2012/12/23

デモの意味(5)

さて、それ以外にもデモの意味がある。

入管に収容されていた人のことを念頭に置いて言うのだが、これらのつらい経験をした人の中には、言うに言われぬ悲しみを抱いている人もいることだろう。そうした人にとって、デモに参加して、何かを叫ぶ、思いの丈を訴える、というのは止むに止まれぬ行為であり、政治的効果云々という次元に収まらない人間の尊厳を回復する行為でもある。

デモに懐疑的なわたしではあるが、こういう人たちに「デモは意味がない」などと冷たいことを言う気にはならない。

また、現在難民認定申請中の人にとって、ビルマ大使館前で行われるデモに参加することは、入管に対する政治的活動の証明となる。

申請者は自分がデモに加わっている写真を入管に提出するわけだが、その写真が本当に難民認定に足る政治活動の証明になるかどうかについていえば、面白いことに入管と申請者のどちらも否定的である。

わたしはこの写真が証明するのは、申請者の政治活動というよりも、定期的にデモに通うまじめさと、それを入管にきちんと報告する几帳面さを兼ね備えた申請者の人柄ではないかと思っている。

そして、こうした人柄が難民審査の結果に影響を与えているのではないか、というのがわたしの持論だ。もちろん、まじめでない人間でも難民は難民なので、そのような心証が審査に影響を与えてはいけないと思うが、難民審査は人間が行うものだから、仕方のない側面がある。

だが、まじめでなかったり、ぐうたらだったり、自分のことをうまく言い表せなかったり、心が病んでいたり、偏屈だったり、歪んでいたり、アルコール依存だったり、バカ正直だったり、嘘をつく癖があったり、頑固だったり、相手と話を合わすことができなかったり、敵対的だったりする人は、現在の難民認定制度では非常に苦労する。

しかし、そうであってもこれらの人々は難民であり、まじめな立派な難民に比べて命の価値が低いというわけではない。

そうした人も難民として庇護されるにはどのように社会とシステムを変えて行ったらいいのか。確かなのは、そのためのデモはなかなか気勢が上がるまい、ということだ。