2013/04/23

BRSA活動報告会のお知らせ

日時:4月28日(日曜日)午後6時~7時30分
場所:南大塚地域文化創造館第2会議室
参加費:無料
連絡先:brsajp@gmail.com

内容:
1)アウンサンスーチーさん会見報告
4 月13日から19日にかけて来日したアウンサンスーチーさん。4月16日に在日ビルマ政治団体の若手活動家との意見交換会が開催されBRSAか らも3人のメンバーが参加しました。報告会では今回のアウンサンスーチーさんの訪問を振り返りながら、この意見交換会について報告します。

2)ビルマ国内支援プロジェクト報告
BRSAではビルマ国内の支援プロジェクトを進めており、今年の2月には現地視察も行いました。今回の報告では、エーヤワディ・デルタ地帯の農村 の現状と井戸作りのプロジェクトに関してビデオを用いて報告いたします。プロジェクトのあらましに関しては「ビルマ国内支援プロジェクト訪問報告」をご覧ください。

休憩時間

あるビルマ難民が入管に収容されていて、仮放免のための身元保証を頼まれた。

断る理由はないので引き受けたが、いろいろ立て込んでいて、申請書類に取りかかるのに何週間もかかってしまった。

わたしが書類を出すのが遅れるだけ、その人の収容期間は長引くのである。

彼はどのような気持ちで待っているのだろうか。自分も被収容者の苦しみに加担しているのでは? 一日一日先延ばしにしているうちに、わたしもまた苦しくなってきた。

そのうち、この難民の親族から電話がかかって来た。催促だ。わたしは急いで書類を揃え申請書を書き終えた。やりだせばあっちゅうまだ。

わたしはその日のうちに申請書類をその親族に手渡した。この人が、今収容されている人のもとへと持って行ってくれるのである。

「遅れてしまってすいません」

「いやいや、忙しいならしょうがないですよ」

「でも、きっと今か今かと待っているでしょう」

「ああ大丈夫! 本人はゆっくり休んでますよ! 20年間というもの働きづめだったんだもの!」

なら急ぐんじゃあなかった。

2013/04/22

受賞歴

4月13日のアウンサンスーチーさん歓迎会で配られた資料に、国民民主連盟(解放区)日本支部作成のアウンサンスーチーさんの略歴と受賞リスト(英語)がある。

彼女の受賞歴は1990年に始まり、1991年にはノーベル平和賞に選ばれている。リストの数は2013年現在118に及んでいるが、今回の来日で京都大学で贈られた名誉フェローはおそらく119個目として記録されるに違いない。

日本でこれに匹敵するのは、池田大作氏を除いてなしと思われるが、創価学会にゆかりのある人以外の関心はあまり引いていないようだ。

それはともかく、あるカレン人が「スーチーさんは賞を100以上ももらっているけど、テインセイン大統領は1個しかもらっていない」と笑い、さらに「しかもくれたのは中国から」と嘲弄に落ちをつけた。

嘲りたくなるのも分からないではないが、 たったひとつの賞だって人を立たせるには十分であり、決してバカにしたものではない。

それに、スーチーさんに与えられた数々の栄誉の中には、彼女そのものにではなく、ノーベル平和賞に捧げられたものだってあるのではなかろうか。

2013/04/21

Aung San Suu Kyi's Speech to Burmese People in Japan (Part1)

4月13日のアウンサンスーチーさん歓迎会の様子を記録したビデオをYouTubeにアップロードしました。

まずは演説の部分だけ。日本語字幕はありません。






2013/04/18

子どもの言葉

最近耳にした子どもの言葉をいくつか。

*カチンの戦争避難民キャンプでは食料不足が続いているそうだが、そこにいる子どもが「おなかの減らない薬はないの?」といったそうだ。

*スーチーさんの歓迎会に母親とやって来たカチンの10歳の女の子、「スーチーさんに会ってサインが欲しい!」

この子の母はこの間、テレビ朝日の報道ステーションで取材されてテレビに出た。そのとき彼女がインタビューにスーチーさんに期待できるかどうか分からない、と答えたら、その女の子が「お母さん、スーチーさんはとってもいい人だから信じなくちゃダメ」と怒ったそうだ。

*最近、やむを得ない事情で難民認定申請を取りやめて帰国したカレンの母子。8歳の男の子がいう。「ビルマに帰っても、兵隊が家にやってこない? 大丈夫?」

4歳の頃に自分の家に軍関係者が尋問のためにやって来たときの恐怖を、彼が今なお生々しく覚えていること自体がわたしは恐ろしい。

2013/04/16

アウンサンスーチーさん歓迎会の様子

4月13日のアウンサンスーチーさん歓迎会では、わたしはメディア席からビデオを撮り、また写真を撮った。

わたしとしては軽い気持ちでメディア席に場所を取っておいたのだが、さすがにスーチーさんだけあって、そうそうたるメディアの報道関係者が続々とやって来た。わたしは図々しくも肩を並べて、貧弱な機材でほそぼそと記録作業を行ったのであった。

写真に関してはすでにFacebookで公開した(下のリンクから。Facebookのアカウントがなくても見ることができる)。ビデオは近日中にYoutubeで公開する予定だ(もっともすでに他のビルマ人が公開しているが)。

アウンサンスーチーさん歓迎会の様子(その1)

アウンサンスーチーさん歓迎会の様子(その2)

2013/04/15

ゴミを巡る争い

アウンサンスーチーさんは13日の歓迎会で、ビルマ国内のゴミ問題について言及したそうだ。

分別システムがなっていないので、みんなでよいやり方をつくらねばならない、と。

こうある在日カレン人が教えてくれたのだが、わたしは彼と飲んでいる。歓迎会のあった日の夜だ。

彼は日本のゴミ分別システムをほめる。「ちゃんとしてるよ!」 日本に暮らして十数年、すっかり日本びいきだ。

彼には兄弟がいてシンガポールに暮らしている。たまに電話するのだが、どういうきっかけだか知らないが、日本とシンガポール、どちらがきれいかで、口論になった。

シンガポール在住の兄弟は、道路にチリひとつ落ちていない、と自慢する。それに我らが在日カレン人が言い返した。

「なに言ってんだ! 日本はシンガポールみたいに罰金なくてもきれいだよ!」

アウンサンスーチーさんのおかげ

4月13日のスーチーさんの歓迎会の後、わたしはカレンの友人の家に行き、5人のカレン人とお酒を飲んだ。

その内の1人は、カレン人の牧師で、1週間ほど前に日本に来たばかりだ。3週間ばかり滞在の予定。わたしにとっては2003年以来の友人で、久々の乾杯というわけだ。

そしたら、普段とは違うやけに高級なウィスキーが瓶ごとどんと出た。

別の、日本暮らしの長いカレン人が言う。彼ももちろんスーチーさんの歓迎会に行って来た。

「この酒はね、アウンサンスーチーさんとこの牧師さんと拓さん(わたしの名)の来訪を祝して記念して買ったのです!」

じゃあ、スーチーさんの分も飲んじゃいましょう。

アウンサンスーチーさんの垂れ幕の運命

13日朝に来日したアウンサンスーチーさんを出迎えるべくたくさんの在日ビルマ人が成田空港に行ったが、スーチーさんは安全上の配慮から普通とは違う出口に案内されたようで、結局会うことはできなかったのだそうだ。

在日ビルマ人たちはスーチーさんのために大きな横断幕を用意していた。それはスーチーさんの顔写真とともに「Welcome to Japan」と記されていたのだが、それは実際に彼女の目に留まることはなかった。

それで、みんなどうしたかというと、その垂れ幕を背景に記念写真を撮って帰って来たのだという。

その午後、渋谷でスーチーさんの「歓迎会」が行われたのだが、入場受付の広間にその垂れ幕が貼られていた。

なにしろ大変な入場者だ。しかもなかなか開場しないので待たされる。で、集まった人、その引き延ばされたスーチーさんを背景に記念撮影していた。 大作なので作った人も報われただろう。

2013/04/13

13日の予定

高田馬場では明日午前5時45分に成田空港行きのバスが手配されている。アウンサンスーチーさんを出迎える在日ビルマ人を乗せて行くのである。

スーチーさんがホテル(どこかは知らない)に着くのは11時頃だと聞いた。

空港ではなくホテルに集まってお出迎えをしようとするビルマ人もいるとのことだ。

渋谷の集会の会場、ベルサール渋谷ガーデンにスーチーさんが来るのは午後4時頃だというが、午前11時頃から準備委員会の人々が会場で準備作業を始める。

実際に入場が始まるのは午後1時頃だそうだ。

わたしは午前11時に渋谷に行く予定だ。在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の会員たちもいろいろ作業をするということなので、いわば舞台裏から写真を撮ったりする予定だ。

スーチーさんの来日ももちろん重要だが、わたしの本当の関心は、普通のビルマの人々が彼女の訪問に対してどんなふうに準備し、どんなふうに感じているか、ということにある。だから、このような形で準備過程を見ることができるというのは非常にありがたいことなのだ。

2013/04/09

カチン風ビビンバ

2年ほど前、あるカチン人難民の母子が日本からオーストラリアに移住した。シドニーにやはり難民である夫が暮らしていて、苦労の末に家族一緒に暮らすことができるようになったのだ。

その家族が休みを取って日本に遊びに来た。それで、お昼をご馳走してくれるというので、高田馬場のオリエンタルキッチン・マリカに行った。

マリカ、Mali Hkaとは、カチン州を流れるマリ川、ビルマ語のエーヤーワディ川のことだ。

ここはカチンの人がやっているお店で、カチン料理もたくさんある。

メニューを見ると、SHA JAMがある。で頼んでみる。これはいろいろなハーブや木の皮のはいったカチン風まぜご飯で、2月にヤンゴンに行ったとき、カチン料理レストランでごちそうになったものだ。

マリカでは面白いことに、このまぜご飯が石焼ビビンバ風に石焼鍋に入ってきた。

焼肉屋で働く人の多い在日カチン人ならではのアレンジであろう。

ヤンゴンのSHA JAM

東アジアにおいて鉄鍋の助太刀を得たSHA JAM

2013/04/08

豆のダンゴのフライ

7日の日曜日、日比谷公園でビルマの水かけ祭りがあり、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)も久々に出店した。

今回販売したのは、ビーフン、スペアリブ、豆のダンゴのフライの3種で、それぞれ1パック500円だ。

中でもわたしが気に入ったのは豆のダンゴのフライだ。香ばしくておいしい。しかも揚げ物といっても豆なのでたくさん食べられる。連れて行った5歳の娘も、もう1パック買えと催促する始末。

これはBRSAの役員の1人のミンアウンカインさんが仕込んで来てくれたもので、あまりにうまかったので作り方を聞いた。

豆(何という豆か分からないが)をまず一晩水につける。

それからミキサーで挽く。しかし挽くといっても粗挽きだ。

挽いたものに塩、青唐辛子少々、 ニンニク、しょうがで味を付ける。ニンニクとしょうがは香りつけ程度だ。

最後にそれを手で丸めながら揚げる。

7日は嵐のあとではじめは少々風が強かったが、次第に天候も落ち着いて来て、なかなかの人出。10時過ぎから販売を始めたのだが、結局、ありがたいことに15時には売り切れてしまった。

4万円前後の利益も出たようで、これはBRSAの活動資金に充てられる。



2013/04/07

ギャグ数回分……

3月10日、日本のアイドル・グループであるBerryz工房がヤンゴンの「ジャパンフェスティバル2013 in ミャンマー」に出演した。

インターネットの記事によれば「エンターテインメント産業の日本代表としてミニライブを行」ったとのことで、「エンタメ大使」というのもこれに基づくのであろう。

Berryz工房というのは、2004年に結成されたつんく♂プロデュースのグループで、現在7人のメンバーで活動している。

その内の1人である嗣永桃子は最近テレビでもよく見かける。

アイドルといえば、在日カチン人の女性がアウンサンスーチーさんの来日に関して、次のように語ったのが忘れられない。

「スーチーさんは、そう、アイドルみたいなものでしょう、日本政府にとっての」

カチン人がこのノーベル平和賞受賞者をどのように見ているか端的に表す言葉で、そこには、スーチーさんがビルマ政府のカチン人への攻撃を「黙認」し、停戦のための働きかけを放棄していることへの失望と怒りが込められている。

もちろん、カチン人もはじめはスーチーさんに期待していた。しかし2011年6月の戦争の再開以後、外遊先における彼女の沈黙に、あたかも「付き合ってるのに片思い」であるかのような失望を感じたのである。

もっとも、それはカチン人だけに限ったことではなく、彼女のモンユワの銅山の問題への対応や、政治的リーダーシップのあり方を巡って、1988年の民主化運動を支えた「スッペシャルジェネレ〜ション」たちから、「蝉」の鳴き声のごとき批判がわき上がっている。

ビルマのみならずアジアの「ヒロインになろうか」というほど、いまなおスーチーさんの人気は高いが、それも今後の言動いかんにかかっているといえよう。

今回の来日をひとつの好機として、日本にいるカチン人のみならず、平和を願うものみなが、スーチーさんを「大きな愛でもてなして」あげたく(おっと間違えた)なるように、彼女はすべてのカチン人に対してやはり「許してにゃん」と言うことから始めるべきではないだろうか。

しかし俺は……なにを言っているのか……

2013/04/06

その栄光がわたしたちを

アウンサンスーチーさんの来日に対して在日カチン人がどのような想いを持っているかについて、あるテレビ局が取材し、わたしはそれに少々協力した。

すでに以前書いたように、多くの在日カチン人は彼女の来日を歓迎してはいない。

それは、アウンサンスーチーさんが、ビルマ軍によるカチン民族への攻撃について今まで、公的に異議申し立てや停戦への呼びかけをするどころか沈黙しつづけていること、ビルマの国民全体のために自分が働くつもりならばすべきことを果たしていないということ、による。

これはカチン人(そして他の非ビルマ民族)にとって、彼女が少なくともカチン人を自分がそのために働くべき対象とはみなしてはいない、ということを意味する。

それゆえ、多くの非ビルマ民族は程度の違いこそあれ「スーチーさんはビルマ国民の指導者であって、わたしたちのリーダーではないのだ」という印象を抱いている。

このとき取材されたある在日カチン人女性は次のように言っていた。

「彼女はビルマ民族にとってはいいリーダーなのでしょう。ですが、わたしたちにとっては冷たい隣人です。友人ではありません。もっとも敵でもありませんが」

そして、スーチーさんが現在のビルマ政府が行っているカチン人に対する弾圧を咎めない以上、彼女はまさしくビルマ政府側の人間である。

そのような人間が、日本にやってくる。

数々の栄誉と賛辞を纏い、注目度と知名度の点では世界有数といえる(もっとも重要度の点ではわたしはかなり控え目に評価している)彼女のことだから、日本政府はもちろんのこと誰も彼も放っておかないだろう。

誰もが歓迎の声を上げて競うように群がり、祝福のおこぼれに預かろうと黒山の人だかりだ。贈り物と花輪で足の踏み場もない。肩を並べて写真をぱちり! その写真は今後名刺代わりだ。

在日カチン人女性はいう。「日本政府はこうした人をタダでは返しません。きっとお土産を持たすはずです」

願わくば、それがカチン人を撃つための軍資金ではないように。

わたしは知らん。だが、わたしには分かる。

わたしを迫害した者を人々がもて囃すことといったら!

熱烈歓迎! いと高きところに!

はるか下で怒りに燃える目をして我ら。

「わたしたちは」カチン女性の言葉だ。「苦しいのです。苦痛なのです。スーチーさんの来日は、わたしたちにとって脅威なのです」

スーチーさんがやってくることにより、自分たちの尊厳が脅かされる人々がいる。

ベルサール渋谷ガーデン

13日に予定されているアウンサンスーチーさんの集会の場所が分かった。

渋谷のベルサール渋谷ガーデンというところだそうだ。

いくつかホールがあるようだが、どのように使うのかは分からない。

開場するのは午後2時頃だそうで、スーチーさんが来るのは午後4時頃とのこと。

2013/04/04

払底

アウンサンスーチーさんの来日が近づいている。

準備に当たっているのは約60名の実行委員会で、それぞれ異なる在日ビルマ政治団体に所属している。在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)もそのひとつだ。

わたしが今日聞いた話によると、13日の集会の場所は渋谷、会場は1,700人ほどのキャパシティらしい。

会場を借りるために前払金を支払わねばならず、BRSAもその一部を負担している。また、実行委員会も一人5,000円を支払わねばならないのだという。

もっとも、13日の集会では参加費を取るので、これらの負担金は最終的に返却されるはずだ。その参加費も、1,000円か2,000円かで議論があったが、結局2,000円に決まったそうだ。

すでにチケットもでき上がっていて、わたしはその写真を見せてもらった。スーチーさんの横顔が浮き彫りにされた金のメダルが描かれている。この金メダルはノーベル賞の象徴でもある。

BRSAのある会員が今日わたしのもとに医療関係の相談のために来た。彼は来る前にわたしに日本語の通訳も連れてくると言っていたのだが、結局は一人だった。

というのも、スーチーさん来日の準備でみな忙しく、特に日本語が得意な人はこぞってそっちの方に行ってしまっているのだという。

そういう彼もわたしとの話が終わると、スーチーさんを出迎えるための柱かなにかを作ると言って五反田に行ってしまった。

今まさに

あるテレビ局が今回のスーチーさんの来日に関して、カチン人はどう感じているのかについて話を聞きたいというので、在日カチンの女性を紹介した。

そのテレビ局では今回取材に来た記者の方とは別にもう1人の記者が同じ番組で在日カチン人への取材を進めているようなので、そちらのほうとは重ならないように、わたしは人選をした。

そのカチンの女性は非常に日本語がよくできる方で、わたしはその取材に同席させてもらったのだが、そのおかげで貴重な意見を聞くことができた。

それはまた後ほど紹介したいと思うが、インタビューの最中に、彼女にあるカチン人から電話がかかって来た。

その内容はというと……

「ねえねえ、今、カチン語の通訳をテレビ局が探しているんだけど、やってくれない?」

ええ、今まさにそのテレビ局の方と彼女はお話ししています。

2013/04/03

ヤンゴン行き

車の話をもうひとつ。

ヤンゴンではフロントガラスに数字とカタカナで「ヤンゴン」と書かれた車をけっこう見かける。下の写真はやや消えかかっているが、かろうじてヤンゴンと読めると思う。


これは日本から輸出するときに業者がペンで印したもののようだが、あえて消さないのがヤンゴン・スタイル。輸入ホヤホヤの証というわけだ。

アルファード

今回の滞在中に在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の代表として訪問したNGOのひとつにFree Funeral Service Society(FFSS)という団体がある。日本語に訳せば「無料葬儀サービス協会」とでもなろう。

これは著名な俳優Kyaw Thuさんが設立した団体で、そのきっかけとなったのが2008年5月のサイクロン「ナルギス」だ。何万もの犠牲者を出したこの災害の遺族のために無料で葬儀を行うサービスをはじめたのである。

現在も貧困者遺族のための葬儀費用支援は続けられ、本部には日本から贈られたとおぼしき霊柩車が何台も停められていた。


バンを改造した子ども用の霊柩車もあり、中をのぞいてみると、小さな棺が据えられている。 その周囲にはぬいぐるみがぶら下げられ、また窓にはキャラクターのシールなどが貼られ、楽しげに飾り付けられている。もちろん死んだ子どもにこんなものは用はないのだが、親のせめてもの気持ちというものだ。わたしはすっかりしんみりしてしまった。


ちなみにわたしが行った日(2月14日)には2歳の子どもの名前が、FFSSの玄関の葬儀支援要請リストに加えられていた。

ところで、中古車を扱うNyiさんによれば、今のビルマではアルファードは不人気なのだと。というのも、ナルギスの犠牲者ために霊柩車を必要としていたFFSSにトヨタが寄付したのがこの車だったのだそうで、それ以来「遺体を乗せる車」というイメージがついてしまったという。本当ならトヨタにとっては少々残念なことに違いない。

チェリーQQ

ヤンゴンの若者に人気の車といえばホンダのフィットとスズキのスイフトだそうで、どちらもなるほど今の日本の自動車を代表する傑作だ。

特に現行のスイフトはなかなか魅力的なデザインで、わたしは道で見かけると必ず目で追ってしまうほどだ。わたしを案内してくれたNyiさんの車もこのスイフトの黒で、そう言うとうれしそうであった。

ところでヤンゴンではチェリーQQという小型車がうじゃうじゃ走っている。

これが実にひどいデザインで、日本のメーカーでもさすがにこれは作るまい、というほどだ。そこでNyiさんに聞いてみると中国製(奇瑞汽車)だと言う。

日本車がこれほどはいってくる前に大量に輸入されて来たのだそうだ。タクシーや宣伝用の車としても大いに使われているようだ。

そのデザインはひとことで言えば、ピカチュウがチョロQ方向に退化、といった感じで、さすがのサトシも持て余すレベルだ。

要するに陳腐なおもちゃのようだ。そして、このファンシーな顔つきの車がヤンゴン中いたるところを走っているのである。場合によっては、前後左右包囲されている。ひょっとしたら前の車の前だって……Oh Cherry QQ。

すっかりイヤになってしまった。

旅の終わりに、カレン州の州都パアンに行ったのだが、うれしいことにそこではチェリーQQはまったく見かけなかった。

わたしの罵倒にもかかわらず不敵に笑うチェリーQQ
 

2013/04/02

中古車販売

移動のさいに、車を運転してくれていたのは、BRSAの役員Nay Myo Aungさんの娘さんEiさんのご主人でNyiさんで、彼自身、中古車の輸入代行業をしている。

そんなわけでヤンゴンの車事情についていろいろ話しを聞くことができた。

ヤンゴンの大通りのあちこちには中古車のショールームがある。彼もこうしたショールームを持つことが夢だが、なかなか難しい。ヤンゴン市内のある通りにトラックがびっしり並んで駐車しているところがあるが、これは路上のショールームとでもいうべきものであろう。

Nyiさんの場合は、買い主からの注文を受けて中古車を探し、その輸入手続き代行をするというもので、こうした形態の仕事をしている人は多い。在日ビルマ難民でも似たようなビジネスをしている人もいる。


ショールームなどの場所代などの経費がかからないのが利点だが、顧客を見つけるのが難しい。

それで景気のほうはどうかといえば、少し停滞気味だという。というのも、ビルマ政府が最近、車の輸入に関して2007年以降の年式ではなくてはダメと制限を設けたためとのこと。

この制限は、渋滞緩和と環境への負荷の軽減を狙ったものではないかと思うが、いずれにせよ、これまで朝令暮改を繰り返して来た政府への不信もあって、人々は買い控え傾向なのだという。せっかく買った車が政府の急なお達しで路上に出られなくなってはつまらなかろう。

現在の政府をビルマの国民がどう見ているかの一例である。

都市と車

2〜3年ほど前に車所有と輸入の規制が緩和されたせいで、ヤンゴンには車が溢れ、朝夕は凄まじい渋滞だ。

ヤンゴンには山手線みたいな環状線が走っているが、わたしはこの鉄道の利用を勧める人に出会ったことがない。乗り鉄以外は飛びつかぬ代物なのであろう。

そんなわけで、ヤンゴンでは遠距離を移動としようとすると、車以外の交通手段がない。オートバイはヤンゴン市内では禁止されているそうだ。

今回の旅では、ヤンゴンの周辺に訪問先があったので、毎日のようにこの渋滞の巻き添えを食った。

人々の運転はわりと静かで、クラクションをやたらと鳴らすことはしない。ゆっくりと渋滞から抜けるのを待っている。チュニジアでは少しでも車が止まるとこれでもかというばかりに鳴らしていた。鳴らすのが癖になっているのだ。

これをビルマ社会とチュニジア社会の文化の違いに帰することも容易だが、わたしは必ずしもそうとは思わない。

ある社会は、都市化のある段階で、クラクションをいくら激しく鳴らしても渋滞が解消するわけではないということを学ぶに違いない。

ちょうど、人がエレベーターのボタンをむやみに連打することを止め、ボタンに対して優しくなったとき、大人への階段を一歩上るのと同じなのである。

Crony

ビルマの滞在中、crony(クローニー)という耳慣れない英単語をよく耳にした。一種の流行語のようだ。

調べてみるとcronyというのは「仲間、友人、旧友、取り巻き」を意味し、cronyismとなると「友人びいき、縁故政治」だそうだ。nepotismにも近い。

いずれにせよ、この言葉は、現在のビルマにおいて経済的利権を我がものにしているほんの一握りの人々を指すのに用いられている。それは、軍関係者であったり、政商であったり、新興富裕層であったりするのだが、こうした人々は、特権的な地位を利用して富を集め、国民から大いに搾り取っているのだそうだ。

ビルマ国内で農民の土地がかなり強引なやり方で政府関係者に奪われていることについてはたびたび報告されている。わたしが2月15日にエーヤーワディ管区の農村を訪問したさいには、農民組合の集会がたまたま行われており、奪われた土地を取り戻すためにどうしたらよいかが話し合われていた。

また、この辺りの村の川からは魚がまったく捕れなくなってしまったが、それは上流でこのCronyたちが乱獲したせいだという。

その汚い川辺では3人の子どもが泥だらけになりながら、魚を捕っていた。バケツを見せてもらったが、小さなハゼのような魚が一匹いるだけだった。その哀れな成果が同行者にCronyのことを思い出させたのである(写真はInn Ma村で撮影)。


因果関係はわたしには分からないが、このCronyに対して人々がどのように考えているかは分かる。また、Cronyのせいで貧しい人々がよりいっそう貧しくなっている、という見解を口にする人もいる。

ある市井のカレン人に言わせれば「この国にはもはやミドルクラスがいなくなってしまった」ということで、「ほんの一部のエリート」と貧しい人々の2種がいるだけなのだという。そして、かつてはミドルクラスの生活を維持していた彼はいまや後者に属している。

はっきりしているのは、貧富の格差が拡大しており、人々がそれを鋭く意識し、そして政府はこの状態を放置していると感じていることである。

軍事クーデターによって終わった1988年の民主化運動のきっかけとなったのは、国民の貧困問題であった。現在のビルマ政府が、このまま順調に改革を進めることができるか否かは、いままさに大きくなりつつある貧富の格差をどう解決し、国民全体の生活を向上させて行くかにあるだろう。

BRSAビルマ国内支援プロジェクト訪問報告

2013年2月13日から23日にかけて、在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)のビルマ(ミャンマー)国内支援プロジェクトのため、ビルマに行った。

その時の報告を作成したので、ご覧ください。

 →BRSAビルマ国内支援プロジェクト訪問報告(BRSAサイト内)

わたしをビルマに派遣してくれた方々に対する義務を一応は果たしたので、今度はこちらのほうでこの旅について思いつくままに書いて行こうと思う。