2012/09/27

涙曹操

今年の5月、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の総会の後、みんなで大塚のビルマ家庭料理の店エーヤワディに行った。

みんなほっとして飲んでる。わたしもだ。豚肉料理やショウガのサラダなどが出てくる。メニューを見ると、「ヤンゴン丼」「マンダレ丼」とある。


何かと思って聞くと、中華丼のようなものらしい。たしかマンダレーのほうは辛口だとか。

この店は造りがスナックで、カラオケもある。みんな、ビルマの歌を歌ってる。ああ、ついに俺にお呼びがかる。歌いたくなんかないが、ちっとは愛想良くしなきゃ。なにしろ、わたしは今日からしばらく会長として働かなくてはならない。それで選曲に乗り出す。

わたしは酔いのせいにすることはできない。お前は一体どんな気持ちで、どんな見込みがあって、どんな高みに上り詰めようとして、何を冀って、この曲を選んだのだ? 嵐の「Love Rainbow」をっ。よりにもよって! まったくの大惨事。ま、みんな聞いてやしなかったが。全然歌えなかった。サビのメロディも忘れてた。七色のフレーズはとんと煌めきださなかった……。あまりの惨状に、事務局長のHさんがもうひとつのマイクを持ってやさしくサポートしてくれてた。「サンハイ!」てな感じで。いたたまれぬ! 

わたしは自分を激しく呪う。お前なんかもっと素朴なチョイスがお似合いだ! 尋常小学校唱歌とか。ちょうど澁澤龍彦がそうして笑われたみたいに。おお、芸術か、猥褻か……平成のサド裁判のはじまりだ!

有罪を宣告されたわたしは再び黙って飲みはじめる。みんなおおいに歌い飲み騒いでいる。とかするうちに、もうそろそろお開きの時間。最後に一曲! するとHさんが気を利かせて、「涙そうそう」を入れてくれる。ビルマ人も大好きな歌。以前わたしはこいつをみんなで歌ったことがある。Hさん、わたしに名誉挽回のチャンスをくれたというわけだ。

わたしはマイクを握って歌いだす。なんと! いい声出てる! 伸びやかに、声量もばっちしで、会長の面目守られたり! と思ったら、役員のZさんが別のマイク片手に気持ち良さそうに歌ってた。涙そうそうなのはこっちで。

2012/09/26

チン語のオンライン・ディクショナリー

チン語のオンライン辞書を作るプロジェクトが、チンの人々の手によって進められているとのこと。

Zolai Dictionaryというのがそれで、すでに2万2千語以上のデータがあるという(もっともこのデータが何を意味するのか、つまり辞書の項目数なのか、テキスト総体の単語数なのかはわたしにはわからない)。

これは英語=チン語辞書で、英単語を入れて検索すると、該当するチン語の単語が出てくる。

しかし、チン語といってもその中にはいくつもの言語が含まれる。この辞書が対応するのは、ティディムとハカーというチンの中でも代表的な2種の言語だけだ。

とはいえ、ハカー・チンの単語が出てこないときもあるし、また、ティディム・チン語のほうが少々詳しいようだ。

わたしはいくつか簡単な単語を入れて、ハカーとティディムで比較してみたが、明らかに似ているものもあれば、まったく違う単語もある。そもそも、両者の話者は互いに理解できず、意思の疎通を図るときはビルマ語を用いる。

似ているものを挙げれば、「目」は、ティディム(T)でもハカー(H)でもmit。しかし、これはあくまでも文字が一致しているだけで、実際の発音、特に声調が同じかどうかはわからない。また、「手」は、Tがkhut、Hがkutで、関係ありそうだ。

しかし、「米」はTがbuhtangあるいはantangで、Hがfacang。関係ありそうでもありなさそうでもありといったところ。

いろいろと比較をしてみたら気がつくこともあるかもしれないが、言語の比較というものは、そんなに甘いものではなく、多くの素人が手を出して大やけどをしている火事場のような分野なので、門外漢はお遊び程度にとどめておくのが無難だ。

しかし、そうではあってもこのオンライン・ディクショナリーがどんどん発展し、精密になっていけば、この辞書を用いて本格的な研究も可能になるかもしれないとも思うし、そうした成り行きこそがこのプロジェクトに関わるチンの人々の願うところでもあろう。

2012/09/25

だれが詩人を殺すのか

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)のメンバーに20代の男性がいる。

彼はたまにFacebookで短い詩を発表する。ビルマ語で、そしてときには日本語で。

日本語の詩についていえば、日本語を母語とする人なら言わないな、という言葉遣いもないではないが、意味はちゃんと取れるし、なにより内容が真剣だ。人生について彼が折にふれ感じたことが記録されている。わたしは彼の詩がフィードに載ると必ず「いいね!」を押すことにしている。

ここで引用することはしないが、ある詩で彼は孤独とホームシックについて言及した。

すると、彼の友人のビルマの女性からこんなコメントが。

「彼女いないからじゃない?」

それからしばらくして、彼は人生に関する心境の変化と不安を詩で語った。すると同じ女性が、

「だから彼女探せばいいじゃん」

身も蓋もなければいいじゃん。

カンドウのお知らせ

息子や娘が外国で民主化活動をしていたり、どこかで難民認定申請をしたりしたせいで、政府の迫害が自分たちに及ぶことを恐れて、ビルマ国内に暮らすその親や家族は新聞に次のような告知を出すことがある。

息子(娘)を勘当するお知らせ

わたしどもの息子(娘)であるナニガシ(国民登録番XX)は、親と親族にとり許すことのできぬ行為に及んでいるため、ここに肉親の縁を切ることをすべての人々にお知らせいたします。
  (理由についてのお尋ねはご容赦ください) 

(父母の名前と国民登録番号)

あるカチン人が自分の息子について同じような告知を出した。それを聞いた息子さんの奥さんは、なんてひどいことをするのだろうと激怒した。そして、人を通じて電話をかけさせ、その義理の親を責めるとこう答えたそうだ。

「あれは新聞だけ! 息子は息子だよ!」

2012/09/24

タイガー・アンド・ワイルド・ボア

あるカレンの人に元気かと聞いたら「半分元気だけど、半分元気ない」と答えた。で、わたしは、その人がついこの間バンコクで左右の腕に虎を雌雄一匹ずつ入れ墨をしてきたのを知っていたので、「え、どっちの虎が元気ないの?」と冗談を言ったら、なぜか虎はメスのほうが強いという話がはじまって、めんどくさい流れになった。

ところで、北東インドにカルビ人という民族がいるが、その牧師さんが以前虎についてこんな話をしてくれた。村でまれに原因もなく狂乱状態に陥る人が出る。それはまったく手がつけられないほどで、その人は村人の制止を振り切って村はずれのジャングルまで行ってしまう。するとそこには必ず虎が待ち構えていて、食べてしまうのだという。

わたしはこの話を聞いてから、虎に興味を持ち、虎のことを知っていそうな人には必ず質問してみることにしているが、たいした成果はない。タイのメラ難民キャンプは山の中にあり、ビルマ側にはさらに大きな山がそびえているが、時折そこから虎の鳴き声が聞こえるという。わたしはその話を聞きながら、朝靄に煙る深山を感慨を持って見上げたものだが、ま、ホントかどうかはわからない。

それはさておき、そのカレンの人の虎の話は続く。なんでも山中で虎と野猪が闘って、猪が勝ったのだという。目撃していたカレンの村人がのちにその激戦地に戻ってみると、おそらく山犬が食べてしまったのだろう、虎の死体は跡形もなかった。それでその村人は高価な毛皮を手に入れる機会を失ったのだとか。

2012/09/20

皮肉

以前ある難民認定申請関係の書類の翻訳を手伝ったのだが、再申請の人のもので、こんなふうに書いていた。

「わたしが再申請する機会をくださった日本政府と入国管理局のみなさまに心より感謝いたします。」

二度だろうと何度だろうと申請するのは難民の権利で、またそれを受け取るのは難民条約に加入した日本政府の義務だ。感謝すべきことなどなんにもない。だが、それをあえて感謝するのは、ビルマの人らしい慎ましさによるものだ。

だが書いた当人の気持ちがどうであれ、その「再申請する機会」を与えた直接の要因が難民不認定処分であることを考えれば、わたしにはこれはまったく嫌味にしか思えない。

2012/09/19

牛久の日々(5)

午後一発目の面会、こいつは少々早めに切り上げた。日本語の話せない女性だった。話の弾まないこと。英語で少々。

成田空港で上陸拒否。それから半年以上もの間、収容所暮らしだ。日本に来たような来てないような。煉獄のような。

まあ、入管の収容所に収容されるってことは、どっち付かずの煉獄に落とされることですな。生きもせず死にもせず、何ならば国としちゃ冷凍保存したいところ。国境の深淵にゆっくり沈んでいく冷凍庫に。そうすりゃ、みんな喚かない。苦しまない。ハンストなんかしない。頭痛なんか訴えない。自殺なんかしない。国に送り返すときになって、ハイ解凍。仮放免許可が出てハイ解凍。日本のテクノロジー。だけど、囚われのハン・ソロみたいな具合にはうまくいかんのですよ。

わたしが入管に行きはじめた頃、2003年か2004年の頃、当時は3年収容なんてざらだった。だから、10ヶ月目だなんてほんとのところ、あんまり心配してはいない。そのうちきっと出られるから。でもこれはビルマ難民だけ。アフリカからはるばるやってきた難民たち、スリランカ難民たちなんかにとっては事態はもっときつい。面会に来る活動家たちがいなけりゃやってられない。

話はずれるが、ちょうどこのころ、収容者の間でハンストがあったらしい(今もきっと続いているかも……)。だが、ビルマ難民の中には、利口に立ち回る人もいる。下手なことして入管に睨まれたらというわけだ。なんにせよ、みんな生きるのに必死だ。あがいている。

それにしても面会なんてイヤな仕事だ。息が詰まる。もし俺が同じ立場にいたらと思うと。逃げ出したくなる。面会室から。落盤した炭坑に閉じ込められたような息苦しさ。いつ出られるか分からない。刑期なんてない。刑務所じゃないんだから。

一体何の罪なんだろう、とわたしはよく考える、この人たちがここに閉じ込められているのは。答えは簡単だ。日本人じゃなかったという罪だ。償いようのないのが難点だ。

ところで、ゾラの『プラッサンの征服』にこんな一節が。

「時々マルトは優しい気持ちになり、すっかり物思いに捉われて唇に上がる言葉は緩慢になり、流れ星の金色の尾を見ながら口をつぐむのだった。彼女は微笑み、少し顔を上げ、空を見つめていた。
『またしても、煉獄の魂が天国に入るのだわ』と彼女は呟いた。」

しかし、出たところで天国というわけにはいかんのだ、こっちの煉獄は。

2012/09/08

びるまクン

わたしの友人が電話をかけてきてこんなことを言った。

「確かな証拠があるのだが、さかなクンのトレードマークであるあのハコフグのかぶり物は、帽子などではないのだ。己の宿命を悟った人間がそのさだめに一心不乱に打ち込む時、その対象は形を取らずにはおられない。魚類をひたむきに愛し、社会の啓発に打ち込むさかなクンのハコフグもそれに類したもの、つまり気の凝り固まりたるものにほかならぬのだ。だから、さかなクンはあのハコフグを脱がないのではない。脱げないのである。いや、そもそも脱ぐ脱がないというものではない。なにしろそれは彼の一部なのだから」

さかなクンが研究員を務める横浜の「よしもとおもしろ水族館」に行ったこともあるわたしとしては、友人のこの説にはまったく感嘆するばかりだった。そういえば、南方熊楠も菅江真澄のあの有名な被り物について同じようなことを言っていたような……。

だが、それはどうでもいい。友人は自説の開陳を終えると、不意にわたしに問いかけた。「お前はビルマのことをいろいろやっているそうだが、いっこうにそれが頭上において形象化されないではないか、いったいその程度の覚悟でいいのか!」

わたしは「うるせえ」といって電話を切った。

引っかけ問題(2)

ゆえにこの質問は実質的には無意味なのだが、そればかりでなく弊害すら引き起こしてると思う。というのも、この質問は難民認定申請者にとってはこう解釈されることとなるのである。
「もちろん、わたしは第三国への渡航を希望しないと書くべきだ。なぜなら、もしそう書いたとしたら、入管はわたしのことを日本に住むことを希望しない人間だと 判断するに違いないから。そんな人間に入管がどうしてビザを与えよう? 入管はこうやって難民認定申請者の日本への忠誠心を試しているのだ」

これが本当にこの項目で入管が意図しているのことなのかは分からない。しかし、穿った見方をすれば、前のバージョンの問いでは明白に表現されてしまう「日本に滞在したい」という意思表示が入管にとっては不都合であるため、質問の仕方を変えたのではないかという気もしないではない。

つまり、「日本にいたいか」と聞かれて「いたいです」以外の答えをいう難民申請者は少ないが、「第三国への渡航を望むか」と聞かれて「望む」と答える申請者はかなり多いからだ。

それは、日本にいたいという希望とは矛盾しない。第三国への渡航を希望する難民の多くはたいていの場合次のような条件付きで望んでいるからだ。

「もしこのまま、日本で難民として認められず、いつ入管に収容されるかも分からない不安定な状況のまま生きざるをえないのなら、いっそのことわたしをどこか別の国に送ってください」

しかし、現行の問いではこのような思いは反映されない。ただ、第三国に行きたいか行きたくないかが問われるのである。そして、それが入管側にとって申請者が 「日本にいたくない」という意思表示として受け取られない、申請者の意志が歪曲されて難民審査において悪用されないという保証はまったくないのである。

実に巧妙なる引っかけ問題といえるであろう!

2012/09/07

牛久の日々(4)

牛久の入管には食堂がある。品川にも軽食スペースがあるが、違うのはここじゃ入管の職員も一緒に食べることだ。この日は違ったが、牛久ではたまに法務省の新人研修みたいのをやってるらしく、食堂が人でいっぱいなんて時もある。

食堂のメニューはただひとつ。日替わり定食だ。職員は500円。それ以外は600円。

そして、この食堂でもっとも恐ろしいのが、一回限りのバイキングという点だ。食堂と調理室を隔てるカウンターにいろいろおかずが並んでいるのだが、どれもただ一回に限りすきなだけとってよいという方式なのだ。ついでにいえば、ご飯もみそ汁もおかわりできない。

味見もせずに分量を決められるかっ! てなわけで、結局どれも多めにとってしまう。プレートからこぼれ落ちてる始末。みっともない。

なお、この日のランチは次のようなものだった。

ご飯
みそ汁
キャベツのサラダ
マカロニサラダ
鶏肉のソテー
コロッケ
焼き魚(いわし)
トマトカレー
きんぴらみたいなヤツ
トマトとキュウリのサラダ
菜っ葉
漬け物
オレンジ

さて飯食い終わって、ぼんやりしていると、あっちゅまに2時だ。午後の面会は本当は1時からなのだが、それだけ詰まっていたのだ。

身元保証マニアのための素材集(3)

身元保証人の役割と責任については、入国管理局の「外国人の在留手続きQ&A」に公式見解がある。引用しよう。

Q7:提出書類に身元保証書がありますが,「身元保証人」とはどのようなものでしょうか。また,身元保証した際の責任はどうなっているのでしょうか。 

A:入管法における身元保証人とは,外国人が我が国において安定的に,かつ,継続的に所期の入国目的を達成できるように,必要に応じて当該外国人の経済的保証及び法令の遵守等の生活指導を行う旨を法務大臣に約束する人をいいます。身元保証書の性格について,法務大臣に約束する保証事項について身元保証人に対する法的な強制力はなく,保証事項を履行しない場合でも当局からの約束の履行を指導するにとどまりますが,その場合,身元保証人として十分な責任が果たされないとして,それ以降の入国・在留申請において身元保証人としての適格性を欠くとされるなど社会的信用を失うことから,いわば道義的責任を課すものであるといえます。

要するに、身元保証人を引き受けることによって、何か刑罰の対象となったり、罰金を払わされたりすることはないということだ。そして、「社会的信用を失う」といっても、「この人物は社会的信用がない」とおおっぴらに張り紙されるわけでもない。ただ、次に入管で身元保証人として申請しても、その申請が認められる可能性がおおいに低まるだけだろう。

そもそも道義的責任というのもよくわからない。人によって何を道義とするかは異なるものだ。入管には入管の道義があり、わたしにはわたしの道義がある。もちろん、仮放免申請の場合は入管のほうが強い立場なので、身元保証人としてのわたしの道義はそれほどやかましく主張されない。その意味ではこの道義的責任とは入管側から身元保証人に一方的に「課すもの」だ。しかし、道義についていうのならば、入管自体が国民により道義的責任を課されているわけで、入管が身元保証人に課す道義と日本社会が入管に課す道義が一致しているとは限らない。この点に関しては後で論じる機会もあろう。

引っかけ問題(1)

久しぶりに難民認定申請書を見る機会があったのだが、わたしが申請の手伝いを盛んにしていたときは若干異なっていた。

なかでも大きく違うのは第19番目の項目だ。

19 第三国への渡航を希望しますか。
□ はい □ いいえ
「はい」と答えた場合は,渡航先国及びその理由を具体的に書いてください。

この項目は以前はこんなようなものだったと記憶している。

あなたは日本での滞在を望みますか?
□ はい □ いいえ
「はい」と答えた場合は,日本での滞在を希望する理由を具体的に書いてください。

この問いに対してはすべての人が「はい」にチェックを入れ、具体的な理由には「日本は民主的な国なのでわたしの生命は安全です」とか「日本以外の国にはわたしたち家族は行き場がないからです」とか記したものだった。

これがどうして現行のもののように変わったのか理由は分からない。しかし、これは2つの点で不都合があるように思う。

まず、第三国への渡航希望を聞く理由が分からない。つまり、こうした希望を表明すれば実現するようなシステムがあるのなら、意味あることと思うが、現在のところ日本の難民申請者が第三国に行ける可能性はほとんどない。もしそんなことができるならば、ビルマ難民に関していえばみんな競ってヨーロッパ、アメリカ大陸やタイやシンガポールに行っちまうことだろう。

チャイティーヨー

チャイティーヨー・パゴダというのはビルマの有名な聖地で、ゴールデン・ロックと呼ばれる岩で有名だ。この岩の何が変わっているかというと、絶妙な、というか神秘的なバランスで岩山の上に乗っかっているのだ。手で一押しすれば転がり落ちてしまう感じで、ビルマの誇る奇観のひとつだ。


わたしがここに行ったのは2003年3月のことで、詳しいことは忘れてしまったが、ヤンゴンからは結構な道のりで、夜明け前に出発した。キンプンという町で、トラックに乗り込み、ほかの参拝者とともに参道に向かう。わたしは外国人なので助手席に座らせてもらったが、ほかの人々は荷台にすし詰めで、立ったままデコボコ道を耐えしのいでいる。

参道はちょっとした山道で、あちこちに土産物屋が並んでいる。道の真ん中で地元の子どもが遊んでいたのでビデオを撮ろうとしたら、いやがられたのを覚えている。山道は厳しいので、途中の店で休み休み行くわけだが、確か駕篭のようなものもあった。そして、それに乗って楽をしたような気もする。


パゴダそのものは有名な観光地であるが、あくまでも聖地、その入り口に服装などに留意するようにという看板がある。そこからゴールデン・ロックまではすぐだ。ゴールデンといわれるゆえんは、参拝者たちが全面に金箔を貼付けているからだ。この金箔はパゴダの敷地内で売っている。なお、宗教上の理由から女性はこの岩に近寄ることはできない。

わたしも金箔を買い、貼ってみた。そしてそのついでに岩にも触ってみた。すると手に金箔がくっついた。



わたしはしばらくの間、岩の接合部がどうなっているのかじっと見ていた。どんなふうにバランスが保たれているのか突き止めたかったのであるが、収穫はゼロであった。それに、夢中になって、うっかり岩を押して転落させでもしたら一大事だ。


ついこの間、シャンの人と話していて、このチャイティーヨーの話題になった。その人が言う。

「あの岩は昔は浮いていたんですよ」

ああ言い伝えね。

「わたしが学生のころのことです」

最近じゃん!

「岩と岩の間を鳥が通り抜けたものです」

嘘だろ!

2012/09/06

身元保証マニアのための素材集(2)

仮放免許可申請に必要な身元保証書と誓約書だが、その他の書類とあわせて法務省のサイトからダウンロードできる。しかし、これですべてではなく、また入国管理局各署において必要なものが異なるので、実際に出向いてもらうか、収容されている人に送ってもらったほうがよい。

細かく比べたことはないが、品川の東京入管のと牛久のそれでも若干異なっている。次は上述のサイトからダウンロードした身元保証書の内容だ。

別記第2号様式(第7条関係) 
年   月   日
Date:                   

身元保証書
LETTER OF GUARANTY
法務省
To: Ministry of Justice
               入国者収容所長 殿
           Director of                    Immigration Detention Center
               入国管理局        支局             出張所主任審査官 殿
           Supervising Immigration Inspector of            Regional Immigration Bureau 
                             District Immigration Office          Branch office

 下記の者が仮放免になりました上は,仮放免中の身元一切は私において引受け,法令を遵守させるとともに,貴局(支局・所)のご指示に従わせます。
  In connection with the undermentioned person's application for provisional release, I hereby give security for him (her), and make him (her) abide by the Japanese laws and obey your instruction.

1 氏名・性別 Name and sex
2 生年月日 Date of birth
3 国籍 Nationality

身元保証人の氏名・国籍 Name and nationality of the guarantor
現住所 Address of the guarantor
本人との関係 Relationship
署名 Signature

牛久の日々(3)

待合室の鉄の扉を通されるとロッカーのある部屋がある。カメラや録音機器、携帯など面会に持ち込めないものはそこに置いておく仕組みだ。そして、もうひとつ扉を抜けると面会室が並んでおり、そのうちのどれかで待っているように指示される。

面会室は3畳ほどの大きさで真ん中にカウンターとアクリル(多分)のしきりがある。そしてその向こうの扉から被収容者が現れる。

わたしは午前中にどうしても2回面会をしたかったので、用事を済ませたらささっと面会を打ち切ろうと思っていた。

用事というのは、あらかじめ渡してある仮放免申請書にサインをもらうことだ。そうしないとその日のうちに申請書を提出できない。

で、収容された人がやってくる。ああだが、来ちまったらダメだ。歓迎! ありがとう! よく来てくれた! なかなか来れなくってゴメン(てへぺろ)! そう簡単に面会なんて打ち切れるもんじゃない。結局30分たっぷり話した。

で、面会室を飛び出て、整理券を取ってもう一度受付に。なんと受け付けてくれる。ひょっとしたら、もう一回できるかも! と、受付の職員が言った。

「今からだと、面会できるのは午後の2時になります」

 なにぃぃぃぃこれから2時間以上待てだと! 無言で運命を受け入れた。

カレン民族歌と日本

先に書いたカレン民族歌は意外なところで日本と関係がある。

この前のカレン民族殉難者の日の式典でも話したことだが、何年か前にビルマ・タイ国境のカレン民族同盟支配地域に行った時、ひとりの老人と出会った。

その人は父親を日本軍によって殺されたのだという。

といっても、殺害された場所を実際に見たわけではない。

ある朝、自分の父親が川に出かけ、そのすぐ後に日本軍の戦闘機がやってきて攻撃をしたこと、そしてそれ以降、彼の父の姿を見たものは誰もいないということだけが分かっているということだった。

この老人はまた、その父がカレン民族歌の作曲者であることも教えてくれた。そんなわけで、わたしはこのカレン民族歌を聞くたびに、このエピソードを思い出すのだ。

カレン民族の歌

カレン民族がNational Anthemと認めている歌がある。National Anthemというと普通は国歌のことだが、カレン民族の国というと一面では存在し、また別の面では存在しないものでもあるので、ここでは民族歌とでも呼ぼう。

それは短くて不思議な旋律を持った歌だ


おおよそ次のような意味を持っているという。

わたしの民族よ
もっとも素晴らしい人々よ
わたしはあなたたちのことが大好きです
あなたたちは真実と正義を愛し
異邦人をもてなすことを愛します
素晴らしいあなたたちすべてのことが
わたしは大好きです

ま、こう堂々としてちゃ「君が代」なんて歌ってるのがみっともなくて! 国歌たるべきもの少なくとも「愛」と「正義」が入ってなくちゃ。「石」とか「こけ」もいいけどね。ユーモアがあって! それこそ「君が代」は日本民族の民族歌ということにして、国歌は国歌でこのカレン民族歌に負けないくらい立派なのにしたらよかろう。

カレン民族殉難者の日の声明

第62回カレン民族殉難者の日にあたり、カレン民族同盟(KNU)の議長のソウ・タムラボウが声明を発表している。

これは日本の式典でもビルマ語、スゴーカレン語、ポーカレン語で朗読されたが、英語版もある(KNUのサイトで見ることができる)。

A42ページにわたるもので、カレンの殉難者を悼み、カレンの民族革命の更なる前進を呼びかけるものだが、 なかでも2つのパラグラフがカレン民族の現状をよく表している重要なものだ。ここで簡単に訳して紹介しようと思う。

「カレン民族の革命的抵抗は63年の長きにおよぶが、われわれはいまだ自分たちの望むゴールに達するをえず、いまなお民族解放運動のただ中にある。 われわれはこの解放運動を通じて、さまざまな手段による分裂と不和による数々の苦い教訓を学んできた。われわれの民族解放運動の歴史においては、カレン民族が誇るに足る数々の殉難者が現れる一方、見下げ果てた卑しむべき日和見主義者もまた幾人も現れている。日和見主義と取り繕い主義(tokenism)はわれわれの民族の利益や各人の質と進歩を促進するどころか、ただ後退のみを生み出す。それゆえ、すべてのカレン民族は、自らのうちにある日和見主義と取り繕い主義を滅却し、殉難者たちの精神、革命に関する細心の注意、政治的な警戒心を抱きながら勝利へと行進しなくてはならない。

現在の政治的状況に関していえば、2008年の憲法に従い、2010年の選挙によって権力を得た現行の政府は改革を遂行していると、わたしは申し上げたい。この政府は非ビルマ民族の武装勢力と和平を作り出そうとしているといわれているが、わたしの分析によれば、この政府は、実際の行動を見てみると、政治的内実のある平和のための対話というよりもビジネス面を強調した対話を実施している。さらに、われわれがもうひとつ危惧するのは、ビルマ国軍(政府の武装組織)が政府の和平構築プロセスにあまり乗り気でないということに加えて、国軍の振る舞いが時として、和平構築プロセスそのものの妨害し危険にさらすものとなっていることである。われわれの見るところ、現在行われている内戦の終結のためには、国軍が正しい態度で参加することがきわめて重要である。したがって、わたしはテインセイン大統領政府に、もし非ビルマ民族との本当の和平を確立することを望み、近代的で発展した民主的な新国家へと向かおうとしているのならば、透明で政治的に意味ある交渉を行うように求めたい。さもなければ、内戦は続くだろう。」

身元保証マニアのための素材集(1)

わたしが現在身元保証人をしているビルマ難民は20人を超える。これに以前身元保証をしていたが今していない人、つまり在留許可をもらったり、ビルマに帰ったりした人を加えると40人を超える。

これだけの数の身元保証人をしている人は、わたしだけではないし、またわたし以上の人もいる。

それでも少数派なのは間違いなく、そんなわけで身元保証に関してわたしも何かひとことくらい言ってもよいのではないかと思う。

まず、身元保証とは何かについて簡単に述べておくと、わたしが身元保証を引き受けるのは、保証される人を入管の収容所から出すためだ。おそらく入管の手続きの中には、それ以外の理由で外国人を身元保証することもあるだろうがわたしはよく知らない。また、入管とは別に、たとえば外国人が部屋を借りるさいの身元保証もあるが、これは原則的にわたしはやらないので(例外はあるが)、ここでの話からは除外する。

入管に収容されている人を出すためには仮放免許可を申請しなくてはならないが、この際に必要となるのが身元保証人だ。身元保証人は身元保証書と誓約書に署名し、住民票・資産を証明する書類・所得を証明する書類を提出しなくてはならない。

所得を証明する書類は、勤務先からの在職証明書や課税証明書など。資産を証明する書類は、銀行残高証明など。

わたしは銀行残高証明書を時間とお金(1枚700円)をかけていつも銀行に取りにいっていた。取ったことのある人ならすぐ分かるが、その場ですぐには出してくれない。後日取りにいくか、郵送だ。しかし、万事につけ無計画なわたしは切羽詰まって申請をすることが多く、鷹揚に待ってなんかいられない。なので、銀行の人に無理を言ってその日に出してもらっていた。

ところが、わたしはうかつにも知らなかったのだが、これは通帳のコピーでも問題ないということだ。おお徒労多き人生よ。

2012/09/05

牛久の日々(2)

茨城県牛久出身の人によれば、むかしこの地には仏さまが住んでいたという伝承があるそうで、そんなゆかりもあって牛久大仏が建立されたのだという。

仏様といえばカピラヴァストゥ国の出身だから、おそらくビザの関係で牛久の東日本入国管理センターに収容されていたことからこんな言い伝えが生まれたのかもしれない。

さてそれはともかくこの牛久の入管、まったく行くのに不便だ。牛久駅から10キロほどのところにあるのだが、バスはほとんどないし、タクシーでは片道3,000円近くかかる。どうして入管がこんなところにあるかというと成田空港まで30数キロ、と収容者の輸送に便利だからだという。

この日、わたしは出発が遅れたせいで、牛久の入管になんとかたどり着いたのが9時半過ぎ。午前中に2回の面会がギリギリというところ。とにかく整理券片手に呼ばれるのを待つ。

受付のある部屋には長椅子が並び、7〜8名が座っていた。そのうち半分がどうやら面会を通じて支援活動をしている人たちのようで、情報交換をしたり、ぼんやり座ったりしていた。わたしは以前、そうした活動家のひとりを憤慨させたことがあるので、見つからないように隅で小さくなっていた(ま、無理だが)。

呼ばれるのを待つ。

スーツを着た弁護士たちもいた。牛久の通常の面会時間は30分だが、これらの人々には時間の制限がないという。そのため面会室がなかなか空かず、その分他の人の面会が遅れるのだ。

で、呼ばれるのを待つ。

中には小学生ぐらいの子どもを連れた女性もいる。フィリピンの人かもしれない。母子が会いにきたのは父親だろうか。品川でもどこでもこうした親子はいて、わたしはいつも気になるが、尋ねるわけにもいかない。ちなみにビルマ難民の収容者では親子がバラバラになるのはよくあることだ(最近はあまりないが)。

呼ばれた! いやもう11時近くじゃねえか。

第62回カレン殉難者の日式典

第62回カレン殉難者の日式典が8月12日、豊島区生活産業プラザにて開催された。主催は海外カレン機構(日本)(OKO-Japan)。日本在住のカレン人やビルマの政治活動家など約70名が集まった。

内容は例年の通りで、OKO-Japanの会長演説、この日の趣旨説明、参加者による献花、KNUの声明の読み上げ(スゴーカレン語とポーカレン語)、参加者からのメッセージなどだ。

ビデオプログラムでは、KNU副議長のデヴィッド・ターカボー氏のメッセージなどが上映された。

そのときの写真を何枚か。


 



 


 
 

総武線ではなく埼京線

韓国・朝鮮語を母語とする人がザ行をうまく発音できないのはよく知られた話で、たまたま知っている例を挙げるのだが、キム・ヒョンジュンの新曲「HEAT」では「シーズン」が「シージュン」と聞こえる。むかしはこの発音を目印に在日朝鮮人に対する迫害が行われたともいう(旧約聖書にも似たような話がある)。

日本人ならばRとLの区別ができないとよくいわれるが、いろいろ考えてみればそれ以外にも区別しにくい音はいくらでもある。韓国・朝鮮語の平音・濃音・激音や、ビルマ語や中国語などの有気音・無気音などもそうだ。

さてビルマ語話者にとって日本語のどんな音が発音しにくいかというと、真っ先に思い浮かぶのは「つ」だ。ビルマの人のなかにはこれを「す」で代用してしまう人がいる。

これに関して田辺寿夫さんが、ビルマ人のいう「するが」が「駿河」なのか「敦賀」なのか分からなくて困ったという面白い話をしてくださった。

もうひとつビルマの人がうまく区別できないのが、日本語の伸ばす音で、「いいだばし、いいだばし」といっているので飯田橋に集合かと思いきや、板橋だったりする。ちゃんと確認しておいてよかった。

8888民主化記念デモの様子

写真をいくつか。















8888民主化運動記念デモ

8月8日に毎年恒例の民主化運動記念デモが行われ、わたしも行かねばならないこととなった。内容もいつもの通りで、五反田駅近くの公園に集合して、活動家が演説。その後、行進。ビルマ大使館を通過し、その先にある公園で再び集会の後、解散。

この日のデモにどれくらいの人が参加したのか、それは公安の人がよく知っていると思う。私服の彼らはたいていイヤホンをしていて、行進についていったり、ポイントで待っていたりする。そして、メモをとったりじっと見つめたりしている。その観察は正確だという話だ。わたしも彼らに負けじと行進のさなかに自分で隊列を数えてみた。だが、暑さにやられてすっかり忘れてしまった。500人ぐらいだったような気もする。いずれにせよわたしにはこうしたまじめで大変な仕事は務まらない。

デモに関係するのは、公安の人ばかりではない。交通の誘導にあたる警察の人がいる。こうした人の働きがなくては、デモは成り立たない。また、警視庁外事課の人や、入管の人もいる。これらの人の中にはわたしが公安の人だと勘違いしている人もいるかもしれない。いずれにせよ、いろいろな人々がこのデモに「参加」している。

夏のデモではよくあることだが、ペットボトルの水と紙コップを持って列の中を行ったり来たりしている人がいる。参加者のための水分補給だ。熱中症と関係があるのか知らないが、デモの後に倒れてしまい入院している人もいるとのことだ。

わたしは水を飲まずに最後まで歩いた。終着地の公園で数名の活動家や日本人が演説したのだが、わたしも呼ばれた。だが、誰ひとりとしてわたしの名前を知らないのだった。何年もビルマ関係に時間を費やしてきてこれなのだ。死んだほうがよかろう。

だが、ここで死んだら物笑いのタネだ。わたしは適当なことを話してお茶を濁した。

もっともわたしはお茶も飲んでいない。喉はからからだ。品川駅まで我慢して歩く。と、駅で友人のビルマ人に会った。彼はどうぞと、わたしの手にピーナッツをたくさん流し込む。

ありがとうと言って次々口に投げ入れる。わたしの口の中はもう完全にひからびた。

2012/09/04

牛久の日々(1)

8月24日、わたしは牛久の東日本入国管理センターに行った。

そこには在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の会員4人が収容されていて、わたしは全員の仮放免申請をしなくてはならなかった。

本当のところをいうと、わたしはやらなければならないことがあり牛久なんてとてもじゃないが行く気はしなかった。 いちんち潰れちまう。

でも、この4人に関していえば、6月に一度仮放免申請を行い、不認定となっていた。そのときにもわたしは身元保証人を引き受けたが、面会には行かなかった。申請は会の役員が代わりに行ってくれた。そこで「もしかしたら保証人が面会しなかったのがいけないんじゃあ」と言う声が会員たちの間で上がっていた(もっともわたしはこれは関係ないと思っている)。

不認定からもうそろそろ2ヶ月経とうとしている。収容期間が10ヶ月におよぶ人も中にはいる。BRSAの役員たちも矢の催促だ。仕方がない。わたしは必要書類を集め、申請書4部に記入し、入管に赴くことにした。

今回面会するのは男女2名ずつ。入管の決まりで男女は一緒に面会できないから、2回に分けて面会だ。これなら午前中に終わる、という腹づもりで面会申請書を雑に埋めて、整理券を引いてカウンターで申し込む。と、全員ブロックが違うから、一人一人面会するほかない、と言われた。一人終わるごとに整理券を引いて申請せよ、と。

わたしが牛久によく来ていたころは、ブロックが違ってもまとめて面会することができた。ところが、今はそうではない。これは入管側の分断作戦だといわれている。つまり、入管の被収容者たち自身や、面会活動を行う活動家たちが、ブロックを越えた集団面会を通じて収容所全体でのハンストなどの抗議活動を組織するのを妨げるために、こうしたきまりを作ったのだという。

ほんとかどうだか知らないが、わたしはそう聞いていた。で、すっかり忘れていた。一日に4回の面会か……こりゃ無理だ。

No No 構文

「NO MUSIC NO LIFE」というのはタワーレコードの宣伝文句で、「音楽なければ人生なし」とでも訳せる。

しかし、これをこう理解するには「No .... No...」が「〜なくして〜なし」という言い回しであることを知っていなくてはならない。例えばことわざに「No work, no pay」というものがある。こうした言い回し(構文)がいつできたのかは分からないが、そのような言い回しの伝統の中ではじめてこのNoNo構文が意味を持ってくる。

このNoNo構文はほかの言語にもあるのかもしれないが、少なくとも日本語にはない。

たとえば「音楽ない、人生ない」。

これはそもそも日本語としては不自然だが、それはさておいても、場合によっては「音楽なければ人生なし」と理解する人もいるかもしれないが、「音楽もダメ、人生もダメ」や「音楽も人生もない」と理解する人もいるかもしれない(この点に関しては「教えて!goo」の質問を参考にした)。

なお、同じタワーレコードのポスターに中国語で「没有音楽、没有人生」と書いてあったのも見たが、これが中国で通用するのかわたしは知らない。 

なんにせよ、こうしたNoNo構文がこのように解釈されるという伝統を知らなければ、たとえ同じことを英語でやさしくいわれても理解できるとはかぎらない。

こんなつまらないことを考えたのも、品川の入管で次のような場面を目撃したからだ。

アフリカ出身の男性が難民認定申請書を担当の窓口に提出していたのだが、入管の職員がこんなふうに言っていたのだ。

「住所がないと難民申請できませんよ」

アフリカ人は何がなんだかサッパリ分からない。

ついに職員、英語で同じことを話す。

だが、おそらくフランス語圏なのかもしれない。アフリカ人、英語もよくわかっていない様子。

「No address, No application?」

とつぶやきながら、はて、と首を傾げてる。

隣で見ていたわたしはもうじれったくって! もう答え自分で言ってるから!

アフリカ人、まだピンと来ない。困り果ててため息。

ああ、No refugee no cry......

お利口

あるカレン難民の女性が入院することになった。そしたら、前の晩にそのことを聞かされた4歳になる息子が「お母さん、どうして病院行っちゃうの? ぼくがお母さんのいうこと聞かなかったから? ちゃんとお利口にするよ」と泣いたそうだ。

2歳の時、母親が入管に収容されてつらい時期を過ごしているだけに、よけいに不安に感じられたのだろう。

カチン民族難民と戦争(第1回報告会配布資料)

カチン民族難民と戦争
中国・ビルマ国境訪問報告会(第1回)

2012年7月8日(日曜日)午後6時30分ー午後8時
豊島区東部区民事務所 第1集会室
在日カチン民族活動家+ビルマ・コンサーン

第1回となる今回の報告では、ビルマ政府との交戦状態にあるカチン政府(カチン独立機構、KIO)と、戦争によって生み出されたカチン人難民に焦点を当てます。

1 カチン州における戦争の概観
2 ライザで開催された会議の報告
3 難民と国内避難民の状況

【カチン州における戦争の概観】
1.状況
1994年の停戦を破り、2011年6月、ビルマ政府はカチン独立機構(KIO)に対して攻撃を始めた。戦争は一年以上立つ今も続き、交戦地帯では多くの難民が生まれている。

1−1.戦争の原因(ビルマ政府側)カチン民族が暮らす地域、とりわけカチン州には豊富な資源がある。

1)金・翡翠などの豊富な地下資源
2)森林資源
3)河川を利用した水力発電
4)中国への輸送路としての役割これらはビルマ政府にとっての主要な富の源泉となっている。

つまり、カチン州の支配は、現在のビルマ政府における軍の地位の優位を確保する上で不可欠。→今回の戦争は、軍の優位を保障する2008年憲法のもうひとつの顔といえる。

1−2.戦争の原因(カチン政府側)1947年のピンロン協定以来の、ビルマ人中心の政府に対する不信感が1961年にカチン独立機構を設立させた。その後1994年に停戦協定を結ぶが、ビルマ政府によるカチン州への「侵略」は止まず、不信感はいや増す結果に。カチン側としては、今回の戦争は、カチン人の自由とカチンの土地を守るためのやむを得ない戦いということになる。

【ライザで開催された会議の報告】
2 ライザで開催された会議の報告
期間と場所:6月27日ー29日 カチン州ライザ(KIO)
参加者: 日本からカチン民族機構(日本)KNO-Japan代表団3名
     ボウムワン・ラロウ カチン民族機構代表(KNO)
     その他KNO代表団
     イギリス・デンマーク・タイなどのKNO、カチングループの代表
     カチン独立機構の代表
目的と内容:
KIOがビルマ政府との停戦中に結成されたカチン民族機構(KNO)とKIOが開戦後はじめて公式に議論を行い、協力関係を確認。のちに声明が発表された。

声明の内容
1)ライザの首都でのKIOとKNOの会議。
2)KIOとKNOの協力。
3)UKA(United Kachin Army)をKIAに併合
4)カチン民族の解放のために協力。

KIO議長とKNO議長が署名。

【難民と国内避難民の状況】
3 難民と国内避難民
戦争の結果、大量の避難民が発生。ビルマ政府地域、カチン政府地域に国内避難民(IDP)として、中国に難民として8万人以上が避難生活を送っている。カチン政府地域には20を越える難民キャンプがある。これらのIDPキャンプには、KIOと地元のNGOが支援をしているが、十分ではない。UNHCRなどの国際的な支援の手も届きにくいため、キャンプによっては衛生的健康的に非常に厳しい状況にある。

残酷

日本では、死というものが非常に丁寧に管理されていて、普通の人々は死体というものを見ることはまずない。

これは死を穢れと見る日本の生死観が関係しているのかもしれないが、それよりも大きいのは日本が長らく平和を保ってきたからであろう。平和な社会では、ありがたいことに、平和でない社会よりも死が身近ではないものだ。

平和というのは一面では秩序であり、暴力の管理であるが、この秩序なり管理というものがきらいな人がいる。そういう人がネットで頑張って「グロ画像」をあげている。とんでもないいたずら小僧だ。

しかし、平和でない国では「人が凄惨に殺された写真」や「血まみれの死体写真」は別の意味を持つ。それはたちの悪い冗談ではなく、正義を訴えるための道具となる。「わたしたちの場所ではこんな悲惨なことが起きています。どうか、みなさん、助けてください!」というわけだ。

そんなわけで、たまにわたしのFacebookのフィードにひどい写真が紛れ込んでくるわけだ。勘弁してほしい。

あるビルマの人の家に行ったときの話。わたしが彼のコンピューターを見ていると、彼が言った。

「そういえば、わたしたちの故郷でひどい事件があったのです。よそ者が村にやってきて一家全員を殺したのです。お父さんとお母さんと4歳になる娘が。ちょっと待ってください。いま写真を見せますから……ほら、これがお父さんです」

おお……首ちょん切られてる。切断面がくっきりと。

「これが犯人たち」と男たちの写真。

「4歳の女の子が殺された写真もあるんです。かわいそうですよ。ちょっと待ってください」

わたしはもういつでも目を閉じられるように薄目だ!

「あれ、ここかな」と彼、いろいろファイルを開ける。「ないな……」 いいよ、もう探さなくて!

結局見つからなかった。よかった! しかし、見つかったとしてもメールで送らなくていいから!

おのれらに告ぐ

ビルマも変わって、国際社会もミャンマーという呼び方を採用するようになった。日本のメディアも同断で、例えば朝日新聞も今年のはじめにビルマという呼び方を改めてミャンマーに統一した。

しかし、呼び名が変わったところで、中身が変わるわけではない。今なおビルマは、命令ひとつで軍の支配下に置かれうる状態にある、つまり本当の安定した文民統制にはまだ到達してはおらず、それゆえ、多くの難民にとって安心して帰国できる国ではないのだ。

とりわけそれは非ビルマ民族居住地域において著しい。今なお続くカチン州での戦争がその何よりもの証拠。その他の民族も今なおビルマ軍の脅威におびえながら暮らしている。

そのようなわけでわたしはまだまだミャンマーという呼称を採用するには早すぎると考えている。一人でもビルマの軍の迫害下にあるかぎり、その国はその自称に価しない。いやたとえ、わたし以外のすべての人々がミャンマーと呼ぼうとも、そこに非ビルマ民族への不正があるかぎり、わたしはビルマと呼び続ける。

ちょうど平田弘史の魂の作品「茶筅髪禁止令」に出てくる、主君の命に背いてまでも自分のちょんまげを守り抜いた反骨のSAMURAIのごとく、わたしはこのビルマの呼称を断固として守り続けることをここに誓う。

ミャンマー国境ニュース
熊切拓












念のため言っとくけど冗談だから……

イエローサブマリン

だいぶ前のこと、ビルマの人とタクシーに乗った時、タクシーの運転手がわたしたちに話しかけて

「ビルマってのは、ミャンマーの隣にあるんでしたっけ」

わたしはこの人が無知であるとは思わない。ただ、人間が自分の興味のないことについてはとんでもない勘違いをしがちであるという実例のひとつに過ぎない。

わたしの場合はそれが車で、5年前に免許を取るまで、車のことなどまったく考えたことがなかった。車に関する定番の誤解のひとつに「セダン」を車の会社だと思い込むものがあるが、わたしなどまさしくそれだった。

6年ほど前、ドイツで難民認定されたビルマ人と牛久の入管に面会に行った。牛久の入管前に何台かの車が止めてあり、それを見た彼が言った。

「あのさ、前から気になってるんだが、どうして車の中には黄色いナンバープレートのものがあるんだ。違いはいったい何なんだ」

わたしは答えた。

「うーん、きっとあれは仕事に使う車だからだよ」

そして彼はそのままドイツに帰っていった。

2012/09/03

DHA

いつものカレンの仲間と飲んでたときのこと。

ちょうどU-20 女子ワールドカップジャパンの日本スイス戦がやってた。8月26日のことだ。

周知の通り、日本が勝った。カレン人のAさんが「やったっ」て言ってる。

わたしはサッカーに特に興味はないが、彼がうれしそうなので

「最近、日本のスポーツは女の人が強いですね。オリンピックでもすごかったじゃないですか」

すると、この発言に別のカレン人のMさんが食いついた。

「わたし、それ不思議だったね。日本では女のほうが強い。どうしてか……。日本に来たときからずっと考えていました。それで、ついにわかった」

彼が20年以上にもわたる思索の果実をここでわたしに一口食べさせようとしてくれているのだ。「で、何なのです?」

「マグロの力です。マグロが!」

わたしは即座にその一口を吐き出した。ちなみに、ビルマでは基本的にマグロは食べない。

身元保証人の偉大なる憤怒の書(巻之弐)

またRHQから電話がかかってきた。

今度は保護費の話じゃない。以前身元保証人をしていたビルマ難民夫婦の件だ。

この2人はいま難民認定されてる。担当の人が言う。

「お二人の婚姻届の証人の欄に熊切さんのお名前があったように記憶しているので」

なんでも、何かの手続きでわたしの住所・電話番号が必要なのだと。

「熊切さん、もし個人情報の問題で抵抗がおありならば、わたしたちの財団のほうに住所等メールされても結構です」

お前はど・う・し・て俺が身元保証人してたほどの友人よりも、人間が作ったものに過ぎぬ一組織のほうが俺にとって信頼度が高いと思ったのだっ!

わたしは即座にその友人に個人情報とやらを直接メールしたさ。

生身の人間よりも、命のない組織のほうが大きく見える、これを変態の錯視といわずしてなんといおう。

身元保証人の偉大なる憤怒の書

わたしは現在、何人もの難民認定申請者の身元保証人をしているが、その中にはさまざまな理由で生活上の困難に直面している人もいる。

そうした人はしばしば公益財団法人アジア福祉教育財団の難民事業本部(RHQ)に助けを求める。難民認定申請者のための保護費支給があるからだ。もっともこれは額が限られているので、審査を通るのは難しい。

それはともかく、わたしが身元保証人をしている人が申請すると、やがてわたしのところにRHQから電話がかかって来る。身元保証人が生活費を支援できる余裕があるかどうか確認するためだ。

この前もそんな電話がかかってきた。

「公益財団法人アジア福祉教育財団の〇〇です」

女性の声だ。

「XXさんの件でお電話を差し上げたのですが、身元保証人のタク・クマキリさんでしょうか」

「はい」

「XXさんが保護費の申請をしていまして、タク・クマキリさんはそのことをご存知でしょうか」

「はい」

「お尋ねしたいのはタク・クマキリさんにXXさんの生活費を支援することができるかどうかなんですが」

ぜっ・た・い・お・れ・の・こ・と・ば・か・に・し・て・る・だ・ろ

だが、恚(イカ)るまい。わたしは答える。

「できません」

「それはどうしてでしょうか」

「……お金がないからです」

い・わ・せ・ん・な・は・ず・か・し・い