2012/05/31

奇妙な反応

ビルマのテインセイン大統領が4月末に来日し、野田首相と会談して、円借款の供与の再開や債務の放棄を確認した。つまり、日本政府とすっかり打ち解けてしまったわけだ。

これを怒りと悲しみをもって受け止めているのが在日カチン難民の人々だ。

というのも、ビルマ軍とカチン軍は現在戦争の真っ最中。日本が渡す金で自分たちの民族が殺されるのだから無理もない。

カチン人は日本政府に大いに抗議すべきだと思うし、実際にそうしている人もたくさんいると思うが、これに対して「今は日本政府に楯突くのはまずい」と奇妙な反応をする人がいるとのこと。

その理由はといえば「いまや日本政府とビルマ政府は仲間になったのだから、日本政府に反対したら、いやがらせとしてビルマに送り返されるぞ!」だって。

いくらなんでも日本政府はそんなに野蛮じゃない(わたしはカチン人を貶しているわけではない。ただ軍事政権下で生きてきた人の心理の一例として面白く感じたのである)。

グンマー

ネットの世界でいまグンマーという国が注目を集めているらしい。これが一体どのような国かについては、各自検索してみていただきたい。ばかばかしいから。

ミャンマーの人もけっこうこのグンマーに暮らしている。つまり、ミャンマー人からグンマー人になったわけだ。ミャンマー系グンマー人である。逆にグンマー人がミャンマーに行くと、グンマー系ミャンマー人となるかもしれないが、たぶんグンマー人のままだろう。

それはさておき、ミャンマー系グンマー人ではとくにロヒンギャの人たちが多いという話を聞く。もっともわたしは行ったことがないので実際には分からない。

この前、友人のビルマ人にたまたま会ったら、仕事の関係でグンマー、いや群馬に引っ越したばかりだ、という。彼にも群馬にも何の落ち度もないのだが、わたしは笑いを噛み殺すのに苦労した。

2012/05/29

アメ横センタービル

BRSAの事務局長のHさんと上野のアメ横センタービルの地下の食品売り場に行った。

Hさんは自分の働く居酒屋のための買い出し。わたしはパクチーが欲しかったので彼がいつも買うところについて行ったのだった。

アメ横センタービルの地下といえば、ほかではちょっとお目にかかれない食材が勢揃いしていることで有名だ。わたしはもちろん知っていたが、使いこなせないので滅多に行くことはない。

Hさんはわたしのためにパクチーと、冷凍唐辛子を選んでくれ、さらに冷凍の豚足のぶつ切りを勧めた。安いし簡単に調理できるのだという。1回茹でてアクをとり、ニンニクとショウガと一緒にもう一度煮込む。煮込みながら醤油で味付けをすれば、1時間ほどでビールのつまみの出来上がりとのこと。

買い物をしていると、ビルマ人の男女がやってきた。ひとりはBRSAの会員でわたしも知っている。もうひとりはその奥さんで3ヶ月前に日本に来たという。彼らもここに何かを買いにきたのだった。

さて、買い物済んで、外に出るため階段を上がっていると、女性に声をかけられる。この前ドクダミの和え物をご馳走してくれたカチンの女性で、やはりこれから買い物に行くとのこと。

いったい、どれだけビルマの人を引きつけるのか、この地下の食料品ゾーンは。

帰宅してHさんのおおざっぱな教えの通りに豚足を料理してみると、なかなかそれらしい味に仕上がった。

臭い

日本に住んでいるチュニジア人にこんなことを言われた。

「はじめて日本に来たとき、醤油の臭いがダメだった」

日本に生まれた人にとっては醤油の臭いなど当たり前のもので、まず気にするようなものではないと思われるが、醤油の文化の外の人にとってはなかなか強烈なものなのだろう。

星野之宣の短編に、地球に住んでいる人間は地球が立てる音に気がつかない、というようなのがあったように思うが、それと同じだ。

この前カチンの人とご飯を食べていて、こんなことを言われて驚いた。

「日本に来たばかりのころは海の魚が臭くてどうしても食べられなかった」

カチンの人に限らず、ビルマの人は川魚を常食しているので、それに慣れた味覚からすると海の魚は臭うらしいのだ。

つまり、わたしを含む一部の日本人が「川魚は泥臭いからイヤだ」というのと対をなしているというわけだ。

カチンの人がいやだという海の魚の臭いはおそらくわれわれのいう「生臭さ」なのかもしれないが、それを確証するのはビルマの人々が日本で言う川魚の「泥臭さ」を理解するのと同じく難しいに違いない。

それに、われわれが「泥臭い」という臭いはおそらく「泥」とは関係ないのではないだろうか。また、おいしいウナギを食べたときに、いかにも川魚だなという臭いが不意にするときがあるがそれと関係がありそうな気もする。

いずれにせよ、日本とビルマとの間に横たわる臭いのギャップを埋めるためには、ウナギ(特上・2段重ね)を食べる必要がありそうだ。

デヴィッド・ターカボウさんを囲む会(4)

挨拶もそこそこに乾杯となるのかと思っていたが、そんな感じではなく、もっと格式張ったものだった。

デヴィッドさんをわざわざいったん居酒屋から出して、おごそかに入場する感じにしてた。女性が花束渡す。KNU日本代表のモウニーさんは敬礼してる。

それから、主催者側の挨拶、参加者(出入りがあったので分からないが、60人ぐらいではなかろうか)の自己紹介があって、デヴィッドさんの話が始まった。これが長くて1時間ぐらい続いた。もっとも、みんな熱心に聞いている。カレン民族の最高の指導者の演説なんて滅多に聞けるものではない。ただし、眠そうな人、いやはっきり言って寝ていた人もいたが、これはしょうがない。仕事をなんとか抜け出してやってくる人もいるのだから。

話の内容はもちろん政治的なもので、ビルマの現状、連邦主義の話題が出ていた。まだビルマは安全ではない、ということも言っていたそうだ。

カレン人の偉い政治家が演説をするとき、けっこうくだけた感じで、とぼけた冗談を織り交ぜながら話すこともあり、聴衆はおおいに楽しむが、デヴィッドさんはそんな感じもなくいかにもまじめな話し振りだ。2008年2月に暗殺されたKNU事務総長パドー・マンシャさんも似たような印象だった。

演説の後は、みんなで鍋をつつきながら懇談会。デヴィッドさんと話したり、並んで記念写真を撮ったり。デヴィッドさんが帰ると、残った人たちでさらに飲んだ。騒いだ。お店の人、すいませんでした。

 在日カレン人の活動家モーミントゥさん(KNU-Japan)制作の当日のスライドショー

ひんしゅく

以前、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の大瀧妙子さんの「会長のお願い」(BRSAブログ「2012年3月月例会報告」)にコメントしたら、いろいろな人から「ひどいことを言うもんじゃない」とのお叱りを受けた。

大瀧さんは「会長のお願い」で「一部役員の横暴な態度が会員のひんしゅくを買っている。」と仰っていて、わたしはこれに対し、公平な調査もせずに一方的に会長がブログを使って批判するのはおかしい、と指摘したのだが、そのあと次のように書いたのである。

「いや、もしかしたら、ひんしゅくを買っている「一部役員」は当の会長ご本人のことなのでしょうか? だったらいいのです。誰よりも先に自戒をする、これは、まさにトップに立つ人のあるべき姿勢ですから。」

これは揶揄、皮肉、当てこすりというものだが、単に修辞的技法をふるっているわけではなく、この背景には一応の理由はある。そこのところだけを補足しておこう。

問題は大瀧さんが使った「ひんしゅく」という言葉だ。この言葉は辞書を見ると「不快に感じて眉をひそめること。顔をしかめていやがること(明鏡国語辞典第2版)」とある。つまり、主観的な印象を表す言葉であり、まず、そうした言葉を用いて会長という立場の人がパブリックな場で誰かを非難するのはおかしい。

公的な場面で誰かを咎めるならば、誰にとっても明白な基準を持ってすべきだろう。今回の文脈に即して言うならば、例えば「BRSAの目的に反する」とか「人権に配慮しない行いがあった」とか、個人的な主観以外にレファレンスを持つこと(ここではBRSAの規約や人権上のとり決め)が必要だ。

そうしたレファレンスがなければ、「自分がイヤだからイヤ」と駄々をこねているのと変わらなくなる。

ことにビルマ難民と日本人から成り立つBRSAのような多文化的団体では、文化的背景の違いが思わぬところで相手の「ひんしゅくを買う」ことがありうる。それゆえ、こうした文化的なバイアスを反映しやすい主観的評言で誰かを非難するのは、本当に慎重であるべきだろう。

それに、「ひんしゅく」が主観的に印象に基づくものであるかぎり、「ひんしゅくを買っている」と誰かを非難する人自身が、その非難されている人から「ひんしゅくを買っている」という事態だってあっておかしくはあるまい。

そんなわけでわたしは言ったのだ。「会長だってもしかしたらそいつを買ってるかもしれませんぜ」と。

(ま、わたしもこれでまた買うってわけだ。いいさ、本と違って置き場所に困らないから……)

デヴィッド・ターカボウさんを囲む会(3)


さて、このデヴィッドさんを招いて行われる会は題して「Meeting of UNFC Leader, David Thackabaw & All Karens in Japan」といい、これを記した垂れ幕とカレン民族旗が会場にすでに飾られている。

会場となったのは、海外カレン機構(日本)のメンバーのひとりが働く池袋の「ふらいぱん」 というお店。
地下一階にあるこの居酒屋にカレンドレスを着たカレン人がだんだん集まり、やがてデヴィッドさんもやって来る。

デヴィッドさんが来ても、すぐに会が始まるようではなかったので、時間を作ってもらい話を聞く(以下、メモをもとに書き記す)。

Q:現在のビルマの状況についてどう考えているか?

デヴィッド(D):テインセイン大統領は誠実な人のように思える。しかし、彼には実権はない。それは彼がカチン民族との戦争を止めることができないことからもわかる。現在の政治的変化は外国から支援をもらうためのものでしかない。いっぽう、ビルマの国内外には難民が溢れており、まだ平和とはいえない状況だ。

Q:日本政府は本当のビルマの連邦制をもとめる非ビルマ民族の立場を分かっているのか?

D:日本政府はわたしたちの立場は分かっている。だが、以前は気に留めもしなかった。

Q:今後のビルマの動きはどのようになるのか?

D:政治的対話が重要だ。また、難民と国内避難民に対する教育、健康、農業に関する支援が急務だ。破壊されたビルマを復興しなくてはならない。

Q:日本政府は何をすべきか?

D:日本政府には政府ベースではなく、NGOベースの支援を要請した。

Q:これからのビルマ連邦はどのようになるのか。「ビルマ人に1チャット、カレン人も1チャット」という民族の平等は実現するのか。

D:われわれが求めているのはそのような平等ではなく、民族の人口に応じて分配しあうプロポーショナルな平等だ。

「でも」とわたしは尋ねた。「これまでにカレン人が被ってきたダメージを考えると、ビルマ民族よりももっと多くもらうべきではないのか?」

おっと、ここで時間切れ。人々がやってきてデヴィッドさんを立たせる。会が始まるのだ。彼がどう答えるか聞きたかったが、しょうがない。

2012/05/24

デヴィッド・ターカボウさんを囲む会(2)

デヴィッドさんにはじめてインタビューしたのは、去年の5月にタイ・ビルマ国境で開催されたカレン・ユニティ・セミナーというカレン人の民族会議のような集会でのことだった。そのときわたしは、海外カレン機構(日本)OKO-Japanという日本のカレン人の政治団体から派遣されていて、彼からビデオ・メッセージをもらうというのがその使命のひとつであった。

セミナーの休み時間に自分の宿舎に戻ったデヴィッドさんをわたしは訪ね、少し英語でインタビューした後、「8月にカレン殉難者の日式典を日本でも開催するので、そのときのために在日カレン人や他のビルマ国民に向けた話をしてほしい」と頼むと、ビルマ語でだいたい次のような話をしてくれた(わたしはビルマ語がわからないので内容はあとで聞いた)。

「カレン人、カチン人、シャン人などの持つ軍の力を合わせれば、ビルマ軍よりも多い。わたしたちは力で勝るのだから、最終的にビルマ軍事政権は折れて出てくるであろう。ビルマ民族の中にも良い人はいるはずだから、そうした人と協力する必要がある」

日本に帰ってきてそのビデオをある非ビルマ民族の政治活動家に見せたら、「ビルマ民族の中にも良い人はいる」 というところで「すごい」と笑っていた。

その理由を聞いてみると、この言い方は「ビルマ民族というのは悪い連中だが、良い人もいる」というニュアンスらしく、基本的にはビルマ民族に対する不信の表明のように受け取れるもののようだ。

ビルマ民族にとっては意外であろうし、また納得できないだろうが、カレン人に限らず、ほとんどすべての非ビルマ民族が同じような考え・気持ちを持っている(もっとも、それを表に出すことは滅多にないが)。そうした気持ちをデヴィッドさんがはっきりと代弁してくれたのがその活動家には痛快だったようだ。

2012/05/23

デヴィッド・ターカボウさんを囲む会(1)

デヴィッド・ターカボウさんはカレン民族同盟(KNU)の副議長(副大統領)だが、KNUの議長が高齢のため、実質的にはこのカレン人最大の政治組織のトップであると言ってもよい。そして、KNUというのは、たいていいつも非ビルマ民族の反政府団体では主要な役割を占めるから、彼はまたビルマ連邦主義運動の代表のひとりでもある(ビルマ連邦主義運動とは、ビルマ民主化運動と区別するためにここでは用いている。ビルマを民主化するためには非ビルマ民族の自己決定権の確立もまた重要だとする立場)。

要するに、今後のビルマの動きを考える上での最重要人物のひとりなのであるが、そのデヴィッドさんが、4月25日から5月4日にかけて、ビルマ連邦民族統合評議会(UNFC)の代表団のひとりとして日本の外務省の招きにより来日した。彼はUNFCでは副議長を務めている(ほかの代表はカチン民族とポオ民族の政治家。この2人については別に記す)。

今回の来日では、外務省をはじめとする日本政府、政治家との会談、外国人記者クラブでの記者会見、日本のテレビ局、新聞社などのインタビュー、在日ビルマ難民政治団体との対話集会、日本人向けの講演などのさまざまな活動のほか、富士山に登ったり、観光をしたりしたそうだ(日本政府は日本への旅行費と4日分だけの滞在費を支払ったという。残りの滞在費と交通費は在日ビルマ難民が負担しているとのこと)。

わたしはそのころいろいろ忙しくて、記者会見や集会などには行くことができなかったけれど、4月30日(祝日)に在日カレン人とデイヴィッドさんの交流会が開かれるというので、参加させてもらった。

もっとも、当初の予定では4月30日の夕方に開催されるはずだった。しかし、デヴィッドさんに急な用事が入ったとかいうことで、午後3時から午後6時までと変更になった。

日本人の中にはカレン軍に身を投じてビルマ軍と戦った人(中には命を落とした人)がいるが、そうした人々と急に会うことになったのだという。

そんなわけで、この日の集会を楽しみにしていた在日カレン人にも、仕事の都合で結局来れなくなった人もけっこういたようだ。そもそも、今回の来日そのものが急な話、しかも招聘主は日本政府、在日カレン人はもちろん蚊帳の外というわけで、みんなずいぶん振り回されていた。「もっと早く知っていればいろいろ計画できたのに!」とある人は憤慨していた。

要するに、在日カレン人にとってはまさにこれは貴重な機会だったのだ。カレン政治の中央にいる重要人物、ビルマ政府の最大の敵、ビルマ国内ではもちろんのこと日本でも会えるなどと夢にも思わない人物が、ほかならぬ日本政府の招きでやって来るなどと、誰が想像できようか。まったく、このわたしもデビッドさんと日本で会う日が来るなど(しかも池袋の居酒屋で!)思いもよらなかったのだ。

2012/05/22

タダ飯の恩返し

5月20日、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の会議の後、ビルマ料理の店に。5月24日にリニューアルオープンする「ミャンマー家庭料理MAY2」というお店で、宣伝をかねてのことだろうが、この日一日、みんなにオノカオソエ(鶏肉クリームスープ・ラーメン)をふるまっているとのこと。

わたしは関係ないといえば関係ないが、お店の関係者がBRSAの会員でもあるので、その縁で、わたしもロハでゴチになる。

店の人に聞くと、当面はランチ限定だが、そのうち夜も営業する予定とのこと。ビルの2階にあるその店は、大きな窓があって開放感のある造り。暑い日の夕方などにビールでも飲んだら気分良さそうだ。

場所は日暮里。少し分かりにくい場所にある。お店のカードは現在製作中だというので、今ここに地図を載せることはできない。



カチン料理の精髄

カチンのマノー祭りのことを書いたが、いろいろ詳しく知りたくなったので、その専門家に2度ほどインタビューをさせてもらった。

けっこう長いので、まとめるのには時間がかかる。だから、それはいずれというわけだが、それはともかく、聞き取りにお邪魔させてもらった東十条の家で、カチン風の料理をごちそうになった。

牛肉のそぼろの料理、納豆のサラダ(唐辛子入り)や鶏肉とタケノコの煮物などは、わたしにとってはいわばカチンの料理の定番で、何度も食べさせてもらったことがある。

だが、その日はもう一品、はじめて口にする料理が出た。

それは一見普通の野菜サラダだ。トマト、キャベツ、唐辛子、菜っ葉を和えたもの。わたしは何の考えもなく口に運んでいたのだが、その料理を作ってくれた人が、わたしがなにかの菜っ葉だと思っていたものが、ドクダミ草であることを教えてくれた。

つまり、ドクダミのサラダというわけ。

ドクダミというと、お茶か、独身アパートしか知らないわたしは珍しく思い、改めて味わってみると、確かに変わった風味がある。

「これはカチンの料理ですか? それともビルマでは普通なのですか?」

と聞くと、カチンだけだという。

「へえ、それにしても、よくこんなものが手に入りましたね」

すると、裏手にある隅田川で摘んできた、とのこと。

実際、ドクダミ草というのはありふれた植物らしいが、そんな近場で野生のものを摘んで食べることができる、という(本当は当たり前の)ことにちょっとびっくりした。

なお、犬の散歩道あたりに生えてるようなバッチイのではなく、奥のほうから摘んできたから、きれいだって。


ごちそうさまでした。


2012/05/20

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(終わり)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の最終回。)

(3.カレン民族の政治組織の続き)
他のカレン人組織

多くのカレン人組織が活動している。あるものはカレン人を支援するKNUと直につながっている。ビルマ国内とタイには次のようなものがある。

*カレン人大量虐殺反対委員会
*カレン人国内避難民委員会(CIDKP)
*カレン難民委員会(KRC)
*カレン女性機構(KWO)
*カレン青年機構(KYO)
*コトゥーレイ労働組合連盟(FTUK)
*救援と発展のためのカレン事務局(KORD)
*カレン人権グループ(KHRG)
*カレン学生ネットワーク・グループ(KSNG)

KHRGにはウェブサイトとニュースレターがある。他の刊行物には、カレン情報センターの月刊ニュースレター、クウェカル(メルギ・タヴォイ地区の月刊ニュースレター)、タヌトゥー(KNUの季刊誌)があり、また他の委員会やグループにも定期刊行物がある。

海外のカレン・グループ

*カレン民族連盟
*カレン連帯機構
*カレン・アクション・グループ
*オーストラリア・カレン機構
*アメリカン・カレン・エージェンシー
*海外カレン機構(OKO)

最後に述べるべきは、KNUが以下のような数々の多組織同盟に参加していることである。

* 国民民主戦線(NFD)ではKNU議長が議長を務めている。NFDは1976年に結成された非ビルマ諸民族組織の同盟である。そのメンバーは、はっきりした領土と武力を持った単独の民族組織からなる。その目標は、ビルマに民主主義連邦を創造すること、より一般的には社会進歩を達成することにある。公式にはこの組織は広範囲の軍事協力を行っている。しかし、現在は実質的に政治的活動に転じている。NDFは9つの組織からなり、カレン、チン、アラカン、モン、その他の小さい民族が含まれている。

*ビルマ民主同盟(DAB)では、KNU副議長が議長を務めている。DABは1988年にSPDCの前身であるSLORCによって行われたビルマの主要都市での虐殺に対応すべく設立された。NFDよりも大規模な同盟であり、少数民族組織だけでなく、ビルマ人組織や、学生グループをも含む。そのうちには、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)、全ビルマ学生組合連盟(ABFSU)、新しい社会のための民主党 (DPNS)がある。DABには15の加盟団体があり、NDFと同様の使命を持つ。

*ビルマ連邦国民評議会(NCUB)ではKNU副議長が議長を務める。NCUBは1992年に設立され、NDF、DAB、国民民主連盟(解放区)、議員同盟からの代表を含み、ビルマ民主化運動の最大の連合体である。KNU外務省長官もまた、NCUB実行委員会に加わっている。

*少数民族連帯協力委員会(ENSCC)はNDF、カレンニー民族進歩党、少数民族統一国民民主連盟などからなり、KNU議長が議長を務める。ENSCCは2002年に結成された。その目的は、SPDCと、NLD、少数民族グループとの3者対話の促進にある。

*5組織軍事同盟

(おしまい)

2012/05/19

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(8)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の8回目。)

(3.カレン民族の政治組織の続き)
カレン民族解放軍(KNLA)

以下は要約に過ぎない。

カレン人の自己防衛軍事力は、カレン民族解放軍、カレン民族防衛機構、さらにカレン警察、民兵、村落警備隊からなる。あわせて1万人以上の武装したカレン人がいる。

KNLAには7つの旅団と4つの本部大隊がある。旅団は5つ以下の大隊からなり、大隊は4つの中隊、中隊は3小隊、小隊は12人からなる3つの班からなっている。KNLAにはまた情報部、需品係将校、連絡将校、医療、軍事訓練、補充部門がある。

KNLAは5組織軍事同盟のメンバーである。他のメンバーは、カレンニー民族進歩党、アラカン解放党、チン民族戦線、シャン州南部軍である。同盟は情報を共有し、防衛協力を行う。

KNLAの使命はその創立から現在に至るまで、カレン人のための自己防衛のみにある。こうした防衛がなければ、カレン人はおそらく絶滅させられるだろうからである。KNLAには、カレン人の平和を守ること以外に望むものはない。

カレン人の自己防衛の要求に含まれるのは、SPDCの攻撃に対抗すること、麻薬を禁止すること、村の安全を確保すること、そして、人道支援活動の安全を確保することである。麻薬に関しては、KNUの方針は以下のようにまとめることができる。

1. コトゥーレイ、つまりカレン州は常に麻薬撲滅政策を実施してきた。これは今のところ、うまく成し遂げられている。

2. われわれはビルマの麻薬製造による脅威が増しつつあることに対処しなくてはならない。

3. KNLAはこの脅威に対処しうる特別作戦を確立している。

4. この問題にはカレン領土内あるいはカレン領土を通した覚醒剤、アヘン、ヘロインなどの麻薬の製造、流通、販売が含まれている。

5. こうした活動にかかわるものは、必要なあらゆる武力でもって逮捕される。

6. われわれは、この問題に関して協力的なアプローチを発展させるために、他のグループとともに働くこと、そして世界中の関心を持つグループからあらゆる支援を求めることを望んでいる。

実際問題として、われわれは、麻薬をカレン州から放逐し、タイへの船積み輸送をとどめるべく戦っている。あるときには、われわれは麻薬をビルマで見つけると、それらを処分するか、タイ当局へ引き渡すかしている。またあるときは、船積みにやってくるタイ人に警告を発し、タイ人自身に逮捕させている。

不幸なことだが、一言でいえば、われわれに手にはいる資源では、KNLAはカレンのための防衛を完全に成功させることはできない。われわれには、十分な人員、物資、武器がないのである。ひとつの理由としては、領土が長年にわたり減少し、そのために(正当な交易における)税徴収能力が落ち、防御に必要な資金が減少したことが挙げられる。また、現在のタイ政府は、一般的には麻薬に対するカレン人の闘いには手を差し伸べるものの、これ以外のこと、つまりSPDCに対してカレン人が強力に防衛することには反感を抱いているのである。

2012/05/18

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(7)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の7回目。)

3.カレン民族の政治組織
カレン民族同盟(KNU)

KNUは、ビルマがイギリスから独立して以来、カレン人のための確固とした政治組織として活動してきた。さらに、KNUは本来的に民主的な組織である、というのもその中核に、つねに村に根ざした選出組織があるからである。それぞれの村で村会と村長が選出される(村における最初の選挙は、イギリス支配期に行われた。それ以前には村は長老によって治められていた)。村長は実際非常に難しい地位である。というのも、彼もしくは彼女(女性が村長の村は数多い)は、 SPDCの要求、たとえば強制労働の要求に応じなくてはならず、つねに民主化運動を支持していると責められるからである。村長はしばしば投獄され、拷問をうけ、殺される。

10から20の村がひとつにまとめられて、「村落」をなす。村会は、委員長、副委員長、事務長などの村落委員会委員を選出する。この手続きは、9から10の村落からなる郡レベルでも繰り返される。郡においても、そのすべての郡に、情報省、健康省、教育省、農業省、森林省のKNU職員がいる。他の省は、必要に応じて特定の郡に置かれている。

郡は最終的に、カレン州内の7つの地区に組織される。それぞれの地区には選挙による委員会があり、それには議長、副議長、事務長、各省の地区職員がいる。

7つの地区のビルマ語とカレン語の名称と、そこに関連するカレン民族解放軍の旅団は以下のとおりである。

タトン ドゥータトゥー 第1旅団
タウングー トーウー 第2旅団
ニャウンレビン クレールィートゥ 第3旅団
メルギ・タヴォイ ブレータウェ 第4旅団
パプン パプ 第5旅団
コウカレイッ ドゥープラヤ 第6旅団
パアン パアン 第7旅団

KNUの日々の活動は、執行委員会によって運営されている。この委員会は11名のメンバーからなるが、現在は9つの役職だけが充当されている。

・議長(大統領)
・副議長(副大統領)および防衛大臣、防衛省
・事務総長(首相に相当)
・副事務総長1、組織省
・副事務総長2、情報省
・KNLA長官および総司令官
・副長官、森林鉱山省
・外務省長官
・救援復興省長官
・運輸交通省長官(在職中に死去)
・同盟省長官(現在空席)

執行委員会は基本的に週一回開かれる。すべての省の報告が事務総長に直接なされる。防衛省報告もこれに含まれる。他の民主主義国家と同じく、防衛軍は執行事務局の命令下にある。KNLAはカレン人の抵抗運動の一翼を担う軍事組織であり、KNUに全面的に従属している。

KNUには15の省庁がある。外務省を除くすべての省は地区レベルにまで支庁(時には郡レベルにまでも)がある。ほとんどの省では、予算の制限により、中央部の職員の規模は非常に小さく、1~2人の職員に1~2人の補佐がいるのみである。たとえば情報省は、人権侵害や紛争などの報告を含むKNUのウェブサイトを 2年にわたり運営していたが、この活動は、ウェブ管理者に支払ったり、サーバーを借りたりする資金の不足のため、中断されることとなった。

KNUの省は以下の通り。

農業省
同盟省
防衛省
教育省
財務と税務省
外務省
森林省
健康省
情報省
内務省
法務省
鉱山省
組織省
救援復興省
輸送交通省

以前は、漁業省と畜産省もあった。

健康省、教育省、森林省、農業省は最も規模の大きい省である。健康省に含まれるのは、看護婦、衛生兵、何人かの医師のいる地区健康省と、地区診療所、さらに移動診療所と難民キャンプ診療所である。教育省はいくつかの高校と、難民キャンプ内の小学校と大規模な国内避難民地域で小学校を運営している。森林省は事実上最も大きい省であるがそれは、各地区に森林警備員を置いているからである。かつては、かなりの材木が収入のために伐採されたが、現在では減少している。KNUはカレン州に残る森林を保存しようと努めている(われわれは3つの地区で熱帯雨林の保護地域を設けている。そこでは伐採と狩猟が禁止されている が、タイ人が保護地区にひそかに入り、木を伐り、密猟を行っている)。

組織省はKNUの会員の増大に努めている。どのようなカレンの個人もKNUにはいることができ、年会費も非常に低い。組織省は、またカレン女性機構とカレン青年機構の後援も行っている。

情報省は、人権侵害、紛争、経済・政治問題についての報告を公にすることで、SPDCによる情報隠蔽に対抗しようとしている。カレン情報センター(「民主主義のための国民基金」によって資金援助されている)を通じて、ニュースレターを発行している。

法務省に関して言えば、刑法と市民法において使われている法的枠組みはイギリス法を基本にしている。それぞれの郡と地区、そしてカレン州全体に、高度に組織された法廷と裁判官を置いている。最終控訴は恩赦の権限を持つ大統領に対してなされる。われわれはまた多くの拘留施設を運営している。内務省にはカレン警察と村落警備隊が含まれる。

われわれはコトゥーレイ州憲法草案を準備している(その前文はすでに第1章に掲げた)。これは現在執行委員会において第1次審議が行われている。これが済むと、おのおのの地区とカレン人諸組織に配布されて、意見を求めることになっている。憲法はビルマの新しい連邦憲法に合うように作成されている(カレン人代表が、連邦憲法草案委員会に加わっている)。カレン州の憲法の準備はカナダの国民和解プログラムからの援助によって可能となった。

KNUにはまた、30人の正式委員と15人の委員候補を含む45人のメンバーからなる中央委員会がある。中央委員会は年に一度行われ、事実的には議会の機能を果たしている。すべての重要な問題が議論され、必要に応じて投票が行われる。

4年に一度、KNU大会が最低3週間の期間で開催される。その間、大統領と副大統領を含む選挙か行われる。KNUのすべての地区の代表は、大会への参加、候補の推薦、選挙での投票を許可されている。全体で1,000人のKNU職員がおり、60,000人のメンバーがいる(KNUのメンバーとして受け入れられ ているKNLAの兵士たちも含む)。

2012/05/17

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(6)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の6回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき)
カレン人の大量虐殺

大量虐殺の法的定義は、ビルマも批准している「1948年の大量虐殺の防止とその犯罪の処罰についての国連会議第2項」に以下のように見出せる。

「本会議において、大量虐殺とは、全体的にせよ部分的にせよ、国家や民族、人種や宗教基づく集団を滅す意図で行われる次のような行為のうちいずれをも指す。
1.その集団の成員を殺す
2.その集団の成員の身体や精神に深刻な被害を与える
3.全体的にせよ部分的にせよ、物理的破壊を意図して、その集団の生存条件に害を故意に与えようとする。すなわち、
4.その集団内の子どもの誕生を妨げる手段を強制する
5.子どもたちを強制的に他の集団へと移動する」

2000年にKNUは、(独立したNGOの協力の下に)カレン民族大量虐殺反対委員会を結成した。この委員会の目的は、われわれが強いられている状況が、いかに上記の定義、特にはじめの3点に合致するかを、記録し、公表することにある。

歴史的にはカレン人に対する虐殺は次のように生起した。ビルマの政治状況は、独立より
 1962年のクーデターに至るまで動揺しており、いくつかの住民紛争はあったが、全面的、あるいは計画的な民族絶滅作戦はなかった。これが、1963年、ネウィンが経済、そして、さらに重要なことに学校を国有化したときに変わったのである。これ以前にはわれわれは、自分自身の学校を第10学年まで持っていたのである。ネウィンは、カレン人学校に対する州政府の援助を打ち切り、教室でのカレン語の使用を禁じた。またネウィンは宗教に基づく学校も国有化したので、いかなる宗教的活動も行えなくなり、結果として、カレン人のためのミッション・スクールもまた閉鎖されたのである。

そして、ネウィンはカレン人に対する軍事行動を再びはじめ、カレン人のみが銃を置く一方的停戦を要求したが、われわれをこれを拒んだ。

1960年代中ごろ、カレン難民危機が始まった。これはネウィンが「四分断」政策を始めたときに起きた。この政策における彼の目的は、カレン人の収入、情報伝達、 兵の補充、食糧供給を分断することであった。彼ははじめてカレン人の収穫物の破壊を命じた。また、われわれがわずかな課税によって収入を得ていたタイとの国境貿易も禁止された。情報に関していえば、われわれには村落間を人が走って情報伝達する仕組みを築いていたが、ネ・ウィンはこれを破壊しようとした。兵の補充の分断のためには、村を丸ごと強制的に移し、村の指導者を拷問の末に殺すことで、村人たちがKNUと連絡を取れないようにした(こうした強制移住は後に、ビルマ軍に強制労働を絶え間なく提供する手段として用いられた)。そして最後に、最初に挙げた分断目的と同じような意味で、村を焼き払い、穀物をだめにし、家畜を略奪するよう命令がが下された。

要するに、SPDCがいまなお遂行している四分断作戦とは、カレン民族に対する組織的な焦土作戦なのである。その最終的な目標は、カレン人とカレンの文化的アイデンティティの破壊にある。そして、この蓄積がもたらす効果は、民族浄化、民族虐殺以外のなにものでもない。

四分断作戦が開始されてから20年ほどの間は、われわれには安全な季節があった。ビルマ軍は乾季にしか作戦を行わなかったのである。しかし1984年に転換 があった。ビルマ軍はカレン州に侵攻し、一年中われわれを弾圧するようになった。これが結局は、大量の難民・国内避難民の出現という危機的状況を生んだのである。

現在、タイ・ビルマ国境の難民キャンプには、およそ130,000人の難民がいる。100,000ほどがカレン人であり、残りはカレンニー人とモン人である。タイ政府はシャン人の難民の登録を拒否しており(モン人はシャン人ほどには拒否されてはいない)、シャン人のキャンプはない (しかしながら、何万ものシャン人の難民・国内避難民がいる。シャン人とカレンニー人は同様に民族浄化と民族虐殺の対象となっているからである)。

カレン人難民危機はまた、新しい難民にはタイでの滞在を一時的にだけ許可しようという、現在のタイ政府の態度によっても悪化させられている。既存のキャンプへの新しい難民の入居は許されないのである。さらに、タイ政府は、いまやSPDCを全面的に支援する構えである。タクシン・シナワトラ首相は、SPDCに とっての筆頭の盟友とすらいえるのだ。この友情の果実のひとつが、難民に大きい影響を与えている別の方針、一時的滞在であっても、新しい難民は受け入れない、難民たちが紛争から逃げてきたということが証明されない限り、すなわち銃声が聞こえない限りは、という方針である。しかし、タイ人はビルマ軍と、紛争を国境から離れた場所で起こすように裏で取り決めているのである。ゆえに、国境警備隊は銃声を聞くことはできず、したがって、難民は実際には命からがら逃げているということにはならない。それどころか、金目当ての移民ということなのであり、入国を拒否することができるのだ。

国内避難民として苦しむカレン人の数は、難民の数から推定されるよりも実際ははるかに多い。カレン州には、シャン人なども含むにしても、およそ500,000の国内避難民がいると見積もられている。また、タイにはビルマからの出稼ぎ労働者が百万人ほどおり、そのうち300,000がカレン人だとされる。

全体としてみれば、百万人以上のカレン人がその家と村から引き離されているのである。すくなくとも数万人が殺されたり、逃亡中に病、とくにマラリアと下痢で死んだりしている(信頼できる資料はない)。何千もの村が破壊された。逃亡する村人にとっては、いかなる選択肢も悪いものだ。強制移住先の村に閉じこめられ、強制労働、窃盗、強奪 の対象となるか。あるいは国内避難民となり森の中で生きるか死ぬかの生活をするか。あるいはキャンプ難民となるか(しかしながらこの選択肢は、キャンプに何十年も閉じ込められ、訪問者を受け入れることを禁止されている不愉快なものであるにしても、もはや手にはいらないものだ)。さもなければ、移住労働者となって、労働虐待に苦しみ、奴隷の境遇すら味わうか。

ネウィンの下ではじめられたSPDCの政策は、成功しつつある。われわれは大量虐殺の犠牲者である。そしてこの虐殺は、何世紀にも渡るビルマ人の帝国主義とその狂信的な民族主義の信念に直につながっている。SPDCはナインガンドー・アチアケ、帝国の長老と自称している。この名称はバガンの最初のビルマ人帝国の名であるパタマ・ミャンマー・ナインガンドーにつながる合言葉である。狂信的民族主義者の作家たちは、現在の政治体制をサドッタ・ミャンマー・ナインガンドーすなわち、第四ビルマ帝国と書き表す。

カレン人の大量虐殺、シャン人やカレンニー人などのビルマの他の民族集団の大量虐殺が終結するためには、SPDCという最新のビルマ人帝国主義集団を権力の座から引きずり下ろさねばならない。

最後に、この大量虐殺がいまも継続であることを強調しなくてはならない。カレン州で行われた殺人や村の焼打ちなどの人権侵害に関するKNUの最新の報告は、請求すれば入手することができる。

2012/05/16

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(5)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の5回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき)
現代政治史

カレン民族同盟は、カレン民族協会、カレン中央機構、仏教徒カレン民族協会、カレン青年機構の4つの組織が融合して1947年に結成された。終戦後、イギリス人がビルマを去るのは必至であるとわれわれは信じていた。それゆえわれわれは自分たちを守らねばならず、これがため統合を果たす必要があったのである。

1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、ウ・ヌが反ファシスト人民自由連盟(AFPFL。イギリスに抵抗する有力な政治団体)のリーダーとなった。しかし彼の指導の下ではビルマは本当の連邦国家とはならなかった。というのも、彼はパンロン合意を尊重しなかったからである。彼は、諸民族の議会をビルマ人の支配下に置き、仏教を国教化しようとした。名前だけの連邦制であり、ビルマは事実上ビルマ民族の完全支配下にある一元的な国家でしかなかった。

1948年1月、イギリス人はビルマを去った。独立の前段階において、イギリス人の間では、権力委譲があまりにも性急で、ビルマには民主主義に備えて更なる準備期間が必要だということについて議論がなされていた。

1948 年2月11日、KNUは、カレン人のための平等、カレンの本拠地となる州の(連邦制の枠内での)創設を求め、われわれは住民どうしの不和と内戦を望まないと訴えつつ、整然とした平和的なデモを組織した(同時期に一部のビルマ人は、カレン人との戦争を計画していた。われわれに民主主義を許すかわりに、われわれを殺そうとしていたのである)。われわれは封建時代から抑圧され続け、民族的一体感を持ったことはなかった。しかし、その一体感はキリスト教の受容と、 また仏教(そのときにはわれわれが仏教徒になることは可能になっていた)によって発展し、20世紀初頭にはカレン人の作家たちは、カレンの本拠地の可能性についての議論をはじめていた。戦争の後、ビルマ人のあるものは、断固としてこの要求を実現させまいと考えたのである。

一年中、ビルマの新聞はわれわれに関して扇情的な記事を書きたてた。われわれはイギリスの雇われ人、野蛮人として非難された(今日にいたるまで、われわれには「たむし」とい う蔑称がつけられている)。2月のデモはイギリス人が指揮したものだと噂された。その年の終わりごろから、ネウィンの「ポケット・アーミー」がデルタ地方にいるわれわれカレン人を攻撃しはじめた。ポケット・アーミーとは秘密の国防軍であり、非正規の軍であり、ヒトラーがその初期の上昇期に用いていた軍隊に近いものである。ネウィン(1962年になってようやく権力を掌握するのだが)はその当時からビルマ住民間の不和を率先して作り出していたのだった。

クリスマスの時期には、このポケット・アーミーはあちこちで教会を焼いたが、その中にはまだ信徒たちがいたのである。1949年1月、彼らはラングーンのカレン人居住区を焼き払った。それからその月の下旬に、ラングーン北部のインセインの町(現在そこには悪名高い刑務所がある)にやってきて、拡声器で、カレン女性たちを強姦してやる、お前たちを掃討してやる、と脅迫した。まさにこのインセインにおいて、そして、まさにわれわれが現在「抵抗記念日」と呼ぶこの1月の31日に、われわれの革命が公式に始まったのであった。

自衛を目的とする最初のカレン軍がKNUによって組織され、カレン民族防衛機構(KNDO)と呼ばれた。このとき、ビルマ軍の正規大隊に配置されていた3人のカレン人と、さらに幾人かのカレン人警察幹部がKNU/KNDOへと走った。

要するに、われわれの武装蜂起は、われわれを苦しめた攻撃とウ・ヌの取った行為に対する正当な応答だったのである。引き続いてわれわれは、カレン人民解放軍 とカレン人民ゲリラ軍を含む数々の自衛組織を結成した。これらは最終的にカレン民族解放軍(KNLA)に組み込まれた。

また注記すべきは、パンロン合意は、署名したシャン人などの民族集団に、合意の日から10年後にもし国の発展に不満ならば、いつでも脱退できる権利を認めていることである。

*この脱退が可能となる以前の1958年、ネウィンと軍部は政府の支配権を握った(彼らは「世話人」政府と自称した)。
 *1960年初頭に選挙が行われ、ウ・ヌが首相として返り咲いた。
*1961年、パンロン合意の山岳地域側の署名者らが、憲法改正と完全な政治的自治権を要求した。
* その後、1962年2月2日、開催中の国会においてウ・ヌが演説をしようとしているときに、ネウィンはふたたび権力を掌握し、今度は絶対のものとした。彼は、憲法改正が、他民族地域におけるビルマ軍の優位を終焉させるのではないかと恐れ、ビルマ人と他のビルマ諸民族の平等が成立しないように断固として行動したのである。

そして40年後のいま、ネウィンの望みはなお実現の途上にある。

1990年、SPDC はビルマにおける選挙の実施を許可した。しかし、われわれには政党を結成することは許されなかった(いかなる政党も名前にカレンという語があってはならなかった)。それゆえ、1990年の選挙で当選したカレン人は、NLDなどの他の政党との提携のもとで事務所を運営したのである。KNUは、本質的にはカレン人のための統一政府であり、抵抗の時代にあって有効な自己統治を行うことのできる唯一可能な形態であり、個別的な政党をそこに含んでいるわけではない。 だが、第3章で述べるように、われわれは民主主義者である。そして、民主主義によってカレン人の民主的価値観の長い伝統は保持されるのである。われわれには選挙の手続きがあり、われわれの会合は自由な開かれた場である。だれもが意見と批判を表明することができる。

2012/05/15

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(4)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の4回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき) 
初期政治史

現在われわれが経験している状況は、われわれとビルマ民族との歴史的関係に直につながっている。ビルマ民族には、狂信的民族主義の強い伝統があり、そのためビルマの他の民族集団は筆舌に尽くしがたい苦しみを受けることとなったが、この伝統は現在の軍事独裁政権においてはっきり現れている。

ビルマ人のそうした行動の例としては、モン民族の征服が挙げられよう。この征服以前、クメール人(カンボジアの主流の民族集団)の末裔であるモン人は下ビルマ全域にわたる王国を築いていたのである。1725年ごろ、あるビルマ人の将軍が、ハンタワディにあるモン人の城壁都市を包囲した。3ヵ月後、将軍は、3人の僧侶を遣わして、次のような提案を行った。入城と引き換えに、モン王はその地位と財産を保証される、と。王は同意した。そして、ビルマ人たちは入城し、王と住民すべてを虐殺したのである(それよりさきに、モンの兵のうちには、王の弱腰を知って、包囲を破り現在のタイにまで逃げのびた者もいたにしても)。

ビルマ人将軍は自ら王と名乗り、モン文化の根絶に乗り出した。彼は平和を議する特別会議にモンの僧侶3000人を招き、皆殺しにした(一人が逃亡しそれを伝えた)。それから彼はモンの僧院を書庫もろとも破壊した。

ビルマ人は事実、モン人から仏教を受け入れたのだが、初めのうちモン人は彼らに教えるのを拒んだのであった。しかし、11世紀にビルマ人はバガンからモン人を攻撃し(これがビルマ民族帝国の濫觴となった)、当時のモン王を打ち破り、パゴダの奴隷とした。

近年まで、ビルマ人はカレン人のことをほとんど気に留めなかった。カレン人は無教養であり、それゆえ脅威とならないと目されていたのである。われわれは根絶されるべきものではなかった。ただ下層に留めおくべきものであった。しかし、われわれが仏教徒となるのは禁じられていた。

こうした状況が変わったのは、1820年代のイギリス人の到来によってであった。実際、イギリス人はカレン人の目にとって、ビルマ民族帝国主義からの解放者と映った。しか し、イギリス人のもたらした実質的な影響は一般的には非常に小さいものであった。より大きな影響は、実際のところ、最初のアメリカ人宣教師の到来とともに訪れたのである。この宣教師の名をジャドソン博士という。

(注:ビルマ戦争の時代、カレン人は「重税を課され、ビルマ人支配者に抑圧されていた。このビルマ人によって、カレン人はペグーの田舎者からなる劣等民族だとひとからげにされていた。」さらに戦争中のビルマ人兵士たちは「略奪集団を成し、通り道にある無防備な(カレン人の)村を強奪し、火を放ち、たまたま行き交わす不運に見舞われた村人たち相手に不当極まりない残虐さを発揮した」同書、スノッドグラス)

注目に値するのは、イギリス統治下においてはカレンやシャンなどの山岳地帯の州が、ビルマ人固有の本土(ビルマ人行政区)とは異なる辺境地帯であると見なされ、(イギリスの直接統治下にあったビルマ本土とは対照的に)高度の自治を享受していたという事実である。ビルマ人の政治家にとって、こうした状況は屈辱的なものだった。

第2次世界大戦において、われわれは連合国と協力した。この協力ゆえに、われわれはビルマ独立軍(BIA)の手になる残虐行為の標的となった。1940年、30人の志士と自称するビルマ人指導者たちの集団が、日本人工作員の手助けにより、日本に渡った。さらに、彼らは軍事訓練のために中国の海南島に赴いた。そして、1941年、彼らはタイを占領した日本軍に同行し、BIAを創設したのであった。

日本人がBIAに約束したのは、戦争ののちにビルマは独立国となる、ということと、すでにタイに与えると約束したケントゥンとサルウィン川の東の諸州を除き、シャン州をも獲得することができる、ということであった(『わが消え去りし世界』ネル・アダムズ、サオ・ノアン・ウー著)。

イギリス軍がビルマから駆逐されるや否や、1942年初頭、BIAの部隊はイラワディ・デルタ地帯とパプン地区のカレン人民間人を包囲し、イギリスのスパイと非難して夜ごとに何百ものカレン人を殺しはじめた。カレン人は抵抗し、市民戦争が勃発し、これは6ヶ月続いた。最終的に、原因がBIA側の民族的偏見にあることを理解した日本当局が紛争を停止させた。

BIAはアウンサンの指導の下に結成された。しかし、残虐行為とそれに引き続く紛争が、彼がビルマ北部のミッチナーに長期の旅行に出て不在にしていた間に起きた。戻ってきた彼はこの出来事に衝撃を受け、ビルマ人とカレン人の間の友好のための運動を指導した。しかし、われわれとモン人は、パンロン合意から除外されたのであった。これは1947年2月12日にアウンサンとシャン人と国境地帯の他の民族 (カチン人とチン人)との間で署名され、最初のビルマ連邦を実質的に確立した合意であった(アウンサンはぜがひでも合意に署名したがっていた。彼は、カレン人にまつわるさまざまな問題にかかわって手間取るのを望まなかったのである)。

こうした歴史ゆえに、われわれはいまもビルマ人の態度に恐れを抱き続けている。かりにSPDCが打ち負かされたとしても、われわれはふたたびビルマ人の支配されることになるかもしれない、と恐れているのである。 それゆえ、われわれは、このような歴史がふたたび将来繰り返されないための手だてとして、すべてのビルマの人々が参加し、平等な諸州からなるという強力な連邦体制の理念を支持している。

2012/05/14

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(3)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の3回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき)
価値観と儀礼

伝統的なカレンの村社会は、数々の核となる価値観をめぐって形成されている。それらに含まれるのは、精神的価値とそれに関連する社会的価値の双方であり、たとえば家族と共同体の重要性、年長者への尊敬、貧困者と障害者への配慮、両性間の高度の平等である。共同体形成に関しては、カレン人には確固たる民主主義的な伝統がある(「3.カレン民族の政治組織」を参照されたい)。

こうしたカレン人の価値観はまた同時にカレン人の儀礼にも反映している。 手をつなぐ儀式であるキー・スエがその一例である。年に一度、通常6月ごろ(太陰暦にしたがう)に、カレン人家族は僧院に集まり、子どもたちとその友人たちは染められた紐で互いの手首を結び、「ガラ」(精霊)の帰還を祈る。この儀式には、子どもたちとその友人たちを象徴的に結び付けるといったいろいろな目的があるが、より大きな意味としては、すべてのカレン人をひとつの民族としてまとめるためのものである。

アウ・ブワと呼ばれる別の儀式では、骨が拾い集められるが、これには2つの機能がある。存命中に非常な尊敬を集めたカレン人の長老は、その死後に火葬に付される(埋葬されるのではなく)のだが、この儀式が執り行われるのは、それから適当な期間(一年かそれ以上)を置いてからのことである。遺族たちは、骨のかけらを壺に集め、それを特別な埋葬地に安置する。そして、その夜に求婚の儀式が行われるのである。村の若い男女は向かい合いながら列を作り、それからカレンの音楽とともに、歌い、対になった独特の韻文で声を掛け合う。この儀式は、それがもたらす楽しみにくわえて、ふさわしい結婚相手を見つけるのに役立っている(カレンの夫婦は一夫一妻を守り、伝統的に結婚前の性交渉はない)。

もうひとつの伝統的な葬送儀礼は、ロエの儀式として知られている。この儀式においては、死者が埋葬された後に、その遺族や友人たちが、森の中の好ましいところなど別の場所に集まり、故人が次の人生で見つけ出し、使ってくれるようにと、家庭用具や籠などの所有物を置いておくのである。

他の年中祭事としては、12月あるいは1月に行われる新年祭、2月の収穫祭がある。ニー・ト・タウと呼ばれる新年祭は、祈祷、スポーツ、ゲーム、踊りが行われる共同体の祭りである。貧困者と恵まれない人々には特別の配慮がなされる。また、年に一度共同体を挙げて屋根の葺き替えが行われ、貧困者、あるいは配偶者を失った人には特別な援助が行われる。

カレン人の価値観は日常生活においても見て取ることができる。たとえば、長老たちは揉め事の解決に呼ばれるが、それはその知恵と経験に対する尊敬の証である。家族においては、母方の親類は年に一度集まって、家族をひとつにし、誰も欠けることがないようにと捧げものをする。大変な時期には、この集いは2年間延期することができるが、すくなくとも3年に一度は行わなくてはならず、さもなければ家族に大きな災難が振りかかると信じられている。

家族の中にあっては、長男もしくは長女は、両親の死までふたりの面倒を見なくてはならない。すでに述べたように、かなりの程度、男女は平等である(近隣のインド、中国、タイにおける女性に対するはなはだしい差別とは非常に対照的である)。女性は家計をつかさどり、女の子は男の子と同じぐらい褒められる。カレンの家族の目標は、両性の間のバランスを保つこと、男の子と女の子が同じ数だけいることである。

結婚に際しては、花婿の両親と長老は花嫁の家族を訪れ、婚姻の要求を行わなくてはならない。持参金の習慣はない。結婚式は花嫁の家で執り行われ、村中が招待され、徹宵して歌い踊る。

最後に述べるべきカレン人の価値観は、よそ者に対する歓待である。旅行者がカレンの村に到着したときに、村人が野良仕事に出ている場合は、その旅人はどの家に入って休んでもよい。そして、戻ってきた村人は、訪問者のために食事の支度をする。また、訪問者に不審の念を抱くこともない。いかなる詮索も無用とされるのである。

2012/05/13

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(2)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の2回目。)

2.カレン民族の歴史と文化

文化史

カレン民族はモンゴルに起源を持ち、4000年ほど前にそこから移住をはじめた。われわれが中国を経由し、現在ビルマ、サルウィン川、イラワジ渓谷と呼ばれている地域に到達したのは3000年ほど前である。カレン人はその時代には民族としての一体感を持つに至り、その結果、独自の暦も使われるようになった。その暦によれば今年(2003年)は2742年となる。

1931年 に英国によって行われた最新のビルマの人口統計によれば、カレン人の数は140万ほどと見積もられている。しかし、これははなはだしく過小な見積もりである。調査そのものは、イギリス人に代わって、大部分はビルマ民族出身である役人によって行われ、われわれの信じるところによれば、彼らはカレン人仏教徒をビルマ民族として計算したのである。1942年には日本軍がカレン人口を450万と見積もっている。現在の人口は、800から1000万人の間にあると信 じられており、そのうちおよそ100万人がカレン州に住み、残りはペグーから、ラングーン、メルギ・タヴォイにまでいたるビルマ南部のデルタ地帯に広がっている。

(注:カレン州の境界は、ビルマ初代首相のウ・ヌによって決定されたものである。この州境は、カレン人が伝統的に生活してきた土地のうちのわずかな部分を含むに過ぎない。「道、もしくはその名に値するようなものは、この下部地方では全く知られていない。森の中をあちこちに伸びる踏み しだかれた小道のみが……あるのが分かるのみで、その道が、この土地を耕作しているカリアン族[カレン人]の頻繁に行き来するところとなっているのだ。」 『ビルマ戦争を語る』スノッドグラス少佐著、1827)

カレン人は歴史的に(現在も大部分がそうだが)、渓谷や、平野、山岳地帯に住み、農 業、狩猟、採集によって生活の糧を得る田舎の人々である。ビルマの南部と南東部に拡散した結果、下位集団が形成された。これらの下位集団は、ひとつには言語の違いによって区別されるが、この区分そのものは19世紀初頭のアメリカ人キリスト教宣教師の影響に端を発するものである。

カレンには、 ポー語とスゴウ語という2つの文字を持つ言語がある。これらはそれぞれヴィントン牧師とウェイド博士という2人の宣教師の協力によって作られた。これらの文字を持つ言語はより正確には方言として扱うことができる。というのも、双方とも同じ文法をもち、語彙の80パーセントが共通するからである。デルタ地帯にはポー語と スゴウ語の双方の話者集団がいる。山岳地帯にはブウェ語として知られるポー語の下位方言を使用するカレン人と、パク語として知られるスゴウ語の下位方言を用いるカレン人がいる。山岳地帯にはこれ以外にもさらなる文化的な多様性といくつもの下位方言が存在する。

カレン民族はまたカレンニー民族とも関係がある。カレンニー民族は現在50万から60万の間の人口をもつと見積もられており、ブウェ語を使用している。しかし、カレンニー民族は、カレン州のすぐ北に独自の州を持ち、また独自の文化と歴史を持つ点で、カレン人と区別される。カレンニー人は、領主をいただく封建的政治構造を持つ点で、さらに北にいるシャン民族と似ている(この領主はシャンでは藩王として知られる)。カレン人は平等主義者である。われわれは封建的社会というものを持たなかった。

カレン人は伝統的に、精霊を信仰するアニミストであった。しかし、この精霊信仰は、他のアニミズム信仰の社会によくあるように特定の自然精霊を複数信じるということに眼目をおいたものではなかった。そうではなく、カレン人にとっては水と大地と空の主人が偏在していたのである。さらに、ある最上の精霊が、水と大地と空を支配するという信仰があった。精霊の力をひとつの中心へと集めるこの伝統によって、カレン人は事実、宣教活動の影響のもと、キリスト教一神教へと容易に移行していったのである。現在おおまかに見積もって40パーセントのカレン人がキリスト教徒、40パーセントが仏教徒、残 りの20パーセントがアニミストとなっている。仏教徒の多さの一因となっているのは、仏教では伝統的な宗教行動の多様性が許容されているのに対して、キリスト教では逆に禁止されているということにある。

最後に、カレン州の名前であるコートゥレイについて述べるならば、これはしばしば「光の大地」と訳されるものの、さらに言葉通りに訳すならば「悪のない大地」となる。

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(1)

4月25日から5月4日にかけて、ビルマ連邦民族統合評議会(UNFC)の代表3人が日本の外務省の招きにより来日した。そのうちUNFCの副議長を務めるのが、現在カレン民族同盟副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏だ。彼は現在のカレン民族の中でもよく英語で文を発表する人で、次に翻訳・紹介するものもそのひとつだ。この翻訳自体はずいぶん昔のもので、誤訳もあるかもしれないが、カレン人とKNUのまとめとしては分かりやすいと思う。原文はTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONで見ることができる。


ビルマのカレン民族とカレン民族同盟
David Tharckabaw, Roland Watson
2003年12月

目次
1.カレン民族が社会的・政治的に目指すもの
2.カレン民族の歴史と文化
3.カレン民族の政治組織

1.カレン民族が社会的・政治的に目指すもの
カレン民族同盟(KNU)は、ビルマのカレン民族のための政治的組織であり、政府である。その基本目標は、ビルマ軍事独裁政権の手による大量虐殺に苦しんでいるカレン人に解放をもたらすことにある。この解放は3つの要素からなる。すなわち、食料や医療援助の形で人道援助を提供すること、自己防衛の手段を提供すること、そして、カレン人やその他の民族に対する虐殺行為、およびビルマに暮らす全国民に対して加えられるあらゆる人権侵害に完全に終止符を打ち、二度と起こらないようにするために、独裁政権たるSPDCを権力の座から引きずり下ろそうと勤めているすべての組織と協力すること、である。

さらにKNUは、SPDCとの誠実な対話と、民主主義への平和的移行を常に望んでいる。

また、KNUは抵抗政府以上のものであろうとしている。つまり、将来の民主主義連邦国家ビルマにあって、体制面においても機能面においてもしっかりしたカレン州政府を形成すべく努力している。

もっと一般的にいえば、カレン人は、ふたたび自分たちの村、畑、価値と文化を確立し、ビルマの他の民族と協力しながら平和に暮らせるように、ビルマ国内に社会的調和のある状況が生み出されることを切望している。

これらの目的と希望のすべてはコトゥーレイ州の憲法草案の前文に反映されている。

憲法前文

わたしたちカレン人は、友愛、統合、自由の精神に基づき、平和、安定、安全、社会進歩のために、この地の他の民族とともに(空白)連邦の一部となります。わたしたちは、自由、平等、自己決定権を求めるために、ひとつの民族としていかにわたしたちが激しく戦ったかを、そして、自分たちの基本的人権と、連邦制の枠組み内での自分たちの社会、文化、経済を自由に発展させるための権利を守ろうと、いかにきびしい覚悟をもっていたかを、けっして忘れることはないでしょう。

封建時代においては、わたしたちカレン人は、組織的にそして容赦なく弾圧され、収奪され、人間活動のあらゆる領域での前進の機会を奪われていました。抑圧と従属の体制がおわると、わたしたちは、勤勉に、そして自信をもって速やかな発展を成し遂げ、60年のうちに、持続的に発展する能力を持った文化的共同体となるに至りました。

しかし、ビルマがイギリスから独立すると、政治的未熟さと不寛容さ、そしてなによりも権力者たちの狂信的民族主義により、内戦がおこり、半世紀以上にわたる抑圧、従属、収奪の暗黒時代が到来しました。この暗黒時代において、すべての人が計り知れないほどの苦しみを受け、国は壊滅的な後退を余儀なくされました。

したがって、わたしたち、コートゥレイ州のカレン人、そして他州に暮らすカレン人は、この暗黒時代への回帰を避けるために、平和を愛好する他の民族と協力し、連邦の調和と安定、繁栄のためにつねに働くものとなるでしょう。

2012/05/11

謝罪

あるビルマ難民、Hさんから聞いた話。

Hさんは都内の飲食店に勤めているのだが、日本人の店長がけっこう厳しい人だった。

何かというとガミガミうるさい。Hさんは日本語は割に上手だったし、仕事の経験もずいぶんあったけれども、それでも店長の目から見れば不満な点もあったらしい。

それがこの間、インドネシアに長く旅行に行っていた店長が帰ってきた。彼は店にやってくるやいなや、Hさんにこう言ったそうだ。「外国人の気持ち分かったよ! 厳しいこと言ってごめんなさい!」

なんでも、言葉が通じないレストランに行って注文に困り、外国人の立場が身にしみて分かったらしい。

ありふれた話かもしれないけれど、その話をするHさんのうれしそうな様子に感銘を受けたのでここに記録する。

なお、店長はHさんに対してやさしくなったそうだ。

子をつれて

マノー祭りでは男性は刀をもって踊る。下の写真はその刀だが、雰囲気はあるがこれは本物ではなく、飾り物だとのこと。ま、本物の刀をもって東京の真ん中で踊れやなんかしない。

それに、飾り物とはいえ、刀の数は限られている。で、何を使ったかというと、チャンバラ用のおもちゃの刀。会場で一振り千円で売ってた。


高い。だが、お祭りへの寄付と思えば安い。もっとも、わたしは買わないことに決めた。すると、はじめの踊りが終わったときに、友人のひとりがくれた。

さて、昼食は会場でカチンの人たちが自分たちで作った料理を売っていた。フランクフルトが100円。焼きそばやビルマ風カレー、カチン風の弁当やデザートなどが500円ぐらいで売られていた。


その日は暑い日で、昼食タイムの間、参加者たちは公園の木陰に群がって、ご飯を食べたり、おしゃべりしたり、ぼんやりしたりしていた。子どもたちは刀を振り回して遊んでいる。ゴールデンウィークの初日だから、東京も静かだ。

日本人が運営したりすると、こうした休憩の間にもなにか音楽を流したり、小さなイベントを仕掛けたりして、せせこましく空白を埋めようとするものだが、カチンの人たちはそういうことをしないようだった。本当の無為の時間で、わたしはなんだかカチンの村にでもいるような気になった。


この日、カチンの友人が子ども用のカチン・ドレスを用意してくれるというので、わたしは4歳の娘を連れて行った。それで、帰るときのわたしは片手は刀、別の手に子どもの手という格好となった。気分としては「子を貸し腕貸しつかまつり候」というノボリでも立てたいところだったが、柳生烈堂の手のものが襲ってきたら怖いので諦めた。

2012/05/09

マノー祭り

カチン民族の伝統的祭事「マノー」が、4月28日東京芝公園で、在日カチン人と日本のNPOにより「マノーまつり」として開催された。

今回のマノー祭りにさいし、日本のNPOがマノーの専門家を招聘したということで、かなり本格的なもの。

祭りの意味やその内容に関しては、専門家に近く話を聞く機会があるので、そのあとに記そうと思う。

簡単にいえば、マノー・ポストと呼ばれる柱を立てて、その周囲を列を作ってぐるぐる蛇行しながら踊るというもの。その踊りは複雑なものではなく、男性は剣をもち、女性はハンカチを持って、小さく振りながら進むのだが、列そのものの蛇行の仕方が非常に難しくで、これが祭りの要、へたにやるとかえって災いが起きるとのこと。

祭りの開始は、10時から。開会式のあと、踊りが始まり、30分ほどの踊りのあと、お昼の休憩タイム。その後、もう一度踊りがあり、5時に終了という流れであった(とはいえ、わたしがいたのは、2回目の踊りのはじめぐらいまで)。

参加者は在日カチン人と日本側のNPO関係者ばかりでなく、在日ビルマ難民、日本の難民支援関係者、ビルマの研究者、国会議員など。日本のカチンの人々は難民問題や民族問題に熱心に取り組んでいるので、有力な支援者との協力関係をかねてから築いていて、そうした努力が今回の祭りの実現に繋がったのだろう。

踊りには基本的に誰でも参加できるようだが、列を乱したり、行列のリーダーの先に出たりしてはいけないようだった。

カチンの衣装に身を包んだ民主党の中川正春大臣。

マノーの行列が動き出す。






マノー・ポスト。模様には意味があり、
またこの渦巻きの通りに行進しなくてはならないという。



2012/05/08

アマゾネス(3)

もうひとつの話は、もしもカレン烈女伝があるとしたら、エントリー間違いなしの女性についてのものだ。

正確な年代については聞いてもなんだか分からなかったのだが、それでも1947年のカレン革命以後というからそれほど昔ではない。

NAW THA LU SAE(ノウ・タールーセー)という女性がいて、ビルマ軍に捕らえられて、乳房を片方切り取られるという拷問を加えられた。

痛手を負いながらもビルマ軍から逃げ延びた彼女は、激しい復讐心を抱いてカレン軍に身を投ずるや、軍を率いてビルマ軍と戦い、敵に大きな打撃を与えたという。

その戦いぶりは超人的なもので、ビルマ軍の撃つ弾は決して彼女に当たらなかったと伝えられ、ビルマ軍兵士は彼女を「片乳(ノー《乳》タロウン《一個》セイン)」と呼んで恐れたという。

この伝承はもちろん、カレン語の女性名(ノウ・タールーセー)をビルマ語で解釈したため、つまりスゴーカレン人の女性の名前の前につける冠称のノウをビルマ語で《乳房》を意味するノウ、タールーをタロウン《一個》と付会したために生まれたに違いない(「セイン」は《ダイヤモンド》の意でビルマ語名によく用いられる)。

カレン語の名前の意味がはっきりしないので、この程度のことしか分からないが、いろいろと調べてみれば、とても楽しい時間が過ごせるはずだ。

ちなみに、古代ギリシアに出てくる、弓矢を打つために片方の乳房を切り落としていたという女性戦闘民族アマゾネスも、その名称をギリシア語で「乳なし」と解釈したために生まれた伝説だという。

アマゾネスというのはスキタイの民族集団だということで、これがカレン・ビルマの伝承、しかもごく最近の伝承とどう関係があるか分からない。ま、おそらくないだろうが、ノウ・タールーセー伝承というのが、もっと古い伝承の焼き直しだという可能性だってある。となるとカルロ・ギンズブルグの『闇の歴史—サバトの解読』が思い出され、話は全ユーラシアに広がることになる。

そして、こんなふうないかにも胡乱な珍説でも立証にはそれなりにたくさんの本が必要で、てことは結局儲かるのはアマゾンさんというわけ。

2012/05/07

アマゾネス(2)

カレン人の社会、文化の中で女性がどのような役割を果たしていて、それがカレン民族運動(戦争を含む)や、NGO運動の中でどのように変化しているか、あるいは今の女性のリーダーシップの歴史的経緯や、今後の可能性などを、国内のカレン人、KNU内のカレン人、難民キャンプのカレン人、外国のカレン人などのネットワークを踏まえつつ論ずるのは、非常に面白そうな研究だが、これはわたしのすることではないので、どうでもよろしい。

それはともかく、カレン人の女性について興味を感じたわたしは、いろいろと尋ね、2つの興味深いエピソードを聞くことができた。

そのうちのひとつは、現在、カレン州にある村の村長の多くが女性であるという話だ。

これらの村は、ビルマ軍とカレン軍の交戦地域にあり、しばしばビルマ軍が村を襲い、村人たちを強制荷役に駆り出したり、攻撃したりする(今はわからないが)。

このような状況で、村にやってきたビルマ軍との交渉にあたるのは村長の役目だが、その際に女性の村長が対応に出たほうが、男性が同じことをするよりも穏やかに事が進みやすいのだそうだ。

これはおそらく、ビルマ軍が村長であれなんであれあらゆるカレン人男性が潜在的にカレン軍兵士であるとみなしていることに関連しているのだろうと思われる(あまり人が言わないことだけれども、ビルマ軍は本当のところカレン人が怖くてたまらないのだ)。

これなどはビルマ軍への対応という外在的な理由からカレン人の女性のリーダーシップが必要とされるようになった事例といえるかもしれないが、元々カレン社会での女性の地位が高かったから、そのような解決策が選ばれたということもできる。

では、同じような状況に置かれている他の民族(シャン、カチンなど)ではどのような方策が取られているのか。 同じような解決策が取られているのか、それとも少なくとも女性が村長をするという選択肢はないということになるのかどうか、わたしには分からないけれど、こうしたことを細かく調べて比較したり、分析したりすれば、興味深い研究になるかもしれない。もっとも、これもわたしのすることではないが。

モヒンガーとApple

今日はBRSA(在日ビルマ難民たすけあいの会)の仲間たちと飲む(いつも飲んでるみたいだが)。

豆苗のサラダとレンコン入りモヒンガー(魚のだし汁の麺)をご馳走になる。

BRSAには名古屋支部があるが、今日は名古屋で水かけ祭りがあり、BRSA幹部がひとり東京から参加したとのこと。

NLD、LDB、BRSA名古屋支部などがお店を出したり、ビルマの楽団が演奏したりしたというが、今日の悪天候、特に昼過ぎの大雨のせいで、人出は少なかったそうだ(それでも一応は利益を上げたという)。

ところで、今日の飲み会の場所はBRSAの役員の女性の家で、ご主人はとてもAppleの製品に詳しい。iPhoneを見せたら、あっという間に初めて見るような機能(ホームボタンをタッチパネル上で代替するAssistiveTouchやバッテリーの減りを少なくする方法)を教えてくれた。「奥さんよりもAppleが好き」とみんなにいわれるだけある。

2012/05/05

アマゾネス(1)

またまた飲んでいるときの話で恐縮だが、飲み会のとき、あるカレンの男性に薮から棒にこんなことを聞かれた。

「奥さん強い?」

この俺に何をくだらんこと! わたしはせせら笑いながら即答する。「強いです」

「は! じゃあんた、カレン人だ!」

わたしの家庭の事情はともかく、カレン人の女性は強いのは確か。カレン人は日本人とは異なり、男性が家事や料理をするのは珍しくはない(もっとも、ビルマ人もけっこう男性が料理する)。

しかも、KNU(カレン民族同盟)といったカレン人の政治団体やNGOを見てきたわたしの経験からすれば、カレン人は女性のリーダーシップを重視しているといっていい。今のKNUの事務局長は女性だし、タイ国境で働くカレン人NGOでもたくさん女性が活躍している(その代表例がメータオ・クリニックのシンシア医師だ)。

しかし、だからといってカレン社会で男女平等が確立されているというわけではない。いかにKNUの代表のひとりが女性であるとはいえ、その幹部の大部分は男性だ。わたしは戦争のことはわからないが、カレン軍の兵士に女性がいるのは確かとしても、やはり実際の戦場では男性兵士のほうが多いに違いない。

2012/05/04

涙の理由

このエピソードは、1年ばかし前にあるビルマ難民が難民認定された時のものだけれども、本来ならばわたしではなく、当事者が書くべきものだ。

というのも、その人には、書くべきことを書くだけの十分な日本語能力が備わっているから。何をわたしがでしゃばることがあろうか。

とはいえ、あまり自分のことを得意気に吹聴しないのが、ビルマの人々。あるいはそのまま書かれずじまいなんてこともありうる。わたしが自分がふさわしからぬのを承知でその人の代わりに書くのは、ひとえにこれを恐れてのことだ。

もっとも話は単純だ。

入管に呼び出され、担当の職員から難民として認定されたと告げられた時、彼はどうにも泣かずにはいられなかったのだ。

うれし涙。確かにそうだ。自分が難民であることを訴える真面目な努力が実を結んだのだ。

だがそれだけではない。

難民認定に至るまでの苦労が思い出されて泣けた。確かにそうだ。これは入管に収容されたものにしかわからない。

だがそれだけではない。

予想だにしなかった。確かにそうだ。難民認定されるなんて、本人すら思いもよらなかった(わたしだってそうだった)。彼は政治団体を率いるリーダーでもなければ、誰もが知るような派手な活動家でもなかった。彼はただただ誠意をもって難民審査に立ち向かい、みごと勝利してみせたのだ。その感動が彼を泣かせた。

だがそれだけではない。

彼は、これらの喜び、感動を感じながらも、それと同じだけ悲しかったのだ。

「ああ、難民と認定された以上もう俺はビルマに帰ることはできない。もう家に戻ることはできないのだ。難民認定とともに故郷から切り離され、異国で一人で生きていかなくてはならないこの俺は今日からまったくの別の人間になってしまうのだ……」

彼は人目をはばからず泣いた。

しまいには入管の職員も心配して慰めようとする始末。

2012/05/03

ヘビとカバ

カレン人の抵抗組織、カレン民族同盟(KNU)とビルマ政府との交渉が本格的に始まりつつあった2月ごろのこと、飲み会であるカレンの人がこんなことを言っていた。

「いまみんなカレン人はジプシーになっちゃったよ。遊んで、アコーディオンやって、歌って、それだけ。女の子はソープランド。なんにも考えない。

イスラエルは強いよ。みんなにいじめられたけどがんばって、国作った。強い国作った。本に書いてある。わたし、しっかり読んだよ。

ビルマ軍がカレン人と停戦。でも、強いプロレスラーが子どもにby forceでサインさせようとしてるようなもの。これはほんとじゃない。

ビルマ人はヘビみたい。この前テレビ見たよ。ヘビがカバ飲み込んじゃった! カレン人は気をつけなきゃ」

別のカレン人が口をはさむ。「えっ? カバがヘビ飲み込んだの? どっち?」

「どっちだっけ・・・・・・」

もうグダグダ・・・・・・。

(ところで、ここであるカレン人が語る「ジプシー」とか「イスラエル」のイメージが完全な誤りであることはいうまでもない。)

2012/05/02

FRCS-Japan

カレンの人たちと飲んだ。

みんな酔っぱらって大声でしゃべることしゃべること。いや、怒鳴ってる。

「外国にいるビルマ出身者なんて、あれだ、3Dだ!」

「3D?」

「Dirty、Dangerous……後ひとつはなんだ?」

誰も分からない。「なんだっていい、3Dだ!」

黙って飲んでいたわたしは日本語の3Kすらアヤしいことに気がつく。汚い、危険、あとひとつはなんだっけ? こっそり携帯で調べだす。

「俺はビルマに帰ったら」と一番の年長者が話してる。 「会社を興すんだ! 名前はもう決まってる。FRCS-Japan! 俺はみんなに名乗るんだ。FRCS-Japanのものだ、てな!」

なんだ? そのFRCS-Japanてのは? やけにカッコいい社名じゃないか!

「そうさ! FRCS-JapanのFはFactory! FRCS-JapanのRはRestaurant! FRCS-JapanのCはConstruction! FRCS-JapanのSは……決まってるだろ! SOUJI(掃除)だ!」

日本での職業経験が全部詰まってた。

ちなみにもうひとつのDはDemeaning(不当に地位が低い)だとのこと。

2012/05/01

洗礼と教会

わたしはキリスト教徒じゃあないが、あれってキリスト教的にはいいのかね。

「ダルビッシュ、メジャーの洗礼」って。

洗礼ってのはそんなに厳しいもんなのかね。

「ナザレのイエス、ヨルダン川できつーい洗礼」とは福音書には書いてなかった(ような気がする)。

ま、どうでもいいんだが。

ところで、在日カレン人の集まる教会ってのが、10年以上前からあって、要町の教会を借りてるんだな。

でまた、別のカレン人たちがいて、去年ぐらいからかな、 そのうちのひとりの家に集まって、礼拝をしてたんだ。月一回、最後の日曜日に。

わたしはその礼拝には行ったことはないが、その家にはよく行くので、部屋の片隅にビルマ語の賛美歌の本とか積まれているのには注目してた。また、礼拝の後はみんなで食事をする決まり、で、わたしが行ったときにその残りがあると、ごちそうになってたりしてた。

そんでだ、昨日のこと、その家の主が、わたしに言ったんだな。

「今月から、駒込の教会を借りて礼拝をすることになりましたよ!」

わたしはキリスト教徒じゃあないが、こゆのはうれしい。