2012/12/22

デモの意味(4)

さて、チンドンデモ(お祭りデモ)に対して、本当に政治的効果を持つタイプもある。それは問題のはじめではなく、むしろ最後の一押しとしての役割を果たすデモである。つまり、事態の最後の瞬間、最後の一押しがあれば事態が変わるという場面において政治指導者がぶつけるタイプのものである。

とはいえ、そのようなデモというのは重大な対立関係を引き起こすことがありうる。もし対象となる事態が大きければ、そのような急激な変化を押しとどめようと猛烈な抵抗活動が組織され、例えばデモ隊と機動隊の激しい衝突や天安門事件のような惨事が起きるかもしれない。

しかも、政治的効果を持つデモは、拡大につれお祭りの要素を含むことになるから、つねに暴動に陥る可能性がある。こうした特徴もまた、デモに対立する人々の恐れを大きくし、弾圧を正当化させる。

そのような暴力的な対立関係は、実際のところ、百害あって一利なしで、社会を長く傷つける。わたしはよっぽどのことがなければこうした事態は避けるべきだと思うし、 日本はそうした取り返しのつかない断絶を代償に社会を変えなければならないほど、民主主義が機能していないわけではない。なにしろ、たった一日の穏やかな選挙で政権をひっくり返すことができるのだから。

それゆえ、わたしは日本においては、少なくとも民主主義が続くかぎりはこのタイプのデモはもうないだろうと思うのだが、そうはいっても治安関係者が恐れるのはこの手の本当のデモ、マジデモだ。これらの人々がデモに日夜目を光らせているのは、その芽を摘むためにほかならならない。

となると、チンドンデモ説を主張する人は、治安関係者に反対するどころか、むしろ治安関係者に安心を与えていることになる(とはいえ、チンドンデモはマジデモの訓練になりうるし、またチンドンデモのつもりがはからずもマジデモに発展してしまう場合もあり得ることは否定しない)。