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2014/12/07

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(最終回)

わたしたちはココジーとミンゼヤーに感謝をして別れる。会議室のある二階から下に降りると相変わらず人でにぎわっている。広間に置かれた大きなテーブルでは、若い人たちが食事をしている。もう昼時だ。豚肉の料理、鶏肉の料理、魚のぶつ切りの料理。そのそれぞれを自分の皿のご飯に乗っけてスプーンで混ぜて食べる。さあさあ! どうぞ! わたしも招かれる。なんかお祝いみたいだ。ネーミョージンはどこかで誰かと話をしている。わたしはテーブルの端に座る。目の前にご飯が盛られた皿が置かれる。ええ、遠慮なんかしませんよ! がつがつ食い始める。もう夢中だ! すると、わたしより少し上ぐらいの男がやってきて隣に座る。いろいろ話しかけてくる。言っちゃ悪いが、わたしは食事中に話しかけられるのは好きじゃない。集中だ! しかし、彼はわたしの来訪をとても喜んでる。ガピという臭いのキツい塩辛調味料を掬ってひとかけするともっと喜ぶ。名前をコ・ジミーと言う。「今日はわたしの誕生日です! だからこうやってみんなにお昼を振る舞ってお祝いしているのです」 へえ! それはごちそうさま! だからこんな賑やかなんだ。で、彼はホストとしてもてなしてくれてるわけだ。ジミーは黒い服を着た女性を指す。「あれはわたしの妻です」 彼女は奥の方から食べ物を運んだり、客に話しかけたりしてる。「わたしたちは二人とも刑務所にいました」 ああ、ここにもまた元囚人が! 二人ともココジーと一緒に六十五年の刑を宣告され、まだ赤ん坊の娘と引き離されて夫婦一緒に投獄されたのだ。離ればなれの刑務所の中、顔を見ることも、声を聞くこともできない中で、二人はいったいどのように愛し合い、抱き合ったのだろうか?

(おしまい)

コ・ジミーと。

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

2014/12/06

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(12)

それはともかく、みんなとてつもない代償を支払ってるんだ。ビルマ国内のあらゆる刑務所で、日本の入国管理局で、タイ・ビルマ国境の難民キャンプで、インド、マレーシア、シンガポールの難民コミュニティで、あらゆる人々が、大人も子どもも命をすり減らしてきた。何百万もの命が活路もなくどぶに流れ込むばかり。たいした犠牲だ。わたしはこの犠牲に耐えられん! どうしてそんなことがあり得るのか不思議で堪らない! で、わたしはあの十八年モノにしつこく尋ねるわけだ。どうやったら、この命の浪費を耐えることができるのかと? どうやって希望を? ココジーに最後の質問だ。「簡単にいえば三つのポイントがある」 ありがたいことに、あらかじめ整理してあった! 「ひとつは政治的な信念。われわれは自分が国のためにした活動を決して後悔しなかった。自分が正しいことをしていると信じていたのだ。後悔しないというのが大切だ。二つ目はユーモアのセンス。われわれは自分たちが直面している困難、日々の問題をジョークにしたものだ。そして最後は、宗教。われわれの大部分は仏教徒なので、仏教的な観点、仏教思想から事態を捉えようとしたんだ。結局、自分の牢獄を作るのは自分なのだ。人間は母の子宮から生れる。これは牢獄みたいに狭い場所だ。手足を十分に伸ばすこともできない。いっぽう、われわれの監房は八フィート(二メートル五〇センチ)掛ける八フィート、これはまったく十分な広さだ。ならば、牢獄の生活をどうして恐れることがあろう? それに誰もがいつかは死ぬ。われわれはすでに死刑を宣告されているのだ。刑務所も刑罰も恐るるに足らない、正しいことをしているのならばね。これが、獄中生活を生き抜くためにわれわれ自身が得たインスピレーションだ」

事務所の一階で食事中。

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(11)

あるカチン人の女の子がいた。親かなんかが、カチン人の武装組織、カチン独立軍(KIA)の関係者で、それで自分も命が危ないってんで日本に逃げてきた。当時二十才ぐらい。しかし、成田で上陸を拒否された。で、そのまま、茨城県牛久の東日本入国管理センターに送られた。その子には日本に親戚がいて、その人がわたしに身元保証人を頼んできた。そのカチン人はわたしの恩人みたいなもんだ断れない。面会に行くと精神的に参っている様子。そりゃこんな仕打ちを受ければ誰だってそうなる。で、言うことがおかしい。彼女はもちろん女性が収容されるブロックの房にいて、他に中国やらフィリピンやら他の女性もいたのだが、その部屋のテレビの後ろで女がひとり首を吊っているのを見たのだと。わたしと一緒に面会に行ったカチン人の女性は言った。「そんな幻覚を見るまで追いつめられてるんだ!」 それで、わたしは仮放免申請をする。幸いにもすぐ出られた……だが、彼女が見たのは本当はなんだったのだろう? 単なる幻覚なのか? いや……もしかしたら……ひょっとして……その房で以前本当に首吊り自殺した女がいて……入管職員がその遺体を片付け忘れただけでは?

お後がよろしいようで!

ココジーにインタビュー中。

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

2014/12/05

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(10)

しかし、元囚人の数に掛けちゃ、日本だって、少なくともわたしの周りじゃ、負けちゃいない。いやはやわたしのグループときたら、ほとんどが入管に長いこと収容されてた。少なくとも八ヶ月、長くて一年半。ま、わたしが入管に行きだした二〇〇三年頃には二年、三年閉じ込められてるのなんてザラだった。入管の収容所ってのは、強制退去命令が出た外国人が、日本から放り出されるまでの間、留め置かれるところだ。国に帰ろうってヤツはいい。しかし、そうもいかないヤツだってたくさんいる。難民とか、日本で結婚した人とか、病気だとか、いろいろだ。そうした人々は、いつまでもいつまでも入管の中で待ち続けるんだ。日本政府が諦めるか、それとも誰かが身元保証人して外に出してくれるまで。ビルマの人が帰れない理由はいろいろだ。一九八八年のデモに参加したとか、最近じゃサフラン革命でやらかしたとか、親が反政府運動の大物で家族ごと狙われているとか、何にもしていないけれど民族ごと抹殺されそうだからとか。なんにせよそれらは大抵日本政府に認められない。さあ、さっさと帰りなさい! で、収容される。頑として帰らない。帰国して刑務所に入れられるぐらいなら、殺されるぐらいなら、入管の方がましなのだ。だが、刑務所のほうにもいい点がある。なんてったって刑期がある。お勤めっちゅうくらいだから勤労者の一種だ。しかし、入管の収容所にはそんなものなどない。あるのはただただ命の浪費だ。いつ出られるかも分からない。いつむりやり飛行機に乗せられて送り返されるか分からない。そんな不安と恐怖の中で、ひたすら命をすり減らしていくだけの毎日だ。青春を壮年時代を働き盛りを溶かしていくただそれだけの。これは苦しい。まず足にガタが来る。出歩けないから、弱って来るんだ。持病を持ってるヤツはどんどん悪くする。歯がぼろぼろになり目が弱ってくる。喘息、湿疹、腫れ、痒み、至るところで反乱だ。便秘! 不眠! 射精するとあそこが痛くなる! 酷い痔! おお、入管の収容所じゃ痔は特別だ。便器は血まみれ、布団は血の染み! 俺の知ってるシャン人はあまりに苦しさにのたうち回った。自殺してやると喚いた! 周りだって一緒にいたくない。収容所内の鼻つまみだ。こうなると仮放免申請すると早い! 入管も早く追い出したがってるから。しかしほんとに死んでしまうヤツだっている。くも膜下出血でロヒンギャの難民が死んだばかりだ。入管職員に暴行されて死ぬのんだって。それと、鬱状態の自殺も。

88ジェネレーション事務所の入り口

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(9)

で、その翌日、わたしはネーミョージンたちと一緒に、エーヤーワディ・デルタのパンタノウ郡のインマー村にいた。路肩に止めたトラックの荷台から村人たちが次々と雑誌や新聞紙の束を運び出してる。村に図書館を作ろうと計画してて、そのためにヤンゴンから積んできたんだ。この日こっちに来たのは、わたしを除けば、ネーミョージンとコ・トージン、そして三十才ぐらいの若い男。名前は忘れちまったが、彼も政治活動家だ。国民民主連盟解放区、つまり国外のNLD支部とコンタクトを取った罪で、まず七年間投獄された。それから今度は政治的な文書を書いたかという罪で死刑宣告。こいつが執行される前に二〇一二年にネーミョージンらと一緒に恩赦で釈放された。無口でいつもニコニコしてる……死と隣り合わせに生きてきたんだ。まったく昨日から俺は何人の元囚人と出会ったのかね。

書物の山はというと、村の集会所みたいなところに運び込まれる。わたしたちがそこに行くと、薄暗い会堂の中で待っていた村人たちがネーミョージンを取り囲む。彼は村の支援者やリーダーたちと言葉を交わし、図書館プロジェクトと教育の重要性について短く演説する。この村はカレン人が多い。わたしはビデオの撮影。村のリーダーのひとりに話を聞く。コ・トージンが通訳してくれる。ソウ・ジュンタンというカレン人で、村を代表して「本当にありがとう!」だって。いやいやわたしが持ってきたわけじゃあないって! と人々の中からひとりの老人がヨロヨロとわたしのところに近づいてくる。で、少しためらったのち思い切ってわたしに話しかける。「おお、日本人よ、支援してくれてありがとう!」 だから、わたしじゃないの! しかしご老体、おかまいなしだ。「わしの名前はタウンセインじゃ! わしは一九六四年一〇月一日から一九七三年四月二〇日まで八年六ヶ月十二日刑務所にいたのじゃ! そのうち三年はココ島じゃ!」 おお、あなたは、あの絶海の孤島、ココ島モルト・ウィスキー! 難攻不落の蒸留所! 「終身刑だけが入るところだ!」とネーミョージンが付け加える。「学生時代と公務員時代に政治活動をしたせいで投獄されたのじゃ! ココ島ではな、わしらは五十三日のハンストをした! その戦いで八人もの仲間が命を失ったのじゃ!」 やれやれ、わたしは明るい外に出ながら呟いた、どこもかしこも元囚人だ!

ネーミョージン
(88ジェネレーション事務所で)

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

2014/12/04

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(8)

「釈放については、実際には予想していたよ。二〇〇七年に再び逮捕されたとき、憲法制定のための国民会議が開催されていたのだが、われわれはある筋から情報を得ていたのだ。軍は民主化のための七段階ロードマップに則り、二〇〇八年には国民会議を完了するだろうと。そして国民の意思に関わらず憲法を制定し、二〇一〇年頃に総選挙を行い、ほとんどの議席を手に入れる予定だと。情報は、その後、彼らは政治囚を釈放しなくてはならなくなる状況にも触れていた。われわれはこれは二〇一〇年に起きると予想していた。実際には二〇一二年になってからだったがね。だが、釈放自体についていえば、これは前もっては知らされていなかった。その日に当局がやって来て、われわれに告げたのだ。これから釈放するぞ、と……」

もしかしたら長い長い獄中での青春時代に対する感慨に捉われたのかもしれない、彼はふと付け加える。「その二十四年前、われわれはみな学生だった。ミンゼヤーは法学部の最終学年で、わたしは国際関係学部の最終学年だった……」 すると「今もまだ学生だ!」とミンゼヤーが豪快に笑った。

BRSAからの寄付の領収書をもらう。

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(7)

わたしはここでインタビューを中断してココジーとミンゼヤーの二人に日本のビルマ人に向けた短いメッセージをお願いする。カメラに向かって一人一人が話してくれる。感謝と励ましを述べるココジーの口元をよく見てみりゃ、歯が悪そうだ。刑務所で歯をやられる人もいる。日本の入管に収容されているビルマ人の歯だってすぐやせ細っちまう……。ミンゼヤーは、さらなる支援を呼びかける。彼はココジーとは異なり、がっしりしてる。腕も太い。イラワディ誌が報じるところによれば、彼は二〇〇八年一一月一一日にインセインの法廷で刑を宣告された時、「たったの六十五年かよ!」と答えたそうだ(二〇〇八年一一月一一日付けの記事)。いいツッコミだ。

わたしは二人を見ながら尋ねる。「刑務所内では二人は連絡できたのですか?」

ココジーが答える。「それぞれバラバラに収監されていたので、簡単には連絡は取れなかった。家族とは当局の許可があれば連絡を取ることもできたがね」

刑務所での生活と釈放の日については、イラワディ誌が彼にインタビューした記事がある(二〇一二年一月二二日付け)。それによれば、新聞はひと月遅れで、家族の訪問は許されない、はじめは一人で房にいたが、やがて五人まで増えたものの、最後にはまた一人になったとある。獄中で読んだ本として挙げたのはバラク・オバマの"The Audacy of Hope"と"Dream of My Father"で、そのプラグマティックな政治観に感銘を受けたと。釈放後、シャン州から飛行機でヤンゴンまで連れて行かれた彼はヤンゴン空港で彼を出迎えるジャーナリストとメディアに驚き、報道の解放を実感したという。

そう、釈放のことも尋ねなくっちゃ。

インタビュー風景。手前はネーミョージン。

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

2014/12/03

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(6)

「そんなにも長い投獄を生き抜く苦労は並大抵のものじゃあないと思いますが、実際どのように凌いだのですか?」

「獄中の十八年のことを話すのはたっぷりと時間が必要だ。ハハハハ!」

政治囚ジョークだ。

「まあ、短く言えば、わたしたちは一日また一日と日を数えただけだ。わかるだろう?」

たっ例えば、刑務所の壁に爪でバツ印をいくつも付けるとか? そう聞きたい気持ちを抑えて、もう少し刑務所の中のことについて聞く。

「もっとも厳しいのは尋問の時期だ。刑務所に入る前のね」 伝えられるところではココジーも拷問されてる。「刑務所では日々の問題を解決していくことが必要だ。当局との問題を処理し、政治囚をまとめ、時には犯罪者とのトラブルを片付けなくてはならない。犯罪者の中にはとても乱暴で残忍な者もいるからね。しかし、なんにせよこれはナマの体験だった。さまざまに異なる人々とどのように関わるか、という。これはひとつの経験だ。当局と渡り合い、ともに生きるための交渉の技術のね」

「刑務所の中で社会を学んだ、というわけですね」 インタビューの名手のわたしならではの間の抜けたコメントだ。

「ほとんどは人間の心理学だね。同じ房の者との人間関係のね。ときには独房に入れられて孤独になるが、ときには二〜三人と同じ監房で暮らさざるをえない。それで、互いに忍耐強くなる。誰もが不満を抱えるし、動揺するし、鬱状態になるときもある。だから、お互いに励ましあう。お互いに楽しもうとする。こういう状況ではね……」

事務所に飾ってあった肖像

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(5)

一九八八年のビルマを覆い尽くした民主化要求運動は、独裁者ネウィンを権力の座から引き摺り下ろしたものの、最終的には九月一八日のビルマ軍のクーデターを引き起こすまでに過熱する。その結果、多くの活動家、デモ参加者、協力者が迫害され、運悪く殺されたり行方不明になっていなければ、逮捕・投獄か国外逃亡という運命を辿った。88ジェネレーションと呼ばれ、運動の中心を担った学生指導者たちも同様で、次々と逮捕され禁固刑を受けることとなった。ココジーもこのとき逮捕された活動家のひとりで、投獄されたのが一九九一年、彼が生まれたのが一九六一年一二月八日だから、三十才そこそこだ。そして刑期を終えて外に出てきたのが二〇〇五年、四十代半ばのこと。同じ頃、ミンコーナインらの「元」学生活動家たちも相次いでお勤めご苦労さんで、てのも、逮捕された時期も、刑もほぼ一緒だったからだが、それはともかくこれら出所したばかりの活動家たちが二〇〇五年に結成したのが、88ジェネレーション学生グループだ。爾来非合法で政治活動を続けて来たわけだが、ここにもう一波乱あって、それは例の二〇〇七年の「サフラン革命」だ。仏僧たちとともに抗議活動に参加した結果、八月に約四十人の88ジェネレーションの活動家が逮捕されてしまうのだ。そのうち、ミンコーナイン、ココジー、ミンゼヤー、コ・ジミーらの十四人の主要な活動家は、二〇〇八年一一月一一日午後、約六十五年の刑を非公開のインセイン特別法廷で宣告される。で、その後、ココジーはシャン州のモンサイ刑務所に送られ、二〇一二年一月の大統領恩赦で釈放されるネーミョージンら約六百名の政治囚のひとりとなるまでの三年ちょっとをそこで過ごすことになる。最初の投獄が十四年で、次のカスクが四年、かくしてあわせて十八年のダブル・カスクの完成だ。

ココジー

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

2014/12/02

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(4)

ピース・アンド・オープン・ソサイエティ! 独立以来数々の戦争にまみれ、今まさにカチン人の土地で戦闘が行われているこのビルマで、そしていくつもの民族と宗教、さらには富裕層と貧困層とに分断されたビルマ社会で、平和と誰にでも開かれた社会を目指すだと? 面白い試みだ! もっともそう簡単じゃあないが……わたしは、いつからこのプロジェクトを始めたのか尋ねる。

「これは、われわれが釈放されてからすぐに始めた。二〇一二年一月一三日のことだ。この日、われわれのグループのすべてのリーダーが刑務所から釈放されたのだ」

じゃ、ネーミョージンといっしょってわけで!

「で、どれだけ刑務所にいたんです?」

「わたしは十八年。88ジェネレーションのリーダーのほとんどは少なくとも十年は入っているね。ミンゼヤーは十四年だ。われわれが下された最後の刑は電子取引法に基づくもので、これはまったく馬鹿げているよ。メール一通で十五年、四通で六十年だ。これに非合法団体で活動した罪で五年、法廷侮辱罪で六ヶ月、トータルで六十五年六ヶ月というわけだ。われわれみんな同じ刑だ。わたしの場合はその前の投獄では、まず国家非常事態法で二十年の刑、でなんとか終わりまで漕ぎ着けたと思ったら、釈放の日に国家防衛法で五年半追加されたよ。ミンゼヤーも他の仲間もみんな同じだ。われわれは青春時代を獄中で過ごしたのだ」

なんと十八年モノとは! バーミーズ・シングルモルトの名品、刑期少しもマッカラン! 堅牢な作りのカスクで熟成に熟成を重ねたというわけだ。わたしはすぐさま飛びついてその熟成の具合を確かめたくなった。だが、ちょっと待った。酒というものはその来歴を知ればもっと味わいが増すものだ。古谷三敏とファミリー企画の教えだ。ちょっと振り返ってみようじゃないか、その蕩尽された青春を! ……しかし、蕩尽されないでいる青春などあるもんだろうか?

ココジーとミンゼヤー

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(3)

「大統領自身も、国会の議長たちもしきりに変化を口にしている。経済的状況と政治社会的状況とが、彼らにそう自覚させたのだ、自分たちが変わらなくてはいけないということに」 ココジーは椅子の背もたれまで身を沈め、肘掛けに腕を休めている。のりの利いた白いYシャツとアラカン民族スタイルの濃緑のロンジー。そしてそれらの前で、色の濃いしっかりした手が言葉にあわせて時に思慮深く動いたり、組み合わさったり。精悍で引き締まった顔つきは、ビルマでも日本でもどこでもいいのだが、写真術の黎明期に撮られたアジア人の高潔な肖像にでもありそうだった。「だが、問題は、新しく変わっても、制度が旧態依然のまま、ということなのだ。これでは新しいシステム、より民主的なシステムは機能しない。われわれの国は一人、あるいは少人数のグループが命令し、人々はこれにつき従うというのが古くからの伝統だった。しかし、今や権力の分割が必要だ。確かにいくらか民主化されたかもしれないが、それには自由化もともなわなくてはならない。つまり、旧来からの制限の緩和だ。しかし、地方の政府はどのように変わればいいのか分からないのだ」 落ち着いた深みのある声……こういう渋い声はなかなか聞けるもんじゃあない。「さらに、賄賂と腐敗の問題もある。大統領は先だって反汚職委員会の結成を宣言したばかりだがね……要するに、われわれの国には取り組むべき課題がたくさんある、ということだ。われわれの国の将来について非常に楽観的な分析や論評をする人もいる。確かに軍事政権下になされた変化はわれわれだって評価しないわけではない。だが、同時にビルマには非常にたくさんの課題が、チャレンジがあるということにも関心を向けなくてはならない。そして、われわれがこれらを解決しあうためにはかなりの成熟が必要であることにも。われわれ、88ジェネレーションの学生たちはわれわれのコンセプトである『ピース・アンド・オープン・ソサイエティ』の実現に向けて国中で活動を始めている。ほとんどすべての州と管区で、われわれは国民たちをエンカレッジしている。恐れる必要はないこと、生まれながらの権利を持っていること、言論の自由、集会の自由があることなどについて語ることで、人々に自信とやる気を与えようとしている。そのおかげで、人々は以前より多少勇敢になったよ。土地の強奪や労働争議、地方政府の不正などに対して勇気を持って立ち向かうようになったのだ。しかし、問題は、ビルマにはすべての問題を解決するためのちゃんとしたメカニズムがない、ということだ。とはいえ、われわれはビルマのために着実に前進している。そして同時に不法行為や妨害行為を告発しつづけてもいる。だが、その一方で、政府当局と協力するための共通の地盤といったものも見い出さなねばならないのだ。とても混乱した時期だ。簡単にいえばこんなところだよ」

作業中。

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

2014/12/01

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(2)

わたしたちが通されたのは二階の奥の会議室で、大きな会議机の周りに椅子が並べられていた。しばらくするとココジーとミンゼヤーがやってくる。ココジー! ミンゼヤー! 一九八八年以来の民主化運動の勇士! ビルマの政治改革を思う人なら誰でも知っている著名人! しかし、なんてこった、わたしゃ知らなかった! これはなにもわたしが悪いんじゃない。彼らを支援するためにわたしを日本から派遣した人たちがなんにも教えてくれなんだ。あんまり有名すぎて誰でも知ってると思って。まあいいさ、変わった外国人の無作法など二人ともあんまり気にすまい。スーチーさんに会いにインヤー湖を泳いで横断した迷惑アメリカ人に比べれば、当たりの部類だよむしろ。ネーミョージンはといえば、二人とは旧知の間柄だ。この場をセッティングしてくれたのも彼だ。わたしは自分の団体について簡単に説明し、88ジェネレーションのために日本のメンバーから預かってきた寄付金、三〇万チャット(約三万円)を手渡す。もう他にするこたないが、少々お話を聞いちゃおうっか、せっかくだし! でココジーたちのほうはといえば「一一時三〇分に予定があるから少しだけ」 わたしは彼に今の政治状況について大急ぎで尋ねる。

事務所の様子

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

『アボーション・ロード』第7章 地の獄の囚人たち(1)

手紙にはニュースなんて書いてなくていい
あなたとの繋がりだけがあればいい
どれくらい刑務所の中にいるのか分からない
ここでは食べ物も、医療も十分でない
けれど、みんなにミンガラーバー
鉄格子の間からー
計り知れない悲しみと心労
外ではなにが起きているのだろう
懐かしき故郷の思い出
どうか、わたしを忘れないで
(「監獄の歌」作詞・歌唱 ネーミョージン)

二〇一三年二月一四日昼前、88ジェネレーション・ピース・アンド・オープン・ソサイエティの事務所、ネーミョージンと。それは二階建ての建物で、一階はだいたいホールと食堂、階段を上がれば会議室や事務室がいくつか。建物は水色、窓の枠は青、そして、もっとも著名なビルマの政治活動家たちが働くこの団体のマークが壁に。羽を広げた孔雀を正面から見た図だ。トゥミンガラー通りに面した鉄の門扉にもその簡略化された孔雀が、燃え盛る赤と萌えいずる緑で構成された円形の羽を誇らしげに開いていた。この門を入ると、建物を取り巻く広い空間が……おそらくヤンゴン東北部のティンガンジュン郡のこの辺りの土地にも、地価暴騰でぼろ儲けする連中がやがてむしゃぶりつくこったろう! だが、少なくとも今のところは、事務所入口の前に荷物を広げて作業したり、テントをしつらえて日陰でちょっとした仕事や打ち合わせをしたりすることもできるというわけだ。わたしたちがやってきたとき、ちょうど何人かが本を段ボール箱に詰めているところで、たぶんこの団体の刊行物かなんかとチラシ。かの有名な88ジェネレーションの活動家、ミンコーナインの顔が描かれてて。もっとも、彼はこのときヤンゴンの外にいて不在だった。事務所の入口には大きなデスクとホワイトボードが据えられてて、そこで人々が談笑してる。その横を通り過ぎ、大部屋に入る。たくさんのロンジー姿の人々がニコニコしながら出たり入ったりしてる。どういうわけかやけに華やいだ景色だ。


事務所の入り口

『アボーション・ロード』「第7章 地の獄の囚人たち」についてはまえがきを参照されたい。

2014/11/30

「アボーション・ロード」第7章 地の獄の囚人たち(まえがき)

2013年11月13日、ビルマの社会活動家ネーミョージンさんに同行して、エーヤーワディ・デルタにいたとき、彼が現地の警察に逮捕される場面に遭遇した。

その出来事をもとにわたしは10ヶ月ぐらいかけてひとつの物語に書いた。物語といっても、ほとんどの人が実名で出ているので、ノン・フィクションといってもいいが、わたしはフィクションのほうが好きなので、やはりフィクショナルな構成を取っている。

わたしはこれを出版したいと考えているが、いまのところその芽はない。

タイトルは『アボーション・ロード』といい、これはデルタの悪路の別名だ。全部で16章だが、長すぎるので半分以下に削った。

そして、その削除された一章が、88ジェネレーションの事務所訪問を書いた「第7章 地の獄の囚人たち」だ。

現在来日中のミンコーナインと一緒に来る予定だったココジーとのインタビューが一つの中心で、また12月2日に来日するというコ・ジミーも少しだけ登場する。

わざわざ出すほどのものかもしれないが、88ジェネレーションの活動家の来日という機会でもなければきっかけもなかろう。13回ほどに分割して掲載したいと思う。

ミンコーナインのちらし