2014/11/30

「アボーション・ロード」第7章 地の獄の囚人たち(まえがき)

2013年11月13日、ビルマの社会活動家ネーミョージンさんに同行して、エーヤーワディ・デルタにいたとき、彼が現地の警察に逮捕される場面に遭遇した。

その出来事をもとにわたしは10ヶ月ぐらいかけてひとつの物語に書いた。物語といっても、ほとんどの人が実名で出ているので、ノン・フィクションといってもいいが、わたしはフィクションのほうが好きなので、やはりフィクショナルな構成を取っている。

わたしはこれを出版したいと考えているが、いまのところその芽はない。

タイトルは『アボーション・ロード』といい、これはデルタの悪路の別名だ。全部で16章だが、長すぎるので半分以下に削った。

そして、その削除された一章が、88ジェネレーションの事務所訪問を書いた「第7章 地の獄の囚人たち」だ。

現在来日中のミンコーナインと一緒に来る予定だったココジーとのインタビューが一つの中心で、また12月2日に来日するというコ・ジミーも少しだけ登場する。

わざわざ出すほどのものかもしれないが、88ジェネレーションの活動家の来日という機会でもなければきっかけもなかろう。13回ほどに分割して掲載したいと思う。

ミンコーナインのちらし

増える難民、泣きの入管(6)

そして、こうした人が増える分だけ、本来の難民保護という目的は、申請者にとっても入管にとっても疑わしいものとなっていくばかりでなく、入管の価値そのものも下落していく。これはさらに日本政府への信頼性を損なうものでもある。

また、この方策は、入管職員にある種の乱暴さ、粗雑さ、非人間性を要求するものであるから、それは難民認定申請者にとって不愉快なハラスメントであるばかりでなく(わたしも実際不愉快な思いをする)、当の職員にとっても精神的なダメージは少なくないはずだ。そして、日本国民が一人でも暴力的であることを強いられるというのは、それが国家による要請に基づくためになおさら、社会の持つ暴力性を増幅させる。つまり、これは入管だけの問題ではないのだ。

だから、こうした誰にとっても特にならない解決策は直ちに改めて、難民に当てはまらない人々が、適正な審査によって日本に滞在できる許可を得られるような別の経路を作るべきだ。

それはともかく、仮放免期間の短縮は、ビルマの政治状況と関係あるというよりも、申請者数の激増という事態に対する入管の反応ではないかというのが、わたしの結論であり、難民認定申請中のビルマ人にとっては面倒くさいことかもしれないが、特に不安がる必要はないのではと思っている。

品川入管

KAI兵士の話

11月28日の夜、BRSA事務局で、カチン独立軍(KIA)の元兵士の若者の話を聞く集会を開催した。

その人は別の用事で来日していたのだが、わたしは彼がかつてKIAで働いていたことを聞いていた。それで11月19日の砲撃事件のこともあったので、急きょ彼の経験について話を聞く企画を立てたというわけだ。

「元兵士」としたが、正式には除隊はしていないので、自分としてはまだ兵士なのだという。入隊時にKIAの旗の下で為した誓いは終生続くのだ。とはいえ、彼はもうKIAの内部の人間ではない。

いずれにせよ、ビルマに住んでいる彼の安全上の理由から、詳しいことは書くことはできない。しかし、現在30代前半の彼が、10年ほど前にどのようにKIAに入隊することになったかの経緯は非常に興味深かった。

カチン民族の立場からすれば、それは民族の戦いに加わる価値ある過程であるが、別の視点から見れば、それは若者が戦争に巻き込まれていく悲しい過程でもある。もっとも、彼が在籍した時期のKIAは停戦中であったために、彼自身には実戦の経験はない。とはいえ、彼の同期生のうちには、現在も戦っている者もおり、また戦死した者もいるという。

わたしにとってもう一つの興味深かったのは、彼が、KIA副参謀長のスムルッ・グンモウの側近の一人であったときの話だ。現在のカチン民族にとって英雄視されているといってもいいこの若きリーダーの素顔についても聞くことができた。

11月19日のビルマ軍からの砲撃については、彼の見方によれば、ビルマ政府が主張するように軍が誤って砲撃するなどということはありえず、これは紛れもなくビルマ側からのKIAへの挑発行為だという。相手からの発砲は、ビルマ軍にとっては戦争を続ける格好の理由になるということだろう。

参加者は少なかったが、それぞれに収穫があったようで、非常に良い企画となったと思う。

グンモウさん
(2012年7月ライザのKIA司令部にて)

子役

先週の土曜日、ビルマ(ミャンマー)と日本を舞台にした難民の家族の映画、『Passage of Life』が入管のシーンを撮影するというので、小学一年生の娘を連れて行ってきた。

場所は西東京市役所の田無庁舎で、市役所のカウンターを難民関係のカウンターと見立てたというわけだ。

もちろん、実際とはかなり違うが、普通の人は入管など行かないので、映画を撮る分には問題ない。

本職の役者さんといろいろな国出身のエキストラの方が出演しており、主人公が入管で手続きをするシーンが撮影された。わたしもどこかで映っているはずだ。

映画というのは、安岡章太郎ではないが待つのが仕事のようなものらしく、これが娘には退屈だったようで、早く家に帰りたいなどと駄々をこね始めた。

すると、時間のあるスタッフの方々が遊んでくれた。娘はすっかり楽しくなってしまったばかりか、いつのまにか「こども」という役までもらっていた。

わたしは別の場所で待機していなくてはならず、娘のそばにいられなかったのだが、どうやら、ひとりで遠くの方から歩いてくる役を与えられたようだった。

しばらくするとスタッフの人が別のスタッフに「子どもがやりたくないって言ってる。どうしようか」などと話しているので笑ってしまった。

すると、先ほど遊んでくれていた女性スタッフの方が「わたしがその子のそばに行って一緒に歩きましょう」と走って行ってくれた。つまり、親子役というわけだ。

わたしたちはちょうどその日の最後のシーンを撮影しようとしていた。これが終われば田無から撤収だ。監督と役者たちは打ち合わせを繰り返し、最後のカットに備える。

エキストラたち、わたしも娘たちもそれぞれの配置について、じっと待っている。土曜日の市役所の静けさがずんと重みを増した。

いよいよ本番。そのときだ。

「すいません、おしっこです!」

監督たちの前を走り抜けていく娘とスタッフ

まさかの娘のおしっこ待ちだ。

うんちじゃなくてよかったというべきだろう。


撮影風景。

入管のミステリー

BRSAの役員の方が今年の春に亡くなったとき、その愛娘の携帯にすでに亡き彼からのメッセージが届いたという出来事があった。

いろいろな説明はありうるだろうが、娘さんにとっては、異国の地で病に斃れた父が死後もなお自分を愛してくれていることの証と理解され、大きな慰めとなったようであった。

わたしも実は似たような神秘体験をしている。

ビルマの人々はFacebookを非常によく利用するので、わたしもBRSAの活動を報告したり、ビルマ国内の友人たちとコンタクトを取るのに重宝している。おかげでわたしのFacebook上の友人は9割方ビルマの人になった。こうなりゃもっと増やしてやろうと、知っている人にはできるだけ友達リクエストを送るようにしている。

先日、「誰々さんがあなたの友達リクエストを承認しました」というお知らせが届いた。彼はわたしが身元保証人をしている人で、わたしがずっと前に送ったリクエストをようやく承認してくれたのだ。

だが待てよ。彼はその前の前の日に入管に収容されていたのではなかったか。

入管の収容所では外部との連絡は内部に設置してある公衆電話によるしかない。

それ以外の連絡手段、例えば携帯電話やインターネット、伝書バトなどは禁じられていて、収容中はいわゆるSNSなんかで誰かとコミュニケーションを取ることなどできないのだ。

ちょっとしたミステリーだ。

てか、割に親しいつきあいをしてたんだから、もっと早く承認してくれよな。

品川入管の面会許可申出書

2014/11/29

増える難民、泣きの入管(5)

そして、仮放免延長期間の短縮も、おそらくこの申請者数を減らすための切ない努力に起因するものと思われる。

つまり、一カ月毎に出頭させるという面倒くささによって、不埒な難民認定申請者たちを懲らしめ、やる気を失わせ、追い払おうという計画なのである。

そして、どこにもだらしない人がいるように、申請者の中にも毎月の出頭を怠る人が出てくるはずで、それこそ入管の思う壷、法律違反で収容して強制送還というわけだ。

わたしは別に仮放免期間がひと月であることには反対はしていない。しかし、それが難民を締めつけ、申請者数を減らすための方策として用いられるとしたら、間違いでもあるし、効果のないことであると思う。

一カ月毎に出頭するだけで、日本に滞在できて、しかもその間本来してはいけない労働も見て見ぬふりをされるときては、ビザのない人にとってはしない手はないというものだ。

品川入管

2014/11/28

BRSAの会議

11月23日夜、南大塚地域文化創造館で、BRSAの月例会議があった。

議題は、毎年恒例の1月1日のバス旅行、ミンコーナインさんたちの来日計画、入管の最近の状況などについてで、特に入管の収容の問題は会員にとって切迫した問題だ。

わたしと役員がそれぞれ自分の考えを述べ、また会員からも質問や発言があった。そして、この時発言してくれた人の一人が、さっそく、というのも変だが、火曜日に収容されてしまった。はやいね。

入管の収容というのは、何か積極的な意味があるわけではなく、滞在を認めるわけにも追い出すわけにもいかない人の存在をとりあえずしまっておくという、制度的な思考停止の一形態だ。わたしたちが処置に困った書類をひとまずしまい込んでおくのと一緒だ。

しかし、書類はほとんど、デジタル化すればなおさら、劣化しない。これに対し、人は年も取れば、病気もする。

ここにこの政府の思考停止の非現実性が現れている。

もっとも、人間を安全に冷凍保存できるテクノロジーが発達すれば、話は違うのだろうが……。

さて、このときの会議に、東大の1年生が3人、難民について調べているということで来てくれた。

会員にインタビューしたいというので、役員の一人が対応したのだが、後で彼女がいうには「面白かったですよ、わたしが1995年に日本に来たといったら、3人とも自分たちはまだ生まれていないっていうんですから」

それはともかく、3人の学生は、会議やインタビューを通じて難民の問題にはいろいろな切り口があるのに気がついたということで、これはとてもいいことだ。

とはいえ、そこに入管の収容とコールドスリープという切り口は含まれていないと信じたい。





増える難民、泣きの入管(4)

このような状況で、難民認定審査を担当する入管の部門ができることは限られている。難民認定申請者の増加に対応して人を増やすとか、態勢を整えるとかはもってのほかだ。いやたとえその気があったとしても、そう簡単には態勢は変えられない。

一番簡単ですぐにもできることは、申請者数を減らすことだ。そして、そのための策をすでに入国管理局は以下のように実践している。

1)難民認定申請書用紙を希望者に渡さない。

2)難民認定申請受付で厳しい対応をとり、申請者のやる気を殺ぐ。

3)すでに申請した者が申請を取り下げるようあらゆる機会を捉まえて「難民は認められないから無駄だ」「帰ったほうがいいんじゃない」と圧力をかける。

なんとも涙ぐましい努力ではないか。おお、あたかも難民認定申請担当部門一人が、世界中で荒れくるう独裁政権、戦乱、迫害、虐殺から続々と生まれ来る難民の大波に立ち向かっているかのようだ。ああ、いじらしき津波の民よ、今まさに飲み込まれんとす。もっと高台に難民政策を建てればよかったのだ……。

品川入管

2014/11/27

増える難民、泣きの入管(3)

この間、品川の入管に面会に行ったとき、面会の受付から出てきたばかりのフィリピン人の女性たちが、受付の女性職員にこんなことを聞いていた。

「あの、レフュジのビザのやり方教えてください」

「レフュジ?」

「あの子それしたら出られて仕事できるって言ってた。レフュジのやりかたです」

「はて? レフュジってなんだろう……?」

わたし(心の中で)「このおトボケさんたら!」

これはともかく、難民の事由に当てはまらないのに難民認定申請するのは、しばしば「難民申請の濫用」といわれ、あたかもけしからん外国人が難民を偽っているかのように報じられるもするが、実際にはそればかりではなく、日本の外国人の処遇に関する政策が不備であるというか、現状に即していないためだろう。

なんにせよその結果、難民認定申請者数が増大し、当の難民認定申請者たちと入管職員たちがそのとばっちりを食っているというわけだ。

品川入管

2014/11/26

ミンコーナインとコ・ジミー

明後日11月28日、88ジェネレーション学生指導者のミンコーナインさんらが来日する。どのような経緯で招聘されたのかは分からないが、大阪大学の先生が招聘主だというから、大学のプロジェクトか何かだろう。

BRSAを含む在日ビルマ難民政治団体も、この機会に対話集会を開くために、特別委員会を作り、話し合いを重ねてきた。

当初は、ミンコーナインさん、ココジーさん、コ・ジミー(チョウミンユー)さんの3人が来日する予定であったが、ビルマ国内の政治状況が緊迫しているため、ココジーさんは残ることになったという。

わたしはココジーさん、コ・ジミーさんには88ジェネレーションの事務所で会ったことがある。

さて、以下のスケジュールは主に特別委員会経由の情報で、間違っているところもあるかもしれないが、一応掲げよう。

《11月28日》 ミンコーナインさん来日。

成田空港にまで迎えに行きたい在日ビルマ人は、早朝5時に高田馬場より無料バスを手配してあるので、4時半に集合のこと。

《11月29日》 大阪大学で講演会。(リンク

演題:「ミャンマー(ビルマ)ー市民社会への希望」
日時:2014年11月29日(土)午後2時〜4時(1時半開場)
会場:大阪大学中之島センター10階 佐治敬三メモリアルホール
参加:無料。 
主催:大阪大学大学院国際公共政策研究科アジア平和構築ウェブ展開プロジェクト
後援:外務省 大阪大学大学院国際公共政策研究科

《12月2日》 コ・ジミーさん来日。

《12月6日》 
1)上智大学で上記2名の講演会。(リンク

日時:2014年12月6日(土)14:00-16:00
テーマ:「変わるビルマ、変わらないビルマ―市民の視線から」(仮題) 
会場:上智大学四ツ谷キャンパス 2号館5階 508号教室

2)在日ビルマ政治団体幹部との交流会(BRSAからも4名参加)。

《12月7日》
1)10:00ー14:00 在日ビルマ人対象の対話集会(池袋アカデミーホール) 入場無料
2)17:00ー20:00 懇親会(高田馬場のタイ料理、参加費1900円)

12月7日の講演会懇親会とも、誰でも参加可能だとのこと。

帰国についてわたしが聞いたのは、12月8日だということだ。

コ・ジミーさんと
(2013年2月14日、88ジェネレーションの事務所)

増える難民、泣きの入管(2)

先日、難民や外国人の法的支援に取り組んでいる弁護士に会ったとき、「入管はいま難民申請者数の激増に苦慮している」というようなことをおっしゃっていた。

ここ数年の申請者数の増え具合を見ていると確かにそうだ。

2011年 1,867人
2012年 2,545人
2013年 3,260人

これが預金残高だったらもう夢いっぱいだが、申請者数となると入管の人員にも限りがあるから、苦い顔をするのも分からないではない。

この増加の理由には二つ考えられる。

一つは、世界的に難民が増え、また国境を越えた移動もしやすくなっているため、必然的に日本に来る数も増えているためだ。

もう一つは日本国内の事情で、日本には、この国に留まりたい、留まらなくてはならない事情がある外国人がとりうる選択肢が非常に限られていて、そのうちもっとも容易なのが難民認定申請なのだ。

品川入管

2014/11/25

カチン州砲撃事件について(政府系報道)

11月19日お昼に起きたビルマ軍によるカチン軍士官学校砲撃だが、これについて、ビルマ情報省が発行する政府系の新聞「The Global New Light of Myanmar」が報じていることを、ビルマ情報にも通じておられるBI総研の大村哲さんから教えていただいた。

もともとは「The New Light of Myanmar」 という名前で、ビルマの「開国」にともない「Global」という冠をいただくようになったこの日刊紙の11月21日号の「大口径火器の警告弾によりカチン陣営に死傷者」という記事である。

それによると、カチン州に展開するビルマ軍は人員交代や道路建設などの際に、和平交渉中にも関わらずKIAから攻撃を受けることがたびたびあったそうで、

「旅行する地元民を警護したり、防衛拠点での人員交代や道路補修を行う際に、国防任務を離れるビルマ軍兵士を攻撃しないよう求めるビルマ軍の度重なる警告にも関わらず、部隊をコントロールできないKIAがその軍事行動を増長させていたため、ビルマ軍は自分の陣地から警告のために大口径の火器で砲撃し、それがKIAの陣地に着弾して死傷者を出した」

のだという。

事実関係についてはKIA側、ビルマ軍側のどちらが正しいか分からないが、KIAにとってはビルマ軍が「防衛拠点」なるものを自分の民族の土地に持っていること自体が問題なのだということには留意すべきで、実際記事の書き振りからはそうした問題が巧みに覆い隠されている。おそらく、カチン人ならばこの記事を次のように読むのではないだろうか。

「ビルマ民族の企業を警護したり、侵略拠点で人員交代や道路補修などの軍事行動を和平交渉中にも関わらず一方的に行うビルマ軍に対し、KIAはかねてから警告を発してきたが、これに対し、ビルマ軍は侵略拠点(カチン人の土地なのであるからビルマ軍の「陣地」などありえないという考え方だ)から突然、大口径の火器でKIAの陣地を砲撃し、多くの死傷者を出した」

それはともかく、「The Global New Light of Myanmar」のこの記事全文を読んでなんか思い出すなと思ったら、我が国の誇る保守論客、安倍さんの言葉遣いでした。自分に都合のいい中身のない言葉だけを語ると、どこの国でも似てくるのかもしれませんね。

タウンセインさんの収容理由

わたしが身元保証人をしているカレン人のタウンセインさんの収容について以前書いたが、他とは違う点がいくつかある。

難民認定申請者は、普通は難民が認められないということを通知されてから、収容されることが多いのだが、彼の場合は申請の結果がまだ出ていないにもかかわらず収容されることになった。

11月14日に面会に行ったら、彼は収容の理由について二つのことを入管にいわれたと告げた。

一つ目は、彼が仮放免許可延長のために提出した書類がコピーであるからダメだ、ということと、もう一つは、前回のブログでも触れたが、4年も仮放免で外にいたのだから十分だろう、ということだ。

初めの理由についていえば、彼が提出した仮放免期間延長申請書は確かにコピーであった。しかし、身元保証人のサインそのもの、つまりわたしの署名は本物であった。そこで、タウンセインさんは入管の職員にサインは本物だと主張したが、それは聞き入れられなかったという。

彼はその時提出したのと同じ紙をもう一枚持っていて、それにはやはりわたしの本物のサインが記してあるので、問題だったのは、申請書のコピーの使用ということになる。

そこで、わたしは仮放免延長の受付に行って、申請書のコピーを使ってもいいですかと尋ねたら、それはOKとのことだった。すなわち、タウンセインさんの言葉から判断する限り、入管は本物のサインを コピーと判断して、彼を収容したということになる。

さて次の理由として入管からいわれたという「4年もいれば十分」だが、もちろん、仮放免中の人を収容するしないの判断は入管が自由にできるので、4年というのは一つの基準かもしれないが、4年以上も仮放免延長されているの人が多くいる中で、どうもこの理由は説得力に欠けるように思う。

そういうわけで、いまのところ分からないことばかりだが、少なくとも入管はタウンセインさんが提出した申請書に疑いを抱いた時点で、身元保証人であるわたしに確認の連絡を入れるべきではなかったろうか。

駿河台大学での特別講義

11月18日火曜日、埼玉の駿河台大学で、国際政治学者の峯田史郎さんが講師を務める「NGO・NPO論」の講義のゲストとして招かれ、「多文化共生社会へ向けたNGO・NPOの役割、ビルマ・難民・民主化」というタイトルで、カチン民族難民の方と一緒に、日本のビルマ難民、カチン民族難民、BRSAの活動についてお話しました。

2012年に撮影したカチン戦争難民のビデオを上映したり、カチン民族の政治について話したのですが、やはり一番面白かったのは、ラシ・ボクセンさんがお話された難民としてのいろいろな経験で、学生たちも引き込まれていたように思います。

ビルマのこと、難民のこと、どこでも出張して話に行くので、みなさん、どうぞよろしくお願いいたします。



増える難民、泣きの入管(1)

仮放免中の人は、身元保証人のサインをもらって定期的に入国管理局に行って、仮放免期間延長許可を申請しなくてはならない。

この仮放免期間はこれまでは1ヶ月、3ヶ月、長いもので6ヶ月だが、ここ半年ほどの間に、3ヶ月、6ヶ月の仮放免期間が続いてきた多くのビルマ難民が、1ヶ月に短縮されたという話をよく聞くようになった。

BRSAの中にもそうした人が多く、みんな心配している。 BRSAの会議でも懸念を訴える人が出た。ビルマの状況が変わったために入管はビルマ難民に厳しくすることにしたのではないかとか、入管への収容、あるいは強制送還の先触れではないかとか。

しかし、わたしの印象からすると、入管が個別の国の状況に応じた対応をするとは考えにくい。また、入管は、国際条約である難民条約に基づく難民認定申請中の者をまとめてひっつかまえて送還するなどという大胆で派手なことは好まない。入管という国境では何事もひっそりとしていなくてはならないのだ。

品川入管

2014/11/21

ビルマ軍ライザ砲撃続報

11月19日お昼のビルマ軍によるカチン独立軍(KIA)士官学校攻撃の続報がThe Irrawaddy誌で報じられている(Burma Army Says Deadly Shelling of Rebels Was ‘Unintentional’)。

それによると、ビルマ軍は今回の攻撃が「意図せぬもの」であったと発表しているとのこと。

ビルマ軍の主張によれば、砲撃があった地点から70キロ離れた中国の芒市近くで道路建設を行っていた自軍をカチン軍(KIA)が攻撃したとし、それに警告を発するために砲撃を行ったのだという。そして、士官学校で訓練が行われていたことはまったく関知せず、狙って撃ったわけではないと。

ビルマ軍幹部が語るには「このたび人命が失われたことはとても残念だ。和平交渉に影響がないことを望む」ということで、これに対しKIA側は、砲撃に先立ってカチン軍がビルマ軍を攻撃したという主張を否定しつつ、

「ビルマ軍の嘘つき」

と語ったという。そりゃそうだ。

もちろんカチン側の主張を鵜呑みにできるわけではないが、ビルマ軍の「ごっめ〜ん、やっちゃった! じゃね!」感が強烈すぎる。

GET BACK

何度かビルマに行ったので、ビルマの友人に会うたびに「次いつ行きますか」とよく尋ねられる。それはいいのだが、中にはこんなふうに聞いてくる人もいる。

「今度はいつ帰りますか?」

わたしの故郷ではない。

日本語の間違いだろうが、この間こんなことがあった。

わたしの友人の友人が市議選に立候補することになり、手伝いを頼まれた。忙しくて結局何もできなかったので、最終日の街頭演説中の候補者に会いに行った。

わたしを紹介されると候補者は、白い手袋を外して右手を差し出した。日本では挨拶として握手するのは普通ではないが、 激励や応援の意を表す関係にある場合は珍しくない。わたしは彼のしぐさに応じて、自分の右手を差し出した。

無意識のうちに、左手を右腕のひじに添えて。

これはビルマの人々が物を渡したり、握手したりするときの敬意のしぐさだ。握手といえばビルマ人以外とする機会がないわたしなので、思わず出てしまったというわけだ。

帰ると言われるのも当然だ。

里帰りの図
(ヤンゴン空港に迎えに来てくれたネーミョージンさんと入国審査場の前で)

2014/11/20

Remember November 19

11月19日に起きたビルマ軍のカチン軍兵士に対する攻撃への衝撃と怒りがカチン人の間でかつてなく高まっている。

その理由についてはいくつか考えられる。

まず、これまでの攻撃に比べて死傷者がずっと多いこと。

停戦交渉中の攻撃であること。

カチン独立機構の本部のあるライザへの攻撃であること。

犠牲者が戦場にいる兵士ではなく、軍士官学校の兵士であったこと。

カチン独立軍の将来を担うカチン軍士官が一度に失われたこと、などなど。

こうした凄惨な状況は、カチン人にとってはもはや決定的すぎるほどに決定的な証拠なのだ。ビルマ軍がカチン独立機構と停戦する気などまったくなく、それどころか、 隙さえあれば自分たちを根絶やしにしようとしているということの。

それゆえ、今後の停戦交渉そのものが危うくなるかもしれない。もし、ビルマ軍がこの事件の性質についてとことん明らかにし、合理的な防止策を講じるのでなければ。しかし、たとえそうしようと思ってもビルマ軍にはその能力がそもそもないのではないかとわたしは思う。

さて、Facebookでは多くのカチン人が、今回の事件の犠牲者を追悼しビルマ軍の蛮行に対する怒りを表明するため、自分のプロフィール写真を変更している。

だいたい次の3パターンが入り交じっている感じだ。①黒で追悼の意を表す追悼タイプ、②カチン独立機構、カチン独立軍の旗を用いる支持表明タイプ、③事件の日時を掲げることでこれをカチンの記憶に刻みつける決意表明タイプ。①と②はすでにあった画像かもしれないが、③は明らかに事件以後に作成されたものだ。

以下に実例をいくつか掲げる。なお、交差する山刀はカチン民族の象徴だ。















オラ・ハンソン

オラ・ハンソン(Ola Hanson)というのはスウェーデン生まれのアメリカの宣教師で、カチン民族へのキリスト教伝道で知られる。

彼はまたカチン民族のためにカチン文字を考案し、聖書を翻訳したり、カチン語辞書を作ったりした。それで、カチン人たちは彼を自分たちの文化を引き上げてくれた大偉人として崇敬している。

この間、Facebookを見たら、いつの間に彼のページが作成されていたのだが、その肩書きが「ニュース司会者」となっている。何でだろうとそのことをFacebookに書いたら、ある方が英語ではNews Personalityとなっているから「News→Good News→福音」という繋がりではと指摘してくださった。おそらくそうに違いない。

ラパイ・センローさんの集会の後、カチンの友人たちとサイゼリヤに食事に行った。サイゼリヤのワインは何杯飲んでも二日酔いにならないと友人が保証したので、わたしたちはたらふく飲んだ。そして、その談話のさなかに、このFacebookの話題が出て、その友人の祖父の話になった。

宣教師の仕事のみならず、聖書の翻訳、カチン語辞書の編纂に忙しいオラ・ハンソンには、カチン人の秘書というか助手のような人がいて、それが友人の祖父だったのだという。

あるとき、オラ・ハンソンが、助手にこんなことを言った。

「あなた方、カチン人はどうしてありがとうと言わないのだね。感謝するときはちゃんと口に出して言わなくてはならない」

余計なことは口にしないカチン人の気風が 少々気に障ったのかもしれない。

これに対して助手は「わたしたちは口には出さないが心の中では感謝しているのです」と答えた。

そして、これをわたしに語る友人たちはこれぞカチンの心意気とばかりに、この助手の返答を喜んだのであり、言葉として出された気持ちより、胸の内に留め置かれた気持ちのほうが価値があるという、日本人にも見られる考え方は、今でもカチン人の中で強いようだ。

オラ・ハンソン(1864-1927)

ラーパイかラパイか

2013年にアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞したラパイ・センローさんだが、日本語ではラーパイ・センローと表記されることが多いようだ。

これはカチン文字の綴り「Lahpai Seng Raw」のLahpaiのhを、日本のローマ字表記式に長音記号とみてlah「ラー」と読んだためだろう。このやり方は例えば大山(Ohyama)と小山(Oyama)の区別には便利だが、カチンの綴りにはまったく関係がない。本当はLah・paiではなくLa・hpaiと区切るのが適当で、このhpはカチン文字では有気音のpを示すのに用いられている。

したがってあえてラーパイと延ばす必要はないわけで、ラパイと短くしたほう聞いた印象にも近い。

ところで、わたしが学生のころ、先輩たちが「キリスト」か「クリスト」どちらが正しいのか、延々と激論していたことがあって、わたしはそれを聞きながら、元のギリシア語の発音との対比においてはどちらも違うのだから 、こりゃキリストだけに救いようのない連中じゃわいと呆れたものだ。

だから、ラパイがラーパイより近いといっても、それはあくまでも程度の問題で、どちらも正確ではないし、結局のところ通じればよい。ただカチン文字にはカチン文字の仕組みがあるという当たり前のことを示してみたに過ぎない。


ラパイ・センローさん
(高田馬場、2014年11月16日)

ラパイ・センローさん

カチン人女性、ラパイ・センロー(Lahpai Seng Raw)さんはMetta Foundationというビルマ国内ではもっとも大きいといわれるNGOの所長を務めた人で、長年この団体を通じて行ってきた紛争地域や被災地への支援活動や復興活動が評価され、2013年にアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞した。

そのセンローさんが来日し、11月16日の夜、在日カチン人たちと対話集会を行った(高田馬場のリサイクルセンター)。

わたしもどうぞといわれたので行ったが、基本的にカチン語の集会なので内容はよく分からない。カチン民族難民への支援活動、2008年憲法のこと、ビルマの現状、来年の選挙についてなどの話があったようだ。

隣にいたカンダ・アウンリーさんが所々教えてくれたことによると、 次のような言葉があったとのこと。

「来年の選挙でアウンサンスーチーさんが大統領になれるかどうかばかりに関心が向けられているが、公正な選挙が実施されるか、そのように政府が変われるかどうかも重要だ」

「軍事政権の時代は、非ビルマ民族ばかりでなくビルマ民族も貧しかったが、今の政府では、中央の一部のビルマ民族が豊かになる一方、周辺の非ビルマ民族は貧しいまま取り残されている。現在の和平交渉がうまくいかなければ、この貧富の格差は100年200年と続くだろう」

後半の質疑応答の時間にアウンリーさんが通訳してくれるというので次のような質問をした。

「ビルマの若い人に対する教育を支援する場合に何が必要か。そして、教育支援の内容は民族ごとに異なるのか、異なるとしたらそれはどのような点においてか」

これについてのセンローさんの意見は、教育支援として重要なのはまず、教師の給料を支援すること、それから、教師がレベルアップできるような機会を提供すること、さらに教師が自分の担当する地域の民族の言語に通じていることが大事だというものだった。

要するに、いい先生がたくさんいて、自分の担当する子どもたちの状況をよく理解し、経済的な心配なく働くことができれば、教育の問題や民族ごとの問題などは解決できるというもので、非常に理にかなった見解だと思った。

センローさんの今回の来日は、カチン難民の状況を日本政府に訴えるという目的で日本側が準備したということで、この翌日には議員会館で講演が行われ、国会議員の出席もあったようだ。

逆上力でおなじみの安倍さんの解散宣言の後じゃなくってよかった。


ビルマ軍、カチン軍を攻撃

Facebookのカチン人の友人たちが、プロフィール写真をカチン独立軍の旗に変えたり、急に祈り出したり、カチン兵 のむごたらしい遺体の並ぶ写真が投稿されたりしたので、なにかが起きたなと思ったら、19日にビルマ軍がライザのカチン独立軍士官学校を砲撃したとのことだ。

さっそくThe Irrawaddy誌でも報じられて、記事によれば22人のカチン兵が死亡。15人が負傷し、ライザ総合病院に運ばれたそうだ。

カチン独立機構とビルマ政府の戦争は1962年に始まり、1994年に停戦が成立した。しかし、テインセイン政府発足後の2011年7月にビルマ軍の攻撃が一方的に再開され、両者は再び交戦状態に入った。現在は停戦交渉が進められているが、その一方でビルマ軍の攻撃は散発的に続き、なかでも今回の攻撃の被害はとても大きいものだ。

The Irrawaddy誌によれば、ビルマ軍北部司令部はこの事件については「十分把握していない」といっているそうで、いまのところはこの事件の性質も、また今後の和平交渉への影響もはっきりとはわからない。

少なくともはっきりしているのはカチン人は非常に衝撃をもって事態を受け取っているということで、これは今後の和平交渉をさらに難しくするかもしれない。そして、和平の達成が長引けば長引くほど、ビルマ政府は他の非ビルマ民族との和平交渉をまとめる機会を失なうことになるだろう。そして、それは国内の更なる不安定化を招くのだ。

2014/11/19

タン塩定食

引き続き、ビルマ(ミャンマー)と日本を舞台にした難民の家族の映画、『Passage of Life』の撮影の話。

ガヤの録音の後しばらくして、昼飯時のシーンの撮影に入った。

監督がカメラマンと相談しながら撮影プランを練っている。

エキストラはいくつかの卓に別れて座らされるが、なにかの都合で入れ替えられたりする。わたしと藤由さんの座っているところは入り口に近い窓際の小上がりで、はじっこのほうだ。おそらくあまり映らないに違いないと油断していたら、 監督がわたしたちの席に注文する役をあてがった。

藤由さんがカツ定食、わたしがタン塩定食を頼む役だ。つまりセリフもある。

ここで思い出されるのが、映画『ブレードランナー』のラストシーンでレプリカントのロイ・バッティが発するセリフに関する有名なエピソードだ。

もともとは別のセリフが用意されていたのだが、バッティ役のルトガー・ハウアーが準備したアドリブが採用されたのだという。

これが今では屈指の名ゼリフとして映画史に燦然と輝いている。

となると、わたしのアドリブが同様の運命をたどる可能性だって十分にあるといわねばなるまい。さあ演技開眼だ。

ただ、問題は「タン塩定食ください」にどれだけアドリブの余地があるか、だ。

結論から言えば、なかった。すぐに目は閉じられた。

打ち合わせする藤元監督たち。















《アウトテイク》

監督「本番!」

わたし「タン塩……定食……くっ、くださ……(ガクリと絶命)」

監督「こいつの命脈をカット!」

2014/11/16

リアリズム演出

ビルマ(ミャンマー)と日本を舞台にした難民の家族の映画、『Passage of Life』の撮影で、エキストラとして集められたのはわたしばかりでなく、コーチングの藤由達蔵さん、前回のBRSAの集いでシャンの政治について話してくれた峯田史郎さんなど約8名。みんな専門の役者ではなく、この映画とどこかで接点を持つ普通の人々だ。

実際、映画ではプロの役者は日本人の主要な役のみに限られている。ビルマ難民の主人公家族も、それ以外の役も基本的に素人だ。演技未経験者を使うことでリアリティを生み出す狙いがあるとのことで、リアリズム演出の一手法だろう。

さて、撮影現場は王子駅前の大衆割烹「半平」、集合時間は朝の7時半。

昼食時のサラリーマンなので背広できてほしい、と担当の方は言っていたが、少々面倒くさかったし、出演者の來河侑希さんも何でもいいと言ってたので、普段着で行った。しかし、わたし以外のエキストラの人はみんなスーツ姿だった。

サラリーマンでなくても昼飯を食べる。エキストラから監督にひとつリアリズム演出の提案をしたというわけだ。

撮影はすぐに始まったが、まずは調理場のシーンからで、エキストラは関係ない。わたしたちの出番がやってきたころにはもう10時半になっていた。

監督の指図に従ってばらばらにテーブルに座る。わたしは端っこの小上がりに藤由さんと差し向いで座った。

まずガヤの録音をするという。ガヤというのは、音の情景みたいなもので、昼の食堂のガヤガヤした感じ出してほしいと言われる。

わたしは藤由さんと適当に会話を始めるが、どういうわけか、藤由さんが新興宗教教団の総務でわたしが木魚の営業ということになった。

総務「ウチの教団は来年立教25周年でね」

営業「ではぜひその機会に特別な木魚を! せんだってわたしどもはとあるお客様に5メートルの木魚を納品いたしました」

総務「なんと5メートル!」

営業「半径がですよ!」

リアリズム演出が台無しだ。

撮影風景。
奥で襟元を直してもらっているのが主役のアイセさん。

2014/11/15

エキストラ

ビルマ(ミャンマー)と日本を舞台にした難民の家族の映画、『Passage of Life』の撮影が11月7日からはじまった。2週間ばかりのうちに日本での撮影部分を終え、それからビルマ国内での撮影になるという。

11月10日は、王子駅前の大衆割烹「半平」 で主人公のビルマ難民が働くシーンなどが撮影された。調理場で板前が慣れない仕事にてこずる主人公を怒鳴りつける。その板前の役は津田寛治さんが演じた。

そして、このわたしもまた、エキストラとして撮影に加わらせてもらった。そのいきさつを説明するのはひどく難しいが、簡単に言えば、アメリカの女優、アンジェリーナ・ジョリーが難民支援活動に精を出したせいで、演劇界と難民支援界との間で保たれてきた絶妙なバランスが崩壊し、この危機を食い止めようとしたある謎めいた力がわたしを演技の世界へと召喚したということだろう。

あるんですね、そういうことが。


監督の藤元明緒さん。

2014/11/14

衝突

11月9日の夕方は大井町で在日チン民族協会(CNC-Japan)の総会と選挙があったのだが、実は同時刻に駒込で海外カレン機構(日本)(OKO-Japan)の総会も行われていた。

わたしはOKO-Japanの会員だからこっちにも出席しなくてはならない。

スケジュールがぶつかっていることは前々から分かっており、調整しなくてはならなかったが、ぼやぼやしているうちに9日となってしまった。

慌てて昼ごろにCNC-Japanの会長のニンザルンさんに電話する。

「もう一つ別のミーティングと重なってしまったので、そっちの方を先に出て、CNCの方は一時間遅れで行ってもいいでしょうか」

はじめはニンザルンさんも仕方がないという感じだったが、もう一方の用事が同じビルマの人の会議だと知ると「先にCNC総会に来てください」と言い出した。

ビルマの人々が時間通りに物事を始めるわけないのだから、一時間遅れでは済まないだろうと、経験豊富なニンザルンさんは判断したのだ。

それで、わたしはCNCの方に先に出て、45分ばかりいて、それから駒込に向かうという計画を立てた。

もちろん、その通りにはならなかった。CNC-Japanの総会はほぼ時間通りに始まったが、わたしが大井町を出たのは1時間半後となったのだった。

駒込に着いたときにはすべて終わっていた。カレン人たちは帰るところだった。せっかくなのでそのままみんなと一緒に大塚のVANDAに行ってご飯を食べた。

店のテレビを見ていると、フィギュア・スケートの羽生結弦選手の姿が映し出された。前日の中国での国際大会で、別の 選手と衝突するというアクシデントに見舞われた彼は、不屈の精神でリンクに立ち、死力を振り絞って舞ったのであった。その姿には、日本人ばかりでなく中国の人々もまた心を動かされたという。

そして、まさしくその翌日、チンとカレンの総会が激しく衝突し、その衝撃の中から不死鳥のごとく立ち上がった男がいたということを、羽生結弦選手の活躍とともに覚えていてほしい。

 VANDAのトムヤムチャーハン。おいしい。

VANDA店内に掲げられたカレン民族の旗。

2014/11/13

難民申請ノー・リターン

ある日本人が今週の木曜日か金曜日に入管に行き、仮放免許可延長手続きの取材をしたいというので、わたしはFacebookのBRSAページに次のように書き込んだ。

「今週の木曜日と金曜日に仮放免許可延長する人いませんか? お願いがあります。」

詳しい内容を書かなかったために、何人かの仮放免中の人を不安にさせてしまったのはわたしのミスだったが、それはともかく、この投稿に対してわたしが身元保証人をしているある会員が次のようにコメントしてくれた。

「わたしは水曜日に延長する予定です。戻って来られるかどうかは未定です(笑)」

見事な脚韻はさておくとしても、わたしはこれを読んで、「戻れないかもしれない」と思いながら入管に出頭するのはどんな気持ちだろうかと考え込まずにはいられなかった。

ビルマに限らず多くの難民認定申請者の多くは、収容の不安を抱えて日々暮らしている。

収容が非人道的なのは明らかだが、収容を 恐れながら外で暮らすこともまた非人道的だと思う。

さて、このコメント主であるが、その水曜日、無事に延長されたことを電話で伝えてきた。

しかし、来月にも同じ手続きのため出頭しなくてはならない。次は「戻れ」ないかもしれない、そんな不安に明け暮れる一ヶ月が始まったのだ。

品川入管。収容場は8階から上。

2014/11/11

在日チン民族協会総会

在日チン民族協会(CNC-Japan)の総会と役員選挙、在日チン女性機構(CWO-Japan)の役員選挙が、11月9日午後6時から大井町きゅりあんで開催された。

わたしは今年も選挙委員としてお呼びがかかり、役員選挙の運営、投票用紙の配布回収、集計、結果発表を一手に引き受けた。

もっとも、投票の回数は2回(CNC-JapanとCWO-Japanの各会長)、投票者は最大22人なので、エバるほどのものではない。

選挙の結果は次の通り。

CNC-Japan会長 DAW NING ZA LUNさん(前)
CWO-Japan会長 DAW NGUN THANさん(前)

選挙の後にも会議があり、おそらく来年度の役員体制などが決められたと思うが、わたしは残念ながら途中で退席せざるをえなかった。

その理由は次回の投稿で明かされるであろう。

 投票用紙

 総会の様子

来年度もCNC-Japan会長を務めることになった DAW NING ZA LUN会長挨拶

 来年度もCWO-Japan会長を務めることになった DAW NGUN THAN会長挨拶

 CNC-Japan集合写真

CWO-Japan集合写真

プログラム