのです。

1)ビルマではパスポートを取得するのにブローカーを利用しなくてはならない(ところで、ここでわたしが想定しているのは、多くの難民が来日した1988年から数年前までのことです。最近は事情が違ってきているかもしれません)。

2)ブローカーを通じないでパスポートを取得することもできるが、とんでもなく時間がかかる。

3)そのため、実際にはブローカーを利用するのが唯一の手段となっている。

4)ブローカーを通じてパスポートを作るので、お金さえ払えば、政府に追われている人でも、自分の名前で、あるいは偽名でパスポートを作ることができる。

この4)には二つの理由が考えられます。

まず最初の理由は政府の機能不全に求められます。パスポートを作る部署と、政治犯を追う部署はまったく別の部署ですが、まともな政府であるならば、相互に連絡が行われ、情報交換が行われているはずです。たとえば、日本で指名手配されている人がパスポートの取得のために公的機関に出向いた場合、その公的機関の職員があらかじめ警察から連絡を受けており、手続きの過程でその人について気がつき、警察に通報するということは十分ありうることです。しかし、ビルマの場合は政府の各部分の連絡がまったく行われず、機能していない状態なので、一方の情報が他方に行き渡ることはありません。またたとえ伝達されたとしても、その速度は非常に遅いので、迫害された人が迅速に行動すれば政府の目をくぐり抜けることは可能なのです。

しかし、たとえパスポートの部署が申請した人が政府に追われている人だと気がついていたとしても、それでもその事実はパスポート発行の妨げにはなりません。なぜなら、その部署の職員がその事実を警察や軍の情報部に通報することは考えにくいからです。その職員が軍の関係者であっても関係ありません。いや、軍の関係者であればなおさら結構です。

ではどうしてそんなことが起きるのか。これは簡単です。そのためにブローカーがいてワイロがあるのです。

ある職員がいるとしましょう。あなたのパスポートの申請書類を見て、あなたが軍に追われている人だと気がつきます。だが、彼は同時に、その書類を懇意のブローカーが持ってきたこと、そして、その書類の中にお金の詰まった封筒があることも知っています。その職員はとんでもない不正が行われていると怒って当局に通報するでしょうか。その通報を受け取った軍関係者が直ちに動いて、「悪人」が逮捕されて、その職員が感謝されるということが期待できるでしょうか。実際に起こりうるのはまったく逆の事態です。その職員はその通報のせいで困った事態に陥る可能性があるのです。なぜならその通報を受けとった軍人が、ブローカーのボスであるということも大いにありうるのです(たいていのブローカーは軍関係者です)。あるいはそうでなくても、その潔白な職員は上司に睨まれる結果になるかもしれません。何せみんなワイロを貰っているので、それを拒否することは職場に波風を立たせることなのです。ひどい場合にはその上司はさらに上級の軍人にその職員について悪意のある告げ口を行い、激しい弾圧に晒されるかもしれません。もしそうなれば、その職員は職も家族も失うことになりかねないのです。

もはやその職員がすべきことは明らかでしょう。どうしてワイロを拒否できるでしょうか。受け取るのがもっとも安全なのです。しかも、そのお金で家族の生活が豊かになるときてはなおさらです。その職員は黙ってワイロを懐に入れ、粛々とブローカーの意のまま手続きを進めることでしょう。

5)自分名義のパスポートであっても、堂々とヤンゴンから出国することができるのは、その出国の際にもブローカーが同行し、入管幹部と問題がおこらないように仕切るからである。

どうして問題が起きないのか? それは先ほど述べたパスポート担当の職員の場合と同じです。入管幹部にとっても黙ってワイロを受け取り、見過ごすのが一番安全な選択肢なのです。

これこそが政府の腐敗です。日本の社会にもそのような腐敗がないとはいえませんが、しかし幸いなことにビルマのように社会全体に及んでいるわけではありません。多くの国民が日本の政府を信頼しています。多くの公務員がそれに応えようと働いています。政府や行政を批判し、改良していく仕組みも機能しています。そうした社会に暮らす日本人にとって、ビルマの状況というのはまったくの不可解なのです。

2012/03/30

8888のある夜の出来事

以下は、在日ビルマ難民助けあいの会(BRSA)会員のキンウー(KHIN OO)さんが、2010年8月に『平和の翼ジャーナル』第10号にビルマ語で発表した記事で、1988年の8888民主化運動の経験が生々しく語られています。

もともと難民認定申請用に作成された日本語訳に、わたしが手を加えてBRSA機関誌「セタナー第4号」に発表したもので、著者の許可を得てここに掲載します(当時の状況に関しては田辺寿夫さんの『ビルマ民主化運動1988』梨の木舎を参考にさせていただきました)。

8888のある夜の出来事

軍事政権の不正な経済政策、政治、支配体制のもと、国民たちは日々困難に直面していたが、その不満が高まりつつあった時に起きたのが、ポーンモウ事件だ。1988年3月13日のことである。

ラングーン工科大学のある西チョウゴン地区の喫茶店、サンダーウィンで三人の学生と4人の市民がカセットテープをめぐり喧嘩をしたのが発端である。ビルマ社会主義計画党政府の不正な法律により、喧嘩がまともに解決されなかったため、学生たちが立ち上がる事態となった。騒動が激しくなると、軍事政権の治安部隊は学生たちに銃を向け、大学構内にまで突入してきた。上層部からどのような命令があったのかは定かではないが、治安部隊を目の前にして、学生たちはますます抗議の声を強めた。軍事独裁政権がついにその正体を現したのだ。コー・ポーンモウはこのときラングーン工科大学で銃弾により殺害された。そして、もうひとりの学生コー・ソーナインも重傷を負い、数日後に死亡する。軍事政権の非人道的な行動により、このポーンモウ事件が発生した。軍事政権は反政府活動を主導するラングーン工科大学をかねてから敵視しており、それが今回の復讐的行為となって現れたのだ。

弾圧があるかぎり反発するのは人間の自然な姿だ。心を痛めた学生たちは屈することなく抗議活動を続けた。運動はラングーン工科大学からラングーン大学へと広がった。3月16日に軍事政権はインヤー湖畔の通りでデモを行う男女の学生たちに襲いかかり、水面が血に染まるほどの虐殺を行う。インヤー湖畔事件、あるいは赤い橋事件とも称される事件である。後に大統領となるセインルイン自ら鎮圧を指揮し、民話の中の人食い鬼の踊りにある「打って痛めつけろ、打って痛めつけろ、頭を狙って打つんだぞ、打って打って勝てば褒美ぞ」という歌さながらの残酷さで学生たちをはげしく弾圧した。軍事政権こそが人食い鬼と化したのだ。

学生たちから始まったこの民主化闘争に賛同し、これに敬意を感じていた国民たちも、やがて加わるようになった。運動が深まり広がったのだ。すべての国民があちこちで学生たちと団結し、その活動を支援し始めた。長い年月の間、軍事政権に裏切られ続け、経済的、政治的、社会的に苦しんでいた国民たちは、学生たちの訴える正義に共感し、希望を託したのだ。

7月23日、混迷する事態を受けて、政府トップのネウィンが党議長の辞任を表明した。だが、軍事独裁政権の最高責任者は、このとき国民に対してもっとも恐るべき言葉を投げつけたのだ。「今後、人々が集まって騒ぎを起こした場合、ただでは済まない。軍は発砲するときは、命中するように撃つ。空に向けて威嚇射撃などしない」

後釜に座ったのは悪名高きかのセインルイン(カレン人指導者ソウ・バウジーを虐殺したのも彼だ)。軍事政権トップとなったセインルインは、8月4日、ラングーン市に戒厳令を敷き、地方に駐留していた部隊1万人を呼び戻し、ラングーン市内に陣取らせた。

1988年8月8日、8が4つ並ぶこの日に、学生と市民たちはかねてからの計画通り、大規模な抗議活動をビルマ全土で開始した。が、軍事政権はこれにたいしはげしい弾圧を加える。ラングーンでは、マハーバンドゥラー公園前でデモを行う数千人の国民たちが全滅した。

当時各地区の学生、青年たちは、国民たちと協力して民主化要求デモを行おうと考え、シュエダゴン・パゴダへのデモ行進を準備していた。わたしもまたそれらの若者たちのひとりであった。

わたしたちは、深夜0時に北オッカラーパに集合した。そして、ビルマ軍の無慈悲な行いと、軍事独裁の悪について演説し、討論した。その後、同志である兄弟たちとともに、シュプレヒコールを叫びながらデモ行進を始めた。メラム・パゴダに着いた頃、わたしたちは兵士たちを詰め込んだ軍用トラックと並んで進みながら、「国軍の兵はわたしたちの兵、アウンサン将軍の教えは学生や国民を殺すためではない」と叫び、軍の歌を歌った。8月だったので、雨が降っていた。わたしたちは前もって準備したアウンサン将軍の写真、タキン・コー・ドウフマインの写真、旗を掲げながら、4列になって整然とデモ行進をしていた。「社会主義計画党政府はいらない! 独裁政権をただちに廃止せよ! セインルイン政府はいらない! 我々は民主化を成功させる!」などと叫び続けた。

深夜1時に、北オッカラーパから、カバーエイ・パゴダ通りに着いた。そのとき、精神病院のほうから軍用トラックがパーラミ市のほうへと猛スピードで走っていくのを見る。わたしたちのグループも行進するのが難しくなる。「デモを止めて、バラバラになって来た道を戻るのだ、帰れ!、5分以内に言う通りにしなければ発砲するぞ」とセインルインの軍隊が命じた。わたしはそのとき旗持ち部隊のひとりとして先頭集団にいた。厳しい顔で軍を睨む。まぶしい照明の中、銃剣がきらめき、くっきりとその細部が見えた。

わたしたちはといえば武器などなかった。旗竿で立ち向かうのがせいぜいだ。あとはアウンサン将軍の写真ぐらい。結局は逃げるしかなかった。

兵士たちは武器を片手に追いかけ、逮捕しようとした。わたしは当時21歳、走って逃げることができたが、子どもや年配の男女はそれも難しかった。わたしは北オッカラーパの路地に逃げ込んだ。足音で、兵士が5人ほど追ってきているのがわかった。みんな周囲の民家に逃げ込んでいた。わたしもある家に助けを求めたが、人で一杯で入れてもらえなかった。別の家を探している余裕はなかった。安全な場所を見つけて隠れるほかなかった。そこで、その家の軒下に潜り込んだ。膝上まで泥水に浸かった。これではもう走れない。頭の上でどたどたと足音が聞こえた。軍人たちが家に上がり込んだのだ。窓を開く音、家の持ち主たちを怒鳴りつける声。軍人たちは部屋に入り込んで、蚊帳を引きはがして隠れている人を捜していた。やがて2階に匿われていた人たちがみんな見つかってしまった。引っぱり出されて、軍用トラックに載せられるのが聞こえた。軍靴で蹴る音、軍帽で叩く音、さまざまな音が聞こえた。いよいよわたしの番だ。軍人たちが家の下を照明で照らしながら探しはじめたのだ。泥の中にじっとしていることができずに逃げ出そうとした人々は、みな軍人たちに捕まってしまった。わたしはといえば、仰向けになって全身泥に浸り、鼻だけ外に出して呼吸をしていた。そうやって30分ばかりじっとしていた。生まれてはじめての経験。恐怖のあまり、心臓が破裂しそうだった。今捕まったらどうなる? そんなことばかり考えていた。やがて軍用トラックが出発する音が聞こえた。だが、まだ安全とはいえなかった。真っ暗闇でなにもわからない。40分ほど経ってから、ようやく隠れていた人々みんなが外に出てきた。それぞれが自分たちの経験を語った。わたしは情けなくて笑ってしまった。

9日の朝から、銃撃の音が鳴りはじめ、激しさを増していった。軍はまるで悪魔に呪われたように人々を殺していた。しかし、その最中でも、緑の制服をまとった学生たちがアウンサン将軍の写真を胸に抱いて勇敢にデモ行進を続けていた。デモが止む気配はなかった。決死の覚悟でデモに参加する人々の勇士のような精神が人々を駆り立てていたのだ。

デモは全国に広がっていた。8888民主化要求が爆発したのだ。これを押しとどめることは不可能だった。人食い鬼の歌とともに登場した大統領セインルインは、8月12日に退陣することとなった。その後、8月26日、わたしはシュエダゴン・パゴダ西門広場の集会でアウンサンスーチーさんの微笑みを見た。ビルマがこの民主化の微笑みをいつでも見られるような国になってほしいと祈りながら、筆を擱く。

失われるべき10年 and more

先日、在日チン民族協会(CNC-Japan)主催の無国籍問題のワークショップについて書いたが、日本国籍取得(帰化)の話題も出た。どうしてこれが問題になるかというと、それが無国籍の子どもが国籍を取得する手段のひとつだから。

もちろん、日本国籍取得というのは容易ではない。日本人と結婚した外国人ですら苦労させられると聞くから、オーバーステイの後に難民認定申請し在留を認められた人にとってはさらに難しそうだ。

難しそうだというのは、実際例がないためだ。いや、ビルマ難民で帰化したという人はいる。だが、それはあくまでも噂のようなもので、実際に名乗り出ている人はいないともいう。これにはいろいろな理由が考えられるが、ま、要するに数が非常に少ないということだろう。

それはともかく、ワークショップでチン民族のある男性が話してくれたのだが、帰化申請のため法務省の窓口に行ったとき、こんな風に言われたそうだ。

「あなたの場合は、10年経ったらきてください」

この「10年」で会場は盛り上がった。これはオーバーステイを埋め合わせるものなのか? それとも難民は誰でも10年待たなくてはならないのか? そして、その年数は法的に何を根拠としているのか? 人々の疑問はこうしたものであったが、わたしを含めて誰にもこれに答えられるものはいなかった。

「ひょっとして対応に出た職員が意地悪な人だったのかもしれないよ。10年といえば、すごすご引き下がるかと思ってさ」と誰かが言う。

わたしはひそかに思う。「しかし、その法務省職員てのが実は一番やさしい人で、他なら20年のところを大負けに負けてくれてたりして……」

2012/03/07

ある母親の話

さて、CNC-Japanの無国籍問題に関するワークショップで、自分の体験について話してくれた会員もいた。次はある母親の話をまとめたもの。

わたしは1990年代はじめに4歳の息子を連れて、日本にやってきました。日本語がわからず、2人での生活は大変でした。

チン民族はそのとき日本にいましたが、難民認定申請する人はいませんでした。ビルマ人はそのころから多かったのですが、わたしたちは難民申請についてよく知らなかったのです。

また、当時は難民支援をしている団体についても知らず、何も分からないままに、生活のために朝から晩まで働き詰めでした。

子どもは4時間だけ預けることができましたが、わたしは迎えにいくことができないので、わたしの親族が代わりに迎えにいってくれました。そして、息子はわたしが帰ってくるまで1人きりで待っていたものでした。

子どもの教育も何一つ満足にしてあげられませんでした。わたしは母親失格です。今は、わたしも、そして後からきた夫も難民として認められましたが、現在23歳になるわたしの息子は、無国籍です(注:日本で生まれたのではないので、おそらくビルマで正式に国民として登録されていないということだろう)。

この状態を変えるためにはどうしたらよいでしょうか?

2012/03/06

無国籍の子どもたち

在日チン民族協会(CNC-Japan)が3月4日の夜、会員向けに無国籍問題に関するワークショップを開いた。

わたしはCNC-Japanの人とちょっと打ち合わせすることがあって、たまたま会場にやってきていたのだけど、「どうぞ」と言われたので、そのまま参加した。

無国籍問題というのは最近注目されてきた問題で、ビルマ難民に当てはめれば次のような場合がよくあるケースだ。

ビルマ難民同士で日本で結婚して、子どもが生まれた場合、政治難民なのでビルマ大使館では出生手続きができない。しかし、かといって、ビルマ難民が日本国籍を持つことはとても難しいので、出生届は出せるが、生まれてきた子どもは日本国籍を取れない。つまりどこの国籍にも属すことができない、無国籍となる。

もちろん無国籍だからといって、いろいろな面で不都合が生まれるわけではない。多くの無国籍の子どもたちが保育園から大学までいるし、少なくとも教育の点ではひどい不利益を被っているとはいえない。

ただ、ひとつ問題として指摘されるのが、外国に行くときで、無国籍の人はパスポートがないため、再入国許可というのが必要で、いろいろと面倒くさい。今時の中高生は修学旅行だ、語学留学だで日本を出ることも多いから、子どもによっては厄介な思いや、つらい思いをするかもしれない。

しかし、本当の問題が生じるのは、学生時代の後だ。例えば就職。無国籍だと就職が制限されるのではないか? それから、国籍を持つ親元を離れて、独り立ちしたときに何が起きる? 銀行、クレジットカードは大丈夫か? 結婚するときには? 子どもが生まれたら? あるいは、帰化することができるのか? それとも一生無国籍のままなのか?

親たちは、難民認定申請の結果、難民認定されたり、 在留許可を得たりして、一応の生活の安定を得たものの、自分たちの子ども、無国籍のまま成長している子どもをみるにつけ、心配にならざるをえない。将来になにか不都合が起きるのではないか、あるいは無国籍が障害となって望むような人生が生きられないのではないか……。

1988年の民主化運動以降、日本に逃げてきた人たちが、結婚し、子を生み親になった。これらの子どものうち最初の頃の世代、つまり1990年代はじめに生まれた子どもたちは、もう成人を迎える年頃だ。

もちろん、日本には昔から無国籍の子どもたちについて似たような問題があっただろうが、ビルマ難民の文脈では、無国籍問題とは今まさに難民たちが直面している熱い問題なのだ。

そして、CNC-Japanは会長のCin Lam Lunさんをはじめとして、無国籍の子どもの親である会員が結構多い。そんなわけで、CNC-Japanはしばらく前からこの問題に熱心に取り組んでいて、今回のワークショップも、その延長線上にある。

ワークショップの講師を務めたのはビルマ市民フォーラムの先生で、わたしはこの問題についてはよく知らなかったので勉強になった。ちなみに日本には1,200人の無国籍の子どもがいるそうだ。

しかし、質疑応答での「では具体的にどうしたらよいのか」という難民たちの切実な問題に関してはうまく答えられないようだった。

これはなにもこの講師の方が勉強不足なのではなくて、問題が新しく、情報の蓄積・共有があまり進んでいないため、いわば誰にも答えることができないのである。

講師の方が「無国籍ネットワーク」という団体を紹介していたが、こうした団体に色々な経験や情報がいずれ蓄積されるはずで、しばらく経てば、この問題ももっと取っ付きやすくなるに違いない。