2010/12/31

炎上

昔は炎上といえば金閣寺で決まりであったが、近頃ではもっぱらブログのそれをいう。

わたしのブログは、慎ましいわたしの性格を反映してやはり慎ましやかなものであり、そうした「ネット事件簿」的なものとは無縁である。

と思っていたら、実は燃えかかっていたんだって!

なんでも、ビルマのあるキリスト教徒の方々が、わたしの書いたものを読んで激怒したそうだ。なんたるデタラメ、と。それで、日本及び世界各国のビルマ関係者に声明文を出そうということになったらしい。「このけしからんブログは嘘ばっかり書いてあるから信じるな」と。

さいわい、ある人が思いとどまるように説得してくれたという。わたしが知らぬうちに火を消し止めてくれていたのだ。

仏教の説話に、自分の家に火がついているのにそれに気がつかずにのうのうと暮らしている、というようなのがあったと思うが、まさにそれだ。

ちなみに、怒りを買った箇所についてだが、話を聞く限りでは、事実関係の誤りというよりも、誤解、読解の誤りに基づくもののようだ。日本語を読み慣れない人にはわかりにくい表現だったのかもしれない。なんにせよ、今のところは怒っている人々の意見を聞くことができないので、とりあえず削除してある。

さて、今年の更新もこれで終わり。お読みくださった方々、どうもありがとうございます。

「火の用心!みなさん、くれぐれも火の元にはお気を付け下さい!」

この含蓄ある言葉をもって、年末年始のご挨拶に代えさせていただきます。

耳嚢

昔、ビルマ国にて戦ありて、日本兵あまた死にけり。久しくありて近しき村に子むまれし。その子、物心つける頃に、「吾、かの戦にて斃れし異国の兵の生まれ変わりなり」と語る。これを聞く村人驚かぬ者なし。

かの子、耳慣れぬことばもて話し、村人聞けば「これ日本語なり」と。又その身に大痣あり。もつて指して「吾の死ぬるは、この傷によればなり」といひてさめざめと泣けり。あるビルマ難民の語りしを、デタラメ古文にて記す。

森の生活(2)

それ以来、わたしは保証人として定期的に仮放免延長許可申請書に署名するほかは彼と会うことはほとんどなかった。どんな生活をして、どんな政治活動をしているのかも知らなかった。ただ時おり別の人から、体調が優れなくて困っているという話だけは聞いていた。

そこで、仮放免から現在に至る1年9ヶ月の間、どのように過ごしていたのかが知りたくなって、入管でのわずかな待ち時間に尋ねてみると、以前務めていた焼肉屋で暮らしていた、との答えが返ってきた。

「社長さんが良いって言ったんだ」と聞くと、かぶりを振って「ミャンマー人、バングラの人多い」

その店で働いているかつての同僚たちが衣食住の面倒を見ていてくれたらしい。彼は仮放免の身なので給与はもらうことはできない。その代わり、店の仕事を手伝って、食事を食べさせてもらっていたそうだ。身体の具合について聞くと、「咳がとまらない」とだけ言った。

わたしは彼がどうして難民申請をしたのかは知らない。また難民となった事情も聞かなかったので、その難民性の高低についても判断できない。しかし、どうして難民申請を止めたかはわかるように思う。貧困以外に想像はつかないのだ。

ビルマの総選挙が終わった。アウンサンスーチーさんも解放された。それももしかしたら帰国に踏ん切りを付けるきっかけとなったのかもしれない。しかし、 もしも彼が日本で別の生活を送っていたら、つまり、経済的にも自立し、医者にもかかることができたなら、その決断はまた別のものとなっていたろう。

すでに述べたように、わたしと彼は握手をして別れた。彼は入管職員とともに執行部門事務室に入っていった。はじめて会ったとき、彼は収容所 で困っていた。その後、釈放されて2年近くさらに困っていた。そしてその困りが高じて困り果てて再び収容所に吸い込まれることとなったのである。ちょうど 森の生活に嫌気がさして里に出てきたものの、村人の厳しい仕打ちにこりごりして、再び古巣に帰ったタヌキのようなものだった。

もっとも彼にはその先がある。入管職員によれば、年末年始で立て込んでいるので、もしかしたらビルマへの送還は年頭になるかもしれないとのことだった。だが、ビルマに帰ったとて、彼が困らないとは誰もいいきれまい。

森の生活(1)

先日、あるビルマ人が入管に収容されるのを手伝った。

しかし、入管の手伝いをしたわけではない。その人はわたしが仮放免の保証人をしている人だったが、難民申請をやめて、ビルマに帰ることにしたのである。

彼はすでに入管にその旨を伝えており、その指示に従ってわたしはその人とともに入管の7階の執行部門事務室というところに行った。その入り口でわたしたちは担当の職員を交えて今後の成り行きについて少しのあいだ話をし、そこで握手をして分かれた。その瞬間からわたしたちはそれぞれの道を歩み始めたのである。「収容手続き」と「保証金の還付手続き」という二つの道を。

彼の身元保証人を頼まれたのは2009年の春のことだ。彼はそのとき品川の入国管理局に収容されていた。仮放免のための保証人が見つからず困っているとのことだった。わたしは彼のことを知らなかったが、それを頼んできた人のことは知っていたので、一度面会に行った後、引き受けることにした。彼の仮放免許可が下りたのは、申請から一ヶ月後のことだった。

2010/12/22

ジャンピナ

以前「やりくり」で触れた、わたしが6万円ほどお金を貸しているビルマ人が、収容されてしまった。

収入のある身となったその人は、わたしに毎月少しずつ返済すると、約束してくれていた。だが、今やそれも不可能となった。品川の収容所から出られるとしたら、早くて4〜5ヶ月後。しかし、牛久に移送されてしまう可能性もある。そうならば10ヶ月〜1年は覚悟しなくてはならない。しかも、仮放免されたとしても、収入の保証はないのだ。

そもそも、仮放免された人が、収容以前の生活水準にまで戻るのはかなり厳しい。

こう考えると回収の可能性はほとんどゼロに近い。だが、その人を責めるわけにもいかない。

個人的な理由から難民の収容に反対する、そんなわたしの気持ちを込めた謎掛けをひとつ。

入国管理局の収容所とかけて、巷で話題のK-POPのリクエストと解く。

その心は、どっちもカラ(KARA)にして! 頼むから!

2010/12/21

つまるところは(3)

一種の真空ジェネレーターであるシュポポンは、停滞した汚水のリクィディティに圧縮ウェイヴ属性を転移することにより衝撃波を発生させ、詰まりの原因であるパルプ・エクスクレメント結合クラスターを美事に粉砕してみせた。わたしの闘いは終わり、事務所は再び平和を取り戻したのであった。

だが、話はこれで終わらない。

数日後、タンさんが折り入って話したいことがあるといってきた。思い詰めた顔をして、言いにくそうに切り出す。

「トイレが詰まったあの一件について、わたしはずっと考えていたのだ」

こっちはとうに忘れていた。

「こうしたことは残念ながらよくあることなのだ。本当に申し訳なく思う。いや、いや! まずわたしの話を聞いてくれ。わたしには何度も経験がある。たいていは来日したばかりのビルマ人だ。彼らは日本のトイレの使い方をよく知らない。それで、流してはいけないものを流す。特に年配の女性が生理用品を! 繰り返すようだが、わたしには何度も経験がある。面倒な経験だ。しかも、ビルマの人々ときたら、決して名乗り出ない。恥辱に感じて知らぬ存ぜぬを貫き通す。わたしはいくどその尻拭いをしたことか!」

わたしは理解する。最初にタンさんにトイレが詰まったことを報告したとき、彼がどうして馳せ参じようとしたかを。とんだ勘違いをさせてしまったのだ。わたしは心底いたたまれなくなる。

「別に犯人捜しをするわけではない」と真面目なタンさんは続ける。「だが、わたしは誰がこの事務所でそんなことをしでかしたか、この数日気になって仕方がなかった。あの人ではなかろうか、あるいはこの人では、と。だが、いっこうに思い当たらない! しかし、誰にせよ起きてしまったことは仕方がない。水に流そうではないか。肝心なのは再発を防ぐことだ。そこで、わたしはトイレに張り紙をしようかと思うのだ。ビルマ語で、何を流してよいか、何を流してはいけないか、注意書きを・・・・・・」

いくら恥知らずのわたしでも、叫び出さずにいられない。「タンさん、タンさん! しでかしたのはビルマ人じゃない! 日本人、日本人!」

2010/12/20

つまるところは(2)

翌日の朝、一番に事務所にやってきたわたしは、一抹の期待を抱きながら水を流してみた。

「ダメだ・・・・・・この詰まり、本格派だ」

となると、シュポポンしかない。一名シュポシュポとも呼ばれる柄付きゴムカップに一縷の望み。と、そのとき、チン人のTさんがやってきた。待ち合わせしていたのだ。

わたしは英語で「トイレに入らないで」と言い置きして、出かけようとする。すると、何を思ったか、Tさん、トイレに入ろうとした。おそらくわたしの英語がまずかったのだろう。「トイレ」とだけ聞き取って、そこに何かがあると思ったのだ。慌てて「ダメ、ダメ」と叫んで、わたしは買い物に飛び出した。

店で「トイレが詰まったのを直すヤツありますか」と聞くと、年配の店員が「詰まるったって、具合にもよるよ。紙詰まり? 針金でゴシゴシやんなきゃ、ダメかもよ」

そんな絶望的なアドバイスは結構。わたしはトイレ用品売り場を探し回り、目当てのものを購入して事務所に帰還したのであった。

さっそくシュポポンを取り出してトイレに入ろうとすると、Tさんがさっと立ちふさがる。自分に任せろというのだ。それは絶対ダメ! わたしは取り乱しながら、親切なTさんからシュポポンを奪い取り、トイレに駆け込んだ。

2010/12/16

つまるところは(1)

事務所のトイレが詰まった。

ビルマ・コンサーン共同代表であるわたしが尻を拭きすぎたのだ。

さいわい、水は溢れなかった。また、完全に閉塞してしまったわけでもなかった。便器の縁まで溜まった水はしばらく放っておくと、通常の水位にまで戻った。しかし、そこでもう一度流すと、再び水は縁までいっぱいになった。柄付きのブラシで便器の底をかき回してみたが、事態は好転しなかった。

そのときわたしはひとりだった。これはよかった。だが、あいにく、すぐに出かけなくてはならなかった。つまり、腰を据えて修理をする時間はなかったのである。

わたしは、外出中に事務所を使うことがあると大変だと考え、もうひとりの共同代表のタンさんに電話をかけて尋ねた。すると「その予定はない」と返事してタンさん、「だけど、どうしてそんなことを聞くんだ?」

「トイレが詰まったんだ」

「えっ、大変だ! 今から手伝いに行くよ!」

なんてマジメなんだタンさんは、と思いながらわたしは大慌てで断った。

2010/12/15

嘘つき

ビルマの人々の中にはとんでもない嘘つきがいる。

これはビルマの人々の性根がねじくれ曲がっているせいではない。不正な政府に相対するとき、身を守るための唯一の武器が嘘をつくことであるのが普通なのだ。自分についての本当の情報を明かすのは時としてとてつもない災厄を招きかねない。そして、このような自己韜晦のための嘘なら、わたしにもあなたにももちろん、経験はあるはずだ。

しかし、その韜晦ぶりが徹底してしまった人々がいる。嘘をつくことがほとんど習慣のようになってしまったのだ。そうした人々をあるカチンの人がこんなふうに評した。

「あの人たちは1日1回は嘘をつかなきゃ落ち着いて眠れないんだ!」

つまり、連中、夜中にガバと起き出して、つき忘れた嘘を慌ててつくというわけだ。

2010/12/13

から騒ぎ

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)で、今年の夏、恒例のバス旅行を企画し、50人ほどの団体で、大洗の海に海水浴に行った。ぼくは行かなかったが、とんだ騒ぎが起きた。

海の家に陣取って、海水浴をしたり、東京から運んできたビルマ料理を食べたり、お酒を飲んだりして楽しんだ後、帰途につくべくバスに乗り込んだ時、ひとりのビルマ人男性が行方不明になっているのが分かったのだ。

もしかしたら、溺れたのでは? いや、難民申請中なので警察に捕まってしまったのでは?

一同大いに心配する。携帯に電話をかける。出ない。バスを降りて探しに行く。どこにもいない。携帯が見つかった。海の家に荷物と一緒に残されていたのだ。

だが、いつまでも探しているわけにはいかない。そこで、捜索係として数名の役員を残して、バスは出発したのであった。

だが、張本人はなんと東京にいた。さんざん酒を飲んで酔っぱらってしまったのだ。自分のいた海の家が分からなくるほどに。そして、ぶらぶら歩いているうちに駅に出くわしたので、そのまま帰ってしまったという、なんとも迷惑な話。

昨日の日曜日、大塚のビルマ料理屋でBRSAの忘年会があった。みんな飲んだり食べたり、カラオケで歌ったり。すると、役員のひとりがぼくを呼んで言った。「あの人ですよ。海でいなくなったのは!」

ご機嫌そのものだった。熱唱していた。仲間たちと肩組んで陽気に踊っていた。

もう爆笑ですよ。

やりくり

難民申請中のビルマ人Aさんが、ある事情から急に引っ越ししなくてはならなくなった。

仮放免の身なので、なかなか新居が見つからない。そこで、すでに在留許可を得た友人のBさんの名前で借りることにした。

問題はお金だ。家探しに時間がかかったこと、そしてまぎれもなく本人がぐずぐずしていたため、契約を成立させるには、翌日までに11万円払わなくてはならない、さもなければ住むところを失う、そんな状況だった。

そこで、Bさんがぼくに電話をかけてきた。とりあえず立て替えて銀行から送金してくれないか、と。

「で、その人は今いくら持ってんの」

電話口で彼がAさんと話しているのが聞こえる。

「5万円だって」

6万円貸すわけか、とぼくは考える。ぼくはビルマの人々に貸したまま返ってこないお金のことを思う。総額18万。そのうち5万円と6万円を貸した二人のカレンの人は、ぼくのことをスパイだなんだとさんざん触れ回っている。そうすれば借金も帳消しになるかも、という短期的かつ楽観的な経済見通しがあるのだろう。もっとも、こちらは長期的かつ悲観的に考えるほうだ。

それはともかく、Bさんは信頼のできる人だ。それに、損害を被るとしたらBさんのほうがはるかに大きい。なにしろ、彼はAさんの家賃の責任も負わなければならないのだから。

また、ぼくはAさんのことも知らないではなかった。独立して生計を立てている人だ。そんなわけでぼくは踏み倒される可能性は低いと判断し、11万円を送金し、そのうちの6万円を貸すことにした。

もっとも、送金を済ませたぼくはすぐにBさん電話して、こう要求せずにはおれなかった。

「その5万円をすぐにAさんから奪い取るんだ!」

それからしばらくして、ある日本人と話すことがあった。いろいろとビルマ難民の面倒を見ている人だ。たまたまAさんの話題が出た。その人が言った。「Aさんなら、この前電話をかけてきて、引っ越しでどうしてもすぐにお金が必要だからというから、貸したよ、5万円!」

もう爆笑ですよ。

2010/12/07

テンペスト

カレン人難民のWさんははじめ、品川入管のあるブロックの6人部屋に収容された。

彼が連れてこられたのは午後3時頃だったが、夜勤明けだったということもあり、そのまま寝てしまった。

夕方になって彼は目を覚ましたが、その時には同室の収容者たちの確信は揺るぎないものとなっていた。今宵は嵐と雷鳴の一夜となる、と。身の危険を感じた彼らは入管の職員に善処を訴え出た。

入管の職員はこんな要望に慣れっこになっていたのだろう。すぐさま、イビキ抑制テープが届けられた。これは、鼻梁に貼付けて鼻の穴を拡張することでイビキを防止する、現代人体科学の粋の結晶である。

だが、自然の猛威は現代科学をいとも簡単にねじ伏せた。嵐は夜っぴて吹き荒れ、翌朝やってきた入管の職員は、Wさんに部屋の移動を宣告したのであった。

彼が移されたのは、同じブロックの3人部屋だった。二人の先客がいたが、夜になってこの二人も相当なものだということが明らかになった。サイクロン級だった。つまり、この部屋はそれ専用の解放区だったのだ。

Wさんは数ヶ月後仮放免されるまで、ずっとこの部屋に収容されていた。二人の先客はやがて釈放されるか、帰国するかしたが、新しい収容者はついにやって来なかった。Wさんは一人きりになったが、平日は自由時間に他の部屋に行き来することができるので、孤独とはいえなかった。部屋から出ることのできない土日の寂しさを補ってあまりある快適な生活だった。収容所で望みうるかぎりの内面的自由を獲得した彼は、それを著作と描画に捧げた。

Wさんと同じく、やはりすさまじき雷鳴の輩であるわたしは、彼がイビキによって悲しい収容生活を実りある創作生活へと転じえたことを近来の快事とし、ここに書きとどめる次第である。

2010/12/03

虫のいろいろ

小学生の頃、同級生が夏休みの自由研究で賞をもらった。

それは、夏の夜の電灯に集まる虫たちの研究で、彼は毎年同じテーマを選び、その根気と蓄積が評価されたのである。

自分がどんな「自由研究」をしたのかはさっぱり覚えていないくせに、彼の研究だけは印象に残っている。そんなわけで、夏休みの自由研究と聞くと、ぼくは虫のことを連想するようになってしまった。

難民のカチン人家族がいる。ご夫婦とひとり息子。ご夫婦はぼくがずいぶん世話になっている方々で、お二人とも相当の人物だ。

小学校6年生になるその息子さんがこの夏こんな自由研究をしたそうだ。

「独裁者の研究」

ぼくが小学校の頃とは自由研究もずいぶん違うだろうからわからないが、こんなことを調べる子どもはそういないのではあるまいか。はやくも親譲りの大物ぶりを発揮したというべきであろう。

いっぽう、独裁者のほうもまた、虫や花と同列に扱われることで、本来の小物ぶりを明らかにされたのである。

ちなみに、その自由研究によれば、ビルマのタンシュエ大将は世界で第3位の独裁者だそうだ。

世界にはまだまだいろんな虫がいる。

2010/12/01

それにはおよびません

入管で収容された経験のある人たちから話を聞いている。

ある経験者から聴き取りをしているとき、収容施設の日常生活で記憶の不確かな点が出てきた。

彼は嘆息して曰く「ああ、忘れちゃったな。もう一度入らなきゃダメだ!」