2014/10/31

アジアンダイニング・バンダ(VANDA)のビデオ

日本とミャンマーを舞台にした国際共同制作映画『Passage of Life』」という映画の制作が進んでおり、これについてはまた別に書くけども、わたしが幾度か取材を受けた関係で、わたしの知っている人たちもこの映画に少々関わっている。

そのせいかどうかわからないが、アジアンダイニング・バンダが取材や打ち合わせに使われることもあるようで、難民のモーミントゥさんとこの映画の監督を務める藤元明緒さんが、バンダのCMを制作し、YouTubeで公開している。

動画の中で店への行き方も案内しているので、ぜひ一度どうぞ。



アジアンダイニング・バンダ(VANDA)

大塚にはミャンマー家庭料理シエルの他に、もう一軒、海外カレン機構(日本)OKO-Japanのメンバーが開いたビルマ料理のお店がある。それがアジアンダイニング・バンダ(VANDA)だ。

マウンマウンと愛称で呼ばれるオーナーのサ・ウィンスエさんは、エーヤーワディ・デルタのミャウンミャ出身のポー・カレン人で、2006年以来のOKO-Japanのメンバーだ。

彼はグループに入り、難民認定申請の準備をしていたのだが、その直前に入管に収容されてしまった。その結果、1年ばかり品川と牛久で過ごすことになった。わたしは当時彼の身元保証人をしている。

その後、日本で在留許可を取得し、まじめに働いた後、ついに今年の6月に自分の店を持つこととなったのだ。やはりデルタ出身の奥さんと二人で頑張っている。

最近ではお客さんも増えて、特に土日は繁盛しているようだ。

「アジアンダイニング」とあるようにビルマ料理だけでなくタイ料理なども出す。日本人にはタイ料理のほうが馴染みがあるからで、わたしはここのタイ風焼きそば好きだ。

ビルマ料理もいろいろあるが、わたしがいつも頼むのはエビのかき揚げのあえもので、これはつまみにいい。

個室もあってOKO-Japanの会議兼飲み会会場としても利用している。






ウィンスエさん(右)

今年の7月にミャウンミャに行ったとき、ウィンスエさんの実家に寄り、そこで一人で暮らしているお母さんに会った。

お母さんはわたしのことを息子のようだと言って歓迎してくれたが、それはひとつにはおなかの形が似ているということもあるだろう。

コーチング

ミャンマー家庭料理シエルのホームページを作った日本人の常連について触れたが、藤由達蔵さんという方だ。

藤由さんは2年ほど前に在日ビルマ人と知りあったのがきっかけでビルマに関心を持つようになった人で、驚くべき行動力とポジティブな社交性で瞬く間に在日ビルマ人社会で知られるようになった。

ビルマの解放にともない、それまではあまりいなかったような人がビルマに関心を持つようになった。日本のほうでも広く解放されたというわけで、いろいろな人々がそれぞれの立場からビルマに関わるようになっている。これはとてもよいことだ。

コーチングという分野で活躍されている藤由さんもまた、その専門をビルマで役立てたいという夢を持って、さまざまな活動をしておられる。このコーチングについては彼のサイトで知ることができる。

彼はまた、シエルを会場に月に一回「ミャンマー料理を食べながら夢と希望をシェアする会」という飲み会を主催している。ちょうど昨日その会があり、藤由さんと飲みたかったので夢も希望もないわたしも参加させてもらった。4人の参加があり、ビルマについていろいろな話を聞くのは楽しい。

シエルにはカラオケもあるが、藤由さんはずいぶんビルマ語の歌を知っている。それだけではなくビルマ語でも歌う。歌いながらノートに時折目をやるが、そこには気に入った歌の歌詞がビルマ語で丁寧に書かれているのだ。

物事は何でもちゃんと意識的に学ばないとダメだ。それは、藤由さんの何倍もの年月をビルマ人と過ごしながら、「門前の小僧」を信じたばかりにいまだにビルマ語で一曲も歌えないわたしが証明している。

小僧め〜。

ミャンマー家庭料理 シエル

大塚駅周辺には何軒かビルマ料理のレストランがあるが、そのうちのひとつが「ミャンマー家庭料理 シエル」だ。

ホームページを見れば分かるようにスナック風のつくりだが、本格的なビルマ料理を出す店だ。

この店の名物といえばなんといってもチェーオーで、これは豚のモツの入った麺でビルマの定番料理の一つだ

わたしが聞いた話では、この料理はヤンゴンのとあるレストランで生まれたもので、そう歴史のあるものではないらしい。

それはともかく、このシエルのチェーオーが最高と言ってはばからぬ日本人の常連がおり、店のホームページも その人が作成している。

お店を切り盛りするのはミミさんというビルマ人女性で、わたしの古くからの知り合いだ。

わたしは2006年に在日カレン人とともに海外カレン機構(日本)OKO-Japanを設立したが、カレン人の血を引くミミさんも設立まもない頃にメンバーとなったのだ。

その後、彼女は難民認定申請を通じて在留資格を得たわけだが、同じグループのメンバーがこういうお店を開き、成功させているということは、とてもうれしい。

ホームページにも記されているようにミミさんはお店を休んでビルマに一時帰国していた。十何年ぶりの帰国ということで、ビルマの現状についての印象を聞いてみたが、あまり肯定的なものではなかった。

なんでもヤンゴンの食べ物がまずくなっていたということで、これはミミさんばかりでなく他の人もよく言っている。

そのうちシエルのチェーオーが本当に最高になるかもしれない。

シエルの看板

 チェーオー発祥の店とかいうところのチェーオー。
ヤンゴン、2004年。

2014/10/30

セカンド・オピニオン

築地にある国立がんセンター中央病院に行った。

がん治療中の友人のビルマ人といっしょにその人の病状のセカンド・オピニオンを聞きにきたのだ。

日本語が分からないので不安だというので連れて来られたのだが、わたしはがんが怖い。怖すぎて逆に今すぐがんになりたいぐらいだ(なってるかもしれないが)。

それでも一緒に来てくれといわれれば断るわけには行かない。

おっかなびっくり病院に入って手続きをする。入り口のところにパネルが展示してあって待っている間に眺める。

がんセンター50周年を記念してガン治療の歩みが記されている。このセンターが出来たときはがんは不治の病だったが、それからどれだけ医学が進歩したことか。

考えてみれば、わたしの周りにもがんを克服して元気に暮らしている人はいくらでもいる。よく言われるようにがんはもう治る病気なのだ。

医学よありがとう……。

もはや怖くなかった。いつがんが来ても平気だ。さあこい! もうなるのが待ち遠しくて! そんな気持ちでわたしは友人とセカンド・オピニオンの相談室に勇躍乗り込んでいった(とかいって一年後にがんで死んでたりして)。

まるで我々をあざ笑うかのように

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)が出来たばかりの2008年のころ、ある一人の被収容者を巡って議論になったことがあった。

その人はBRSAに仮放免のための支援、具体的に言えば、身元保証人を見つけ、保証金を貸してくれるように求めてきた。

これはBRSAの目的であるし、またその人も会員だ。当時の二人の日本人役員、つまり会長もわたしも当然支援すべきだと主張した。

しかし、ビルマ人役員たちはどちらかというと乗り気ではなかった。その人物はいろいろな点で信用できないというのである。

結局のところ、彼のためにわたしが身元保証人となり、また会からは保証金として30万円貸すことになったのだが、やがてビルマ人役員のほうが正しかったということが明らかになった。

仮放免中の人は定期的に身元保証人から署名をもらわなければならない。その署名の入った申請書を持って入管に出頭し仮放免許可を延長するのである。

彼は最初のうちはわたしのところに署名のためにやってきていたが、次第に来なくなった。

貸与した保釈金も毎月会に返済することになっていたが、四万円ほど返したところで滞った。

電話をして呼び出して問題を解決しようとしたこともあったが、終いには電話にも出なくなってしまった。

周りのビルマ人も、彼がどこにいてどこで働いているのか分からない(もちろん仕事は禁じられている)。

しかし、わたしに会わないでどうやって仮放免許可を延長しているのだろう。わたしは以前、複数枚の申請書にまとめてサインすることがあったが(今はしない)、それにしても何年もわたしの署名なしでいることなどできない。

いっぽう、彼は間違いなく入管で延長しているはずだった。というのも、もし仮放免許可延長のために指定された日時に出頭してこなければ入管のほうからわたしに連絡が来るからだ。

BRSA役員たちは二つの可能性を考えた。わたしの署名の入った申請書をコピーして入管をごまかしているか、わたしの署名を偽造しているかのどちらかだと。

いずれにしても法に触れる問題であり、会の信用にも関わることだから、入管の担当部署に相談するということになった。

そこで、今年の5月のある日、わたしが品川の入管に電話すると、驚愕の事実が明らかになった。

わたしの話を聞いた職員が事情を調べると、まさにその日の午前に彼が来て仮放免延長許可を済ませていたのだった。

あまりにも「まるで我々をあざ笑うかのように」で笑ってしまった。

数日後わたしが入管に赴き、彼が提出したという申請書を見せてもらうと、そこには別の人の筆跡でわたしの名が記されていた。

おそらく知り合いの日本人に書いてもらっていたのだろう。

そして一ヶ月後、入管から連絡が入り、彼が再び仮放免延長許可に出頭したところ、延長ならずしてそのまま収容された、ということを知った。

偽造された署名を確認したときに職員はわたしに言った。

「ここに来るときの印象では悪い人ではないんですけどね」

「そうなんですよ」とわたし。

しかし自分に甘い人間だったのだ。彼はもう帰国しているが、品川に収容されているとき、航空券代がないからお金を何とかして欲しい、とわたしに電話をよこしてきた。

出頭の日

品川の入管から電話がかかってきた。

わたしが保証人をしているビルマ難民が出頭してこないというのだ。

仮放免中の人は、身元保証人の署名の入った仮放免許可延長申請書を持って指定された日時に定期的に入管に行かなくてはならない。これを怠ると再び入管に収容されかねない。

この約束をすっぽかして、入管が身元保証人であるわたしのところに連絡してくる、というのはたまにある。

ひとつは、入管から釈放されたばかりで仮放免延長許可の必要というものを分かってなくて行かないケース。これはあってはならないが、一度ぐらいならば入管も大目に見てくれる。

もうひとつは良くないもので、わたしの署名をもらいたくないか、あるいは入管に出頭したくないかしてバックレるというものだ。これも一度ぐらいならいいが、 繰り返すと、悪質だとして入管も強硬な措置をとらざるを得なくなるし、またわたしの身元保証人としての信頼も損なわれる。

もちろん滅多にあることではないが、責任感の欠如した人もいないわけではない。

しかし、今回の場合はそのどちらでもなさそうだった。彼はまじめな人で、定期的にわたしのところに来ては署名を求めてきた。

おそらく忘れたのだろうと電話をするが全然出ない。そのうち不安になってきた。 彼はわたしより少し年上だ。一人っきりのところを脳梗塞や心筋梗塞に襲われたのかもしれない……。

結局は忘れてたのだが。

急いで入管に走れメロス。

品川入管の面会室に向かうエレベーター

2014/10/29

お門違い

あるビルマ人が警察に逮捕された。

逮捕の理由についてはよく分からないのだが、警察署にそのまま拘留されるような重罪ではなかったようだ。彼は警察に「後に改めて出頭しなくてはならないから備えておくように」と言われてその日のうちに釈放された。

無理からぬことだが、彼はこの先自分がどうなるのか不安になった。刑務所に入れられるかもしれない。そこで、ヤンゴンにいる妻に相談すると、信心深い彼女は パゴダに行って占ってもらう。

お告げが出た。

「だれか力ある者と警察に行けば、汝の夫は災いを避けられるであろう」

電話で知らされた彼は、藁にもすがる思いでわたしに電話をかけてきた。いきさつを説明しわたしに警察に付き添って欲しいと頼む。

「パゴダで告げられた『力ある者』とはあなたのことです……」

「それ弁護士」

わたしは電話を切った。

お告げでも憲法でも解釈は慎重に。

関係ないけど入管のキャラクター「とりぶ」。
貴重な一枚だ。

2014/10/27

エボラより怖い

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)はビルマ難民と日本人(とそれ以外の人々)からなる団体だが、結成当初から日本人は非常に少なかった。

そしてただでさえ少ない日本人は、わたしが会長となった2012年にはついに一人となった。

これではいけないというので、BRSAとして日本人会員を増やす取り組みを進めているが、ここ一年ほどの間に、五人ほどの方が会員となってくれた。また会員ではないが関心を寄せてくれる方も結構いる。数としては多くはないかもしれないが、どの人も経験豊富で面白い。

そうした方々とビルマをネタに意見交換し、その後は居酒屋で一杯という集いを不定期で数回行ったが、楽しいし話は尽きないので、毎月一回の定例会とすることにした。

10月は先週の金曜日に御徒町のBRSA事務局でこの集会(正式名称はまだ決まっていない)を開催した。参加者はわたしを含めて9名だった。

せっかくだから新しいことを学びたいので、つい最近会員にもなってくださった国際政治学の研究者の峯田史郎さんにお話しいただいた。峯田さんはシャン州南部のシャン民族政治組織を研究のフィールドの一つとされていて、今回はそのめったに聞くことのできない地域のお話を伺うことができたというわけだ。

タイトルは「 境界上の領域管理―シャン州南部ロイタイレンを事例に―」。専門的に聞こえるが、実際は具体的な観察に基づき、現地で撮影された写真や映像も活用されているためわかりやすかった。

シャン州とタイとの国境に位置するロイタイレンは、シャン民族政治組織であるシャン州軍・シャン州復興評議会(SSA/RCSS)が本部を置く村だ。人口二千人ほどの小さな村だが、その境界上にある村の「生存戦略」がビルマ政府、他のビルマ少数民族政治組織のみならず、中国、タイ、アメリカ、さらには日本などにまで及んでいることが如実に分かり面白かった、というか興奮した。

国際政治学というと国と国の外交関係を扱うものばかりと思っていたが、国家以外で国境を超え出でていくような政治的単位も研究対象となるというのも面白いし、またそうした実証研究を通じて「国家というものを相対化する」という峯田さんの視点も刺激的だ。

こうした視点こそ、何を見ても日本・韓国・中国でしか考えられなくなる国家逆上熱というエボラ出血熱よりもコワイ病気の治療に役立つのではないかと思われる。

プロジェクタを活用

2014/10/25

難民を言い換えたら

ここ数年、毎年東京都立杉並総合高等学校で難民について話す機会を与えられている。NPO法人NICE事務局長の上田英司さんが担当されている社会問題を扱う授業の一コマだ。

毎回、ビルマ難民の人と一緒に行くので、それが生徒たちに印象深いのだという。わたしにとっても貴重な機会なのでとてもありがたい。

今年は、ビルマのチン民族難民のトゥアン・シャンカイくんに同行をお願いした。彼は関西学院大学の学生で、難民のことを世間によく知ってもらうための活動をしている。 新聞やテレビにもしばしば取り上げられる。

彼は難民問題についてあちこちで講演しているだけあって、わたしより話がうまい。高校生たちの関心も高かったように思う。

「難民を言い換えるとしたらどんな言葉がいいか」という問いかけでもって彼は話を始めたが、これはまったく興味深い質問だ。

「難民」=「困難にある人、支援が必要な人」というのはある意味では正しいが、それはまたステレオタイプでもある。そしてこのようなステレオタイプに隠されてしまっている「難民」のさまざまな姿に気付かせるには、この問いは有用だ。

シャンくんはある講演で出た例として「夢民」というのを挙げる。わたしの好みではないが、人々が何でもアイディアを出すのはよいことだ。

わたしが気に入っているのは「平和の使者」というもので、これはかつてインドシナ難民の支援に関わっていた年配の人が言った言葉だ。難民の問題を知れば知るほど平和の重要性というものが分かってくる。

しかし、わたしなりの答を言わせてもらえば、難民を何にも言い換えたくはない。いや、難民とも呼びたくない。そもそも何とも呼びたくない。

むしろ難民自身で自分の呼び名を決めて欲しい。そしてその呼び名が社会の中で通用するようになって欲しい。というのも難民(とそれに似たような人々)のつらいところの一つは、他の人に難民として語られるばかりで、自分の声で自分のことを語り、それを人々に届ける機会が圧倒的に少ないことにあるのだから。

そのような意味で、その難民自身であるシャンくんの活動はとても重要なものだと思う。

トゥアン・シャンカイくん

2014/10/24

小さい日本兵

ヤンゴンに二人の小学生の男の子がいる。

二人とも日本の保育園と小学校で学んでいたが、ある事情により、ヤンゴンに戻ることになった。カレン民族の家庭なので、ビルマ民族の多い公立学校はどうも好きになれない。そこで、ヤンゴンの日本人小学校に通わせることにした。幸いにも学校も理解があって二人を受け入れてくれた。

去年の二月にビルマに行ったとき、わたしは子どもたちの家を訪ね、母親と話をした。彼女が言うには、息子たちは自分のことを日本人だと思っているようで、大きくなったら軍隊に入って日本を守りたいなどと話しているという。

どうしてそんなことを言い出したかというと、小学校の授業である教師が「日本を悪い中国人がいじめている」というようなことを教えたそうで、それで中国人から日本を守らねばと幼心に決心したもののようだ。

これを聞いてわたしは複雑な気持ちを抱きながら立ち去ったのであった。

その訪問から数ヶ月して、わたしは再びヤンゴンに行き、件の小さい日本兵のいる家に立ち寄った。

子どもたちが「遊ぼう」というので、リビングで適当にあしらっていると、上の子がわたしに言った。

「ねえ、日本人は死ぬときは『天皇陛下バンザーイ』っていって死ぬんだよ!」

わたしはさらに複雑な気持ちでその家を後にしたのであった。

エーヤーワディ・デルタの村の保育所

無駄な日々

入管での収容は無駄なことだと思うわたしが、この間、入管で目撃した無駄なことどもを紹介しよう。

東京入国管理局で面会の受付を済ませ、エレベーターで七階の待合所に上がり、呼び出されるのを待つ。

二人の男が後からやってくる。言葉は分からないが、ペルシア語かそれに似た感じの言語を話している。日本語も上手で、職員とのやり取りもそつがない。二人は面会相手に歯ブラシを差し入れしたいようだ。

入管では差し入れは直接渡すことはできず、面会の前に職員に託さなければならない。

その手続きをしていた男が、不意に日本語でいう。

「歯ブラシが欲しいんだってよ。歯もないのにさ……」

もう一つ。

相変わらず待合所で待っていると、面会を終えたばかりの日本人の男が出てくる。五十代の痩せた男で、調理場でてきぱき働いているのが似合う感じ、いずれにせよ、入管の面会に用のある職業ではない。

男は出てくるなり、職員を捉まえて話しかけた。かすかに震えるその声が、憂いと 苛立ちを押さえつける。

「あの……入っている人と私が入れ替わるなんてことはできないんですかね……」

二つ目終わり。


子宮と仮放免

この間、品川の入管に行った。現在、四人のビルマ難民が収容されているようで、そのうちの三人がBRSAの会員なので、 三人に面会した。

ちなみに、牛久のほうでは今収容されているのは二名程度で、いずれにせよ、ビルマ難民に関して言えば収容されている人はほとんどいないといっていい。2006〜2008年ごろには牛久に百人ものビルマ難民が収容されていたこともあることを考えると、まったく悪くない。

わたしが品川に行ったのは10月22日のことで、冷たい雨が降っていた。

ちょうど外の敷地で、牛久の会の田中さんたちが難民の収容に抗議していた。「難民を収容するな」とか「仕事をさせろ」とか書かれた幕をもっている人には、その難民らしき人もいる。

ビルマ難民以外の難民は、相変わらず、厳しい状況のままというわけだ。

だが、ビルマ国内の政治状況と日本政府との関係によってはまた今後ビルマ難民の収容がぶり返さないとも限らないのだから、他人事とも言えない。

心強いのは、入管の収容に反対する人がたくさんいるということで「全件収容主義と戦う弁護士の会 ハマースミスの誓い」というものもできた。10月28日に設立総会をするそうだ。

わたしは面会したり、仮放免申請することぐらいしかできないが、こうした動きにとても期待している。

わたしが面会したBRSA会員のうちの一人は、12月に出産を控えた妻を残しての収容生活だ。

わたしはこの日、その彼ともう一人の会員のために仮放免申請したが、父親が赤ん坊より先に娑婆に出てこれるかどうかは微妙な情勢だ。


白髪

入管に収容されている女性は、無理からぬことだが、疲れた顔をしているし、また老けて見える。

だから、収容される前に面識がない女性の場合は、面会の度に目にするその草臥れた顔がわたしにとってのその人となってしまい、それで、仮放免などされてしばらく後に会ったときに、あれこんなに若くてきれいで明るい女性だったっけかと思うこともしばしばだ。

男性は化粧をしないので入管の中にいたときとの差はそれほど大きくはない。

しかし、わたしが仮放免の申請をした人に、白髪の男性がいて、何とか釈放ということになった。

その時に彼が言うには「我、常日ごろ白髪染め愛用せり。しかるに入管の中にこれを使うを許されず、頭髪ことごとく白く戻る。今、汝の助けによりて獄を出ることを得たり。帰りて直ちにふたたび染めんとす。汝、我の白髪を見ることこれが最後なり」

どうぞ最後にしてください。

牛久入管内から見た風景。白髪のように白い雲が漂う。

韓国からの電話

外国から電話がかかってくる。

+82と表示されるのでどこからかと調べてみたら、韓国の国番号だ。

韓国には知り合いはいない。

わたしの日ごろ愛国的な言動に反感を持つ韓国人からの嫌がらせの電話か、それともわたしの日ごろ反日的な言動に胸を高鳴らせた韓国人からの応援の電話か。

それとも、韓国海苔の宣伝部長にでも選ばれたか。

何度もしつこく電話がかかってくるので、思い切って出てみた。

牛久の入管に収容されているビルマ難民の女性からだった。

通話料を安くするためのプリペイドカードの番号が韓国経由というわけだった。

彼女は品川での収容期間を含めて一年近く収容されている。そして、わたしはBRSAのメンバーである彼女のために五回目の仮放免申請を行い、その結果を待っているところだった。

入管からの返事はないかどうか彼女は聞き、わたしはこの切実な問いに「ない」と言って切った。

幸いにもそれからしばらくして仮放免許可が下りた。

牛久の入管