2009/08/31

8月8日に生まれて

民主化要求デモがビルマ全土で一斉に行われた日であり、反政府活動においては今なお特別な意味を持つ1988年8月8日にあるカチン人の女の子が生まれた。

彼女の母は、娘が学校に上がるとき、誕生日をごまかした。この記念すべき数字が、ビルマ軍事政権の敵意を引き起こし、娘の命が脅かされるのではないかと恐れたのである。

非ビルマ民族がビルマ民族に対して抱く恐怖の一例として。

2009/08/29

頼まれたもの

3年前にタイ・ビルマ国境に行ったとき、カレン人国内避難民の支援をしているカレン人活動家から、小型の望遠鏡を日本から送ってくれないかと頼まれた。詳しく聞いてみると、銃に付けるスコープのようだ。

彼が言うには、ビルマ軍部隊というのは有象無象の集まりなので、隊長さえ狙撃してしまえば、一気に崩壊してしまうのだそうだ。

部隊を瞬く間に潰走させ、カレンの村人たちを守る。質の良いスコープさえあれば銃弾一発でこれが可能なのだという。

その後、国境からバンコクに戻り、ハイテク製品デパート、パンティップ・プラザに行った。すると、ある店舗で、照準器を扱っているではないか。

ぼくはガラスケース越しにさまざまな太さ・長さのスコープを見つめた。暗視装置の付いたものもある。女性の店員がガラスケースからスコープを取り出し、目 の前に並べてみせた。手に取って、ファインダーを一応覗いてみたりした。

値段を聞くと、高いことは高かったが、買えない値段ではなかった(正確な値段は忘れてしまった)。

ぼくは自分が寄付したスコープでビルマ軍の隊長が射殺される様子をしばらく思い描き、結局何も買わずにその店を後にした。

2009/08/26

カレン殉難者の日式典報告(3)

(スピーチの続き)

2006年12月には、カレン人の状況を日本のみなさんに知ってもらおうとセミナーを開催したのですが、そのときにはポールチョウさんをオーストラリアからお呼びして、講演をしていただきました。その際には、今回と同様、田辺寿夫さんに通訳していただきました。

昨年田辺さんが出版された本『負けるな! 在日ビルマ人』(梨の木舎刊)の218ページでそのセミナーの様子も取り上げていただきました。本当にポールさんと田辺さんにはお世話になっております。感謝を申し上げたいと思います。

最後にOKO-Japanの現状をお話しして終わりにしたいと思います。

現在の会員数は34名です。男性も女性もメンバーに加わっています。20代前半から60代の方まで年齢層は幅広いです。

カレン人にはいろいろなカレン人がいますが、OKO-Japanにはスゴー・カレン、ポー・カレン、そしてブエー・カレンの方がいます。

宗教はキリスト教徒の方もいれば、仏教徒の方もいます。

出身地はといえば、ヤンゴン、デルタ、カレン州とまた広域に渡っています。

独身の人もいれば、既婚者もいます。既婚者でも家族をビルマに残してきた人もいれば、日本で一緒に暮らしている人もいます。

最後に付け加えれば、難民として認定された人もいれば、在留特別許可をもらった人もいます。また現在難民認定申請中の人もいます。

本当にいろいろな背景をもったメンバーがいます。ぼくはカレン人の一番よいところはこうしたいろいろな人がいるというところではないかと思っています。

それぞれ異なる背景をもつ人々が協力し合うということが、カレン人の魅力であるし、こうしたことを日本の人にももっと知ってもらいたいと思っています。

OKO-Japanだけでなく、KNU-Japan、KNL-Japanにもそれぞれ特徴があります。これらのグループの中にもまたいろいろな人がいる、そうした日本の中のカレン人社会の多様性、その面白さをぜひ伝えたいと思っています。どうもありがとうございました。(終わり)

2009/08/25

カレン殉難者の日式典報告(2)

今年のカレン殉難者の日の式典では短いスピーチの時間をいただきました。海外カレン機構(日本)と在日カレン人の紹介になると思うので、以下掲載させていただきます。

海外カレン機構(日本)、OKO-Japanは2006年3月に結成されました。その目標は、ビルマ民主化、そしてカレン人の解放におかれていたのですが、さらに国外のカレン人難民の支援という目的もありました。

そのためにタイの国境で活躍されているシンシア・マウン医師に相談したりなどして活動をはじめました。

結成時のメンバーはぼくを含めて20名でしたが、当時これらのメンバーの中で外国に行けるのは、ぼくともうひとりのメンバーしかいませんでした。そんなわけで、国際プログラム担当をまかされることになり、OKO-Japanの任務としてタイの難民キャンプに行ったりしていました。

でも、今では当時の20名のメンバーすべてが日本での滞在資格を得るということになり、したがって、だれもが自分でタイに行くこともできるようになりました。2006年から2009年までの間に、グループの状況もどんどん変わってきているということです。

こうした支援活動のほかに、デモ活動などに参加するなどの活動も行っていますが、特筆すべき活動はこの「カレン殉難者の日式典」の開催です。

OKO-Japanが日本で開催するのは2006年からはじめて4回目ということになります。このカレン殉難者の日がOKO-Japan、カレン革命の日がKNU-Japan、カレン民族記念日がKNL-Japanが主催するというように、日本にある3つのカレン人グループが3つの重要な記念日を分担している、という状況です。

2009/08/24

カレン殉難者の日式典報告(1)

カレン殉難者の日式典が海外カレン機構(日本)の主催により、8月16日、池袋の豊島区勤労福祉会館で行われた。参加者は80人弱で、ほとんどがカレン人であった。日本人が9名。アラカン人、ビルマ人、モン人あわせて数名。

カレン民族のために亡くなった人々を悼む半旗掲揚

献花

会場の様子。迷彩服の人はKNU-Japanのメンバー。
こういう姿があるとなんだかタイ・ビルマ国境に来たような感じがします。
日本ではあまり意味はないですが。


半旗掲揚、カレン民族歌斉唱、献花などを除けば、主な内容は次の通り。

1)海外カレン機構(日本)の声明

2)カレン民族同盟の声明

3)民主党議員今野東さんからのメッセージ代読

4)オーストラリア在住のカレン人ポールチョウさんのスピーチ

5)参加者全員による歌


このうち4)に関しては、ウー・シュエバこと田辺さんの通訳があるので、いずれご紹介する予定。

また5)の歌は、在日カレン人のサ・タウンウィンさんがその様子をYouTubeにアップしているので、興味のある方はご覧ください。

YouTube- tell me why (Karen in Japan)

2009/08/23

インドのカレン人

カレン殉難者の日のために来日したオーストラリア在住のカレン人活動家、ポールチョウさんから、インドのカレン人についての話を聞いた。

アンダマン諸島のアンダマン島の北部にカレン人が3000人ほど暮らしているのだそうだ。以下は2008年に訪問したポールさんの報告である。

これらのカレン人はもともとこの島に住んでいたのではない。イギリス植民地時代にパテインから移住したのだという。

移住の経緯はといえば、当時アンダマン島では労働者が不足しており、イギリス人宣教師が同じ英領から英領へとキリスト教徒カレン人を連れてきたのだそうだ。

移住の公的な記録は1925年からだが、実際にはそれ以前に移住ははじまっていたらしい。

これらインドのカレン人は、スゴー・カレン、ポー・カレンのキリスト教徒からなり、農業・漁業に従事している。なかには、アンダマン諸島の行政のトップとして働くカレン人もいるとのこと。

カレン人としてのアイデンティティはしっかり保っているが、インド文化の中で暮らしているため、時にサリーを着用したり、額に印をつけたりなどし、中にはインド風に首を横に振って肯定の意を表す者もいる由。

インド政府はビルマ国籍の者に滅多にビザを出さないので、アンダマン島のカレン人を訪問するビルマのカレン人はまれである。また、これらのインド国籍のカレン人も、同胞が迫害されているビルマの地を訪れることはない。

ゆえに、オーストラリア国籍カレン人のポールさんの訪問は、久々のビルマ出身のカレン人との交流ということで、アンダマン島のカレン人は皆大いに喜んだという。

なお、2004年のスマトラ沖地震の津波では、さいわいにも犠牲者は出なかったとのことであった。

2009/08/20

写真は恐怖を写し出す(おまけ)

「写真は恐怖を写し出す」を読んでくださったある方が、ぼくに「入管の職員にでもなりたいのか」と冗談まじりに尋ねた。

これはぼくがあるビルマ国籍の活動家を批判したことを指しているのだが、もちろんぼくは入管の職員になりたくってあんなものを書いたわけではない。

だが、読んでくれた人のなかにはそんな風に誤解した人もあるかもしれない。そんな風にというのは、あたかもぼくがある人物を偽の難民だと告発しているかのように、という意味である。

だが、読んでいただければ分かるように、ぼくはそのようなことは一切言っていない。それどころか、ぼくはその人物がまぎれもない難民であり、ビルマに帰国すれば間違いなく殺害される、と考えている。

むしろぼくがほのめかした、あるいははっきりと言うべきだったのは、難民だからといってまともな政治活動家とは限らない、という単純な事実である。

この点に関しては、当のビルマ難民にも誤解している人がいる。つまり、ある人が在留特別許可ではなくて難民認定されたのは、その人が政治活動家として優れているからだと、考えてしまうビルマ難民もいるのである。

だが、入管はあくまでも難民かどうかを判定するところであって、政治活動家として優れているかどうかを決めるところではない。もちろん、優れた政治家活動家、影響力のある政治活動家は難民である可能性は高いが、そうでなくても難民として認められる理由はいくらでもあるのである。

たとえば、ビルマのいわゆる少数民族が直面している民族的迫害がそれだ。民族を理由にした迫害はその被害者がただ単にある民族に属しているという理由のみで起こりうる。つまり被害者の人格や才能は民族的迫害においては本質的な原因とはならないのである。

それに、優れた政治家のみが難民となるとしたら、ある避けがたい矛盾に直面することとなる。すなわち、優れた政治家のみがビルマで命を狙われるということは、迫害者である軍事政権がその政治家の優れている理由や民主主義の価値というものを深く理解しているということ、民主主義的政治活動の優れた判定者であるということを意味していなくてはならない。だが、ある政府が民主主義というものを心底理解しながらそれを拒絶するということはありえないのである。

軍事政権が民主主義を拒絶するのは、民主主義を理解していないからだ。それを何か恐ろしい脅威とみなしているからだ。軍事政権はこの恐れに突き動かされて、よい活動家であろうと悪い活動家であろうと、糞も味噌も一緒に政治に関わる者を全てを見境なく踏みつぶしつづけているのだ。

2009/08/14

写真は恐怖を写し出す(7)

さて、2009年1月のこと、在日カレン人がカレン民族新年祭を東京で開催することになった。カレン民族新年祭というのはカレン人の伝統行事のひとつで、日本でも毎年開催されている。ターターの団体は1月のある日曜日を開催日として提案したが、他の2グループは別の日曜日を押し、結局多数決で後者の日程に決められた(ターターの団体はメンバーがビザを取ると次々に離れていくので、公称上はともかく人は少ない)。すると、ターターは次のように言い放ったという。

「わたしたちの団体は今年の新年祭には協力しない。お前たちだけでできるならやってみろ」

ターターの読みとしては、いずれ自分の力が必要になって泣きついてくる、あるいは新年祭が失敗に終わり、そのことで自分の存在感をかえってビルマ人社会、そして日本人社会にアピールできる、というものだったと、ある人はいうが、3年前だったらそれも成立したかもしれない。当時は難民として認定されていたのはほとんどターターとその取り巻きのみで、誰もが一目置かざるをえなかったのだ。

だが、時代は変わった。今では他の2グループのメンバーもほとんどが難民ビザ、あるいは特別在留許可を認められていて、かつてのように無力で寄る辺ない存在ではなくなっていた。むしろターターの言葉に他の2団体は「バカにするな、自分たちでやってやれ」と発奮したぐらいなのである。

結果からいえば、新年祭は成功だった。ぼくはその日、別の用事があってここ数年ではじめてカレン新年祭を欠席したのだが、夜、たまたま高田馬場の駅で出会ったカレン人の知人が、興奮気味にいかに多くのカレン人が集まり、楽しく祝い合ったかを話してくれたのを覚えている。しかも、参加者はカレン人ばかりではなかった。ビルマ民主化団体、非ビルマ民族の政治団体の代表たちも会場にやってきて、歌と踊り、そしてカレン料理を満喫したのだという。

いっぽう、ターターは、自分の団体のメンバーたちに新年祭への参加を厳しく禁止していた。そればかりではなく、彼は別の団体に所属するあるカレン人に対し「あなたはカレン人としてふさわしくないから行くな」などという電話をしていたのだそうだ。そのカレン人は迷った末に遅れてやってきたため、電話の内容が明らかになったわけだが、ターターとしてはあらゆる手を使って、この新年祭を失敗に終わらせようと頑張っていたのだった。

だが、このカレン新年祭そのものは、どこの政治団体のものというわけではない。在日カレン人みんなのものだ。しかも、多くのカレン人にとっては、年一度の楽しみといっていいほどの喜ばしいイベントだ。そのようなわけで、ターターとその取り巻きは姿を現さなかったものの、一般メンバーのうち数人は禁止をものともせずやってきて、他のカレン人と一緒に喜びを分かち合わずにはいられなかった。

これらのメンバーは、普段はターターから他のカレン人と話をするなときつく命じられているので、いつも黙っているが、今回はありがたいことにターターたちの監視の目もない。大いに羽根をのばして、はしゃいでいたという。

新年祭も終わりに近づいた頃、毎度のことだが、みんなで記念写真を撮ろうということになった。参加者たちは会場のいっぽうに集まり、並びはじめる。あるカレン人が、隅のほうにいるターターたちのメンバーに気がつき「こっちに来て一緒に写真に入ろうよ!」と呼びかけた。すると、彼らは首を振りながらこう言ったのだそうだ。

「わたしたちが写った写真を議長が見たら命が危ない。それは絶対にダメ!」(了)

2009/08/12

カレン殉難者の日式典のご案内

海外カレン機構(日本)OKO-Japanの主催する第59回カレン殉難者の日式典が以下のとおり行われます。

カレン殉難者の日とは、カレン人の伝説的な指導者であり、1950年8月12日にビルマ軍により虐殺されたソウ・バウジーを追悼する記念日です。ソウ・バウジーはビルマ政府にとってはカレン人「反乱」の首謀者であり、ビルマ国内ではカレン人は彼の名前を口にすることすらできません。

今年の式典では、オーストラリア在住のカレン人指導者ポール・チョウさんによる講演のほか、在日カレン人政治グループによる声明の発表や、歌などが予定されています。

日時:2009年8月16日日曜日
時間:午後2時から午後4時15分
場所:豊島区勤労福祉会館
    池袋駅西口下車 徒歩約10分
    池袋駅南口下車 徒歩約7分

連絡先:cyberbbn@gmail.com

8月9日に行われたOKO-Japan会議にて
殉難者の日式典の準備が行われました。

2009/08/11

8888民主化デモ

第21回目の8888民主化デモが東京で行われた。今回は五反田駅近くの公園から、ビルマ大使館前を抜け、その近くの公園にまでいくというコースで、例年より短め。

とはいえ、参加者は過去最大規模で、50名に満たない日本人参加者をのぞいて、約1200人ものビルマ国籍者の参加があったそうだ。

昨年は850人、一昨年は田辺寿夫さんの著書『負けるな! 在日ビルマ人』によれば、ビルマ人700人、日本人70人というから、年々増加し続けていることになる。


曇り空でかんかん照りではなかったものの、非常に蒸し暑く、汗だくになった。そんなわけで、品川の公園に着く頃には、ビルマ人に比べて根性のないぼくは、民主主義よりもお水をください、という状態になっていたのだった。

2009/08/07

写真は恐怖を写し出す(6)

さて、本題となる話ができる地点にようやくみなさんをお連れすることができた。まずはじめにお断りしておくが、この話の狙いは、あくまでもビルマの人々が心に抱いている恐怖、時には日本人に理解しがたい恐怖を描くことであって、人を非難することではない(それは別の機会にするつもりだから)。

日本で活動するカレン人の政治団体は3つあるが、そのうちひとつの議長を務めるカレン人は悪名高いといっても過言ではない人物だ。彼を仮にターターと呼ばせてもらうことにするが、ターターはいわば弱いものいじめの達人で、組織内で自分に従わない者に対して徹底的に弾圧を行うことで知られている。一度、彼は「反抗的なメンバー」について「この人は汚れた人間であり、カレン民族ではない」などという声明を作り、在日カレン人たちと、在日ビルマ人民主化団体のすべてに送りつけたことがある。念の入ったことに、送った相手には収容中のカレン人も含まれていた。もっとも、受け取った政治活動家の反応はひとしなみに「同じビルマの人間として恥ずかしい」とか「なんでこんなことをするのかまったく不可解」とかいうもので、まともに相手にする者はいなかったが。当時は、サフラン革命の真っ最中で、どの政治団体もひとつになって声を上げようと模索していた時期だった。こんなくだらない声明以外にもっと出すべき声明はあろうに、というのがその時のぼくの感想だ。

とはいえ、こうした強硬な姿勢は、ターターの組織のメンバーに対しては驚くほどの効果を生み出した。彼らの望みといえば、日本で難民として認められることだが、そのカギを握っているのはいまやターターなのだ。なぜなら、うっかり逆鱗に触れて追放されでもしたら、難民審査官の心証がその分悪くなることは確実だし、そうなればビザはとうていおぼつかない。いや、それどころか、ビルマに強制送還されて、政府に殺されてしまうかもしれないのだ。つまり、彼らにしてみればターターは自分たちの生殺与奪権を持つ全権者といってもよかった。ターターもまたこうした状況をよく理解していた。彼はメンバーの畏怖をさらに強めるべく、自分が日本の入管や政府の上層部と特別な関係にあるとしばしばほのめかしさえた。

かくして、恐怖でもってメンバーを支配する恐怖政治が出現する。メンバーはターターの言うことには絶対服従で、彼の前ではそのサンダルの塵を払う資格すらなかった。在日民主化運動関連のイベントでしばしば目撃されるのは、ターターとその家族と取り巻きがまるでロイヤル・ファミリーのようにメンバーたちを従えている光景だ。

なんとも厭わしい状況。だが、まさに同じようなことをビルマ軍事政権がしているのに気がつけば、あるいはこのターターに対して読者のみなさんが感じているかもしれない嫌悪感も和らぐにちがいない。つまり、軍事政権の中で育ち、その中でしか教育を受けたことのない彼は、人を統率するのに軍事政権と同じやり方しか知らないのだ。ターターの場合は極端な例だが、民主化、あるいは民族の解放を叫びながら、軍事政権のメンタリティから抜け出すことのできない政治活動家たちは多い。効力ある民主主義教育・訓練が必要とされるゆえんである。

2009/08/05

日本ビルマ民主化運動記念館設立

ビルマが自由な国になり、誰もが平和に暮らせるようになったら、俺はヤンゴンに日本ビルマ民主化運動記念館を建てようと思っている。

日本大使館の隣にドーンと巨大なヤツを。

記念館は日本で行われたビルマ民主化運動にかかわる文書や記録の保存と展示を目的とし、そこに行けば、日本に逃げてきたビルマの人々がどんな思いで日々、政治活動をしていたかが分かる。

品川のビルマ大使館のデモの様子も見事に再現されている。ジオラマで。

だが、この記念館の目玉はなんといっても、入管の収容所に関する展示だ。詳細な解説と展示品により、当時入管でどのような生活が行われていたかが、誰にでも分かる仕組みだ。

なかでも品川と牛久の入管収容所の実物大の再現は見逃せない。

リアルなビルマの収容者の人形が、入場者たちをお出迎えだ。それらの人形は、退屈そうにしていたり、泣いていたり、病気に苦しんでいたり、手紙を書いていたり、煙草を吸っていたり、ハンストをしていたりする。

面会室に座っているビルマ人もいる。

アクリルの壁越しに対面すれば、まるで本当に収容所で面会している気分(面会室のロックを解くカードは、お土産としてお持ち帰りください)。

しかし、面会時間は限られている。壁の向こうのドアから日本人の入管職員が顔を出して、終わりが来たことを告げるのだ。

俺が今、難民のビルマ人と付き合っているのは、将来、この入管職員役に推薦してほしいからなのだ・・・・・・

2009/08/03

天下太平

日本に暮らすチン民族難民が老いた両親を短期滞在で呼び寄せた。

3ヶ月近く日本に滞在したのち、彼らは次のような結論に達したのだという。

「日本のテレビにはおいしそうな食べ物とお笑いしか映っていない」

これはもちろん、役に建たない巨大な橋やこぎれいな農園を視察する軍人ばかり映し出されるビルマのテレビよりもまし、という意味である。

2009/08/01

写真は恐怖を写し出す(5)

日本から帰国したビルマ国籍者が、まず怖れるのが空港での尋問だ。聞いた話によると、日本から帰ってきたということがわかると、軍情報部だか警察だかに別室に連行されるのだという。そこで、荷物を調べられ、日本のビルマ民主化活動家の写真を何枚も見せられ「こいつを知っているか」「こいつはどうだ」などと尋問されるのだが、もちろんたとえ知っていてもそう答える向こう見ずな愚か者などいやしない。「わたしは日本では日本人しかいない職場(学校)にいたので、ビルマ人とはほとんど付き合いがありませんでした。だから一切存じません」というのが、模範解答のようだ。

もっとも、なかには不運な人もいる。

あるカレン人が不法滞在で捕まって、入管によってビルマに強制送還された。ヤンゴンの空港に到着したとき、彼の手にはひとつのスーツケースがあった。送還される前に、彼の友人が、貯金とアパートに残された所持品を詰め込んで、入管に差し入れてくれたのだ。軍情報部が日本からの帰国者である彼にさっそく目を付けた。小さな部屋に連れて行き、政治活動に関わっていなかったどうか尋問を始めた。彼は実際には政治活動に関係していたが、そのことはおくびにも出さない。

だが、軍人たちはスーツケースを開け、くまなく中を調べ、彼のまったく予期せぬことについに一枚の写真を見つけだした。それは、ある政治的集会で撮られたもので、著名な難民と彼が肩を並べて写っていた。つまり、彼の友人が中身を吟味せず所持品をスーツケースに詰め込んだせいで、本来ならば持ってきてはいけない写真まで紛れ込んでしまったのだ。スーツケースは出発直前に差し入れられたため、入管から成田空港の機内まで拘束されて連れて行かれる彼には、それを開いて中身をあらためる機会などなかった。

彼は軍人たちに嘘つきと罵られ、後頭部を殴りつけられた。だが、拘留が数日間で済んだのは、かなり幸運なことだった。もっとも、彼とその親族がたっぷりと賄賂を渡していなかったら、そんな幸運も訪れなかったことだろう。