2011/09/27

カヘキシー

『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』(秋田書店)が面白かったので、ブラック・ジャックを読み直しているが、ときおりカヘキシーという言葉が出てくる。

これは悪液質とも呼ばれ、癌などの病気による栄養失調を指す。漫画ではたいていこれは癌の末期状態だ。

以前、BRSAの集会をしたとき、ひとり、異様な参加者がやってきた。顔はどす黒く、皺だらけ。白目だけがぎらぎらしている。やせ細っているが、お腹だけはぽっこり出ている。一目で病気と分かる状態だが、かといって息も絶え絶えという感じではなく、むしろ落ち着きなく身体を動かしていた。わたしは見ていて非常に不安な心持ちになった。

お腹が膨れているのは腹水が溜まっているためで、ブラック・ジャックによればこれもカヘキシーの特徴の1つだ(もっとも、現代の医学でカヘキシーという言葉が使われているかどうかはわからない)。

それはともかく、なんとかしなくては、ということになった。彼は難民認定申請者で、医療を受けるとしたら全額自腹だ。とてもじゃないが、賄いきれる金額だとは思えない。どうしたかというと、結局難民申請を取りやめて、ビルマに帰った。そして、一ヶ月後に亡くなったという。

もし彼にビザがあり、日本で適切な治療を受けることができたなら、あるいは彼はそこまで病気を悪化させることはなかったかもしれない(いまごろ元気にデモにでも参加してたりして)。

あるいは、そもそもが治りようのない病気で、亡くなる前にせめて家族に再会できたことを喜ぶべきなのか。こればかりは誰にもわからない。

合戦は金曜日

アイドル戦国時代といわれる昨今であるが、御徒町にある我がビルマ・コンサーンの事務所は秋葉原のAKB48劇場と上野のハロプロ・ショップ上野店のちょうど中間に位置しており、まさに天下分け目の関ヶ原の様相を呈している。

そんな古戦場に先日、難民の両親を持つ大学受験生の男の子がちょっとした要件でやってきた。

それが済んだ後、わたしはこの若者にこんなことをいった。

「受験が終わったら、AKB48劇場にでもゆっくり遊びに行くがいいよ」

わたしはかねてから彼がAKB48のファンであることを知っていたのだ。すると彼が答えた。

「ここに来る前にちょっと見に行ってきました」

ちぇ、ちゃっかりしてら。受験がんばれよ!

2011/09/26

日本人に尊敬されるためには

以下は在日ビルマ難民たすけあいの会機関誌「セタナー」第4号(2011年8月8日発行)に掲載してもらったものです。 

難民審査において日本政府は申請者が難民であるかどうかを調べ、最終的に難民として認めるかどうかの結論を出すわけですが、その際に重要なのは、その申請者が難民となった理由だけではありません。もうひとつ大事な要素があるのです。

こういうと「難民かどうかを認定するときに、それ以外の要因を考慮に入れるのはおかしい!」と反発する人がいることでしょう。確かにその通りですが、現状は異なります。

もうひとつの要素とは、その申請者が日本社会でやっていけるかどうか、についての判断です。つまり入管は申請者が本当に難民であるか、ということとともに、本当に日本でやっていけるか、ということの二点を調べているのです。

わたしはこれは本当は正しいことではないと思っています。難民かどうかということと、日本社会に溶け込めるかどうかということはまったくの別物で、後者を難民審査に持ち込むのは誤りです。難民かどうかという問題は、申請者本人のみに関わることですが、その申請者が日本社会でやっていけるかどうかは、申請者のみの責任ではなく日本社会の責任も問われなくてはなりません。このまったく別のものが入管では一つの机で取り上げられてしまうのは、入管がそもそも難民を扱う役所ではなく、「日本社会を困らせる」外国人を管理するための機関だからです。

ですが現状ではこの2つの要因が日本の難民認定審査において重視されており、申請者はそのことを考慮に入れて審査に臨む必要があります。

「考慮に入れる」とは具体的にどうすることでしょうか。それはつまり申請者が審査において「自分は本当の難民であるばかりでなく、日本社会に害を与えないちゃんとした人間である」ことを示すことです。

いくら本当の難民であっても、審査する相手に対して粗暴な行動をしたり、軽蔑を剥き出しにしたり、日本人に対して敵意を示したりするような人に、入管が好意的な判断をするはずがないのです。

もちろん入管には問題がありますし、職員の中にもひどい対応をする人もいます。そのような対応に対してははっきりと抗議し、必要ならば怒るべきです。ですが、そのときでさえ相手の人間性に対する配慮を忘れてはなりません。そうした配慮があるかないかが、相手を敵と見るかそうでないかの分かれ目です。もしあなたが相手の人間性をないがしろにしたならば、そのとき入管の職員はあなたにとって敵になります。そして、それと同時に入管の職員もあなたを日本社会に対する敵だと見なし、日本での滞在にふさわしくない人物だと判断することでしょう。

ですが、だからといって、入管の職員の言いなりになれといっているのではありません。わたしが言いたいのは、誰であろうと崇めたり軽蔑したりせず、自分と対等の人間として敬意とともに扱うべきだという、ごくごく当たり前のことです。そして、これが重要なことなのですが、日本人はこうした態度を取る人を非常に評価するのです。

あなたが入管の職員や難民審査官に敬意を示したとしても、それがすぐに自分に跳ね返ってくるとはかぎりません。ですが、そのような態度の積み重ねなしには、いざというときに本当に敬意を表すべき人に敬意を表すことができないのも確かです。だから、入管での態度、とくに審査の時に態度には特に注意を払ってほしいと思うのです。

最後にもうひとつだけ、日本人に敬意をもって扱われるための秘訣をお教えしましょう。それは自分の間違いを認め、率直に謝ることです。ビルマの社会を観察して、みなさんが滅多に謝らないのにわたしはいつも驚かされます。自分の間違いを認めると全財産を奪われるかのようです。どんなに自分に非があっても、ビルマの人はそれを認めませんし、時には逆に怒り出す人もいます。これに対して日本人にとって謝ることはなんの恥でもありません。それどころか、率直にきちんと謝る人ほど高く評価されます。ですが、これは日本人がビルマ人に比べて高潔だからではありません。ただ日本人のほうがケチなだけです。なにしろ、謝るのにはまったくお金がかからないのですから!

セタナーの意味

以下は在日ビルマ難民たすけあいの会機関誌「セタナー」第4号(2011年8月8日発行)に掲載してもらったものです。 


セタナーはBRSAの機関誌で今号で第4号となりました。多くの方々が編集、タイピング、翻訳、原稿集め、印刷、配布に関わってくださっており、わたしたちは非常に感謝しています。
 

セタナーは、そのタイトルの通り、ビルマ難民の気持ちを表現する場としてはじまりました。そのため、多くの会員が詩や漫画、政治的記事を書いてくださっていますが、わたしたちは「まだまだ足りない、もっと多くの会員の声を聞きたい」といつも思っています。ですので、皆さんに原稿をどんどん送ってください、とお願いしたいのです。
 

しかし、そう言われても急にはなかなか難しいかと思います。なにか書きたいと思っても、題材が整理できなかったり、どのように書けばいいのかわからないこともあります。
 

日本人であるわたしにはよくわからないのですが、ビルマの文学には長い伝統があり、日本語のように気楽に文章を書くことはできない、という意見を聞いたこともあります。
 

また、そもそも言論の自由がないビルマでは日本人のようにだれでも自由に意見やアイディアを記す習慣がないため、普通の人が文章を発表するのは少し恥ずかしい、という気持ちもあるのかもしれません。
 

ですが、自分の意見を公表したり、あるいは他の人の意見をたくさん読んで考えたり感動したりするのは、これからのビルマの民主化を考える上で重要なことです。どんな人でもそれぞれ貴重な経験や素晴らしい考えを持っていますが、そうした意見をできる限り取り入れていくのでなければ、新しいビルマは生まれないでしょう。
 

わたしはセタナーをそのような役割を持つ場所として考えています。小さな雑誌ですが、ここからビルマの民主主義が生まれるような大きな可能性を持った場所だと考えています。ですので、セタナーに皆さんが協力してくださるのはとても重要なのです。
 

最後に、どんなものを書いたらいいか困っている人のために少しだけアイディアを記しておきます。あくまでもわたしの考えなので、ここに挙げたもの以外のものでももちろん歓迎です。いや、それどころか、新しいアイディアを出してくれる人がいたら、わたしは本当に感謝します。

・ビルマや日本についてのニュースをまとめたもの。
・スーチーさんなど有名な政治家の演説のまとめ。
・自分の政治的な考えを記したもの。
・みんなに聞いてほしい自分の考え(内容は何でもいいです)。
・ビルマや日本での体験談。入管に収容されているときに感じたこと。
・日本の難民政策について考えたこと。
・BRSAへの提案。
・詩や小説。ビルマ、日本、入管などをテーマにしたものでもいいですし、全然関係無くてもいいです。
・ジョークや小話。
・暇なときに読んで面白いもの。
・入管に収容されている人が励まされる話やアドバイス。
・漫画。政治や入管問題、日本社会をテーマにしたもの。あるいはただ単に笑えるもの。
・絵や写真などの芸術作品(カラーで印刷できるとは限りませんが)。

もし原稿ができたら、セタナーの編集委員かBRSAの役員にお渡しください。皆さんのご協力をお待ちしています。よろしくお願い申し上げます。

BRSA CUP開催に向けて

以下は在日ビルマ難民たすけあいの会機関誌「セタナー」第4号(2011年8月8日発行)に掲載してもらったものです。

わたしにはある提案がありますが、これを執行委員会で取り上げてもらおうとは思っていません。なぜなら、わたしはこれをBRSAの公式の活動にしようとは思っていないからです。公式であれば、会の会計からお金をもらうことも可能なのですが、これはそれほどの活動ではありませんし、実際たいしてお金もかかりません。ただ、わたしの提案を面白く持ってくれた会員が、一緒に協力してくれるのを期待しているだけです。

わたしはBRSAのような組織では、会員が気の合う仲間たちとそれぞれが好きな活動することも大事だと思っています。それは政治活動でもいいですし、出版活動でもいいです。それどころかもっと軟らかい活動も大事だと思っています。サッカーや卓球やフットサルのチームを作るのもいいです。釣りクラブを作ってもいいです。月1回、田舎で散歩してリフレッシュするのも大切です。自転車が好きならばサイクリングクラブも面白いでしょう。音楽を聴く会、映画を見る会、カラオケの会、バンド活動、いろいろなものが考えられます。

このように中央執行委員会に主導される形ではなく、会員の中から自発的に活動が生まれていくというスタイルは、ビルマの団体では珍しいことですが、日本の団体では当たり前のことです。というか、日本中で活動するほとんどの団体が、誰に強制されるでもなく、森に生えるキノコのように自然に生まれてきたのです。

ところがビルマではこうしたキノコは政府にとって危ない毒キノコとして扱われます。それゆえビルマでは自然に人が集って団体がはじまることはありません。必ず軍が上で支配したり、監視したりしています。そうしたわけなので、日本に暮らすビルマのみなさんにとって自発的に集まりを作るのは、日本人が考えるよりもはるかに難しいのです。

しかし、民主主義のビルマにおいてはこれが当たり前にならなくてはなりません。そのために日本にいる間にそうした活動を経験することも大事な民主化運動といえます。そこで、わたしはBRSAのなかでまずそうしたグループをひとつ作ることを提案したいと思います。

具体的にわたしが考えているのは、ビルマの人が大好きなサッカーです。BRSAのなかでサッカーチームを作るのです。そして、定期的に練習をし、他のビルマ団体のサッカーチームや、日本人のサッカーチームと対戦したり、日本のアマチュアの大会に出場したりするのです。あるいはBRSA CUPを開催しても面白いかもしれません。

活動に優劣は付けられませんが、政治集会や役員会よりもはるかに健康的なことは確かです。BRSAには「おじさん」が多いので、健康も政治と同じくらい重要です。

いつどのように開始するかは、これからみなさんと相談して決めていきたいのですが、一つだけ決まっていることがあります。それはこのわたしが監督を務めることです。ただし、わたしはサッカーのルールをまったく知らないので、もし他にふさわしい人がいれば、すぐに監督の地位をお渡しいたします。

難民はかっこいいか

以下の「難民はかっこいいか」は「平和の翼ジャーナル」に掲載してもらったものです。

何年か前、「難民ってかっこいい」を標語にして、日本に暮らす難民への気づきを訴えるイベントがあった。わたしはこのイベントに参加もしていないので、この標語の意図はわからないのだが、おそらく難民という言葉のもつ負のイメージを払拭し、新しい「難民」像を生み出すことを狙いとしていた、と考えるのが自然な解釈であろう。

その意図自体はよしとすべきなのかもしれないが、それでもわたしはこの標語はバカらしいと思わずにいられない。

理由は二つある。

まず、難民がかっこいいわけなどない。これらの人々が直面している苦しみ、悲しみ、悲惨にいったいどこにかっこいい要素があるのか。自分の故郷から命からがら&泣く泣く逃れてきた人々のどこがかっこいいというのか。土地も財産も家族も夢も希望も喜びも奪われた人がいったいどの地点でかっこよさと結びつきうるのか。もし本当に難民がかっこいいのなら、どうして日本人がみんな難民になろうとして行列を作らないのか。日本の若者がこぞって飛びつかないのか。

いや、そもそも難民を「かっこよい」という審美的な基準で判断できるのだろうか。わたしとてバカではないから、「難民のみんながイケメンであるはずがない」などと怒っているわけではない。標語でいう「かっこよさ」には例えば「生き方のかっこよさ」といった意味も含まれていることも承知している。そして、そのような難民の「かっこよい生き方」を日本社会にアピールしたいという発案者の気持ちもわかる。だが、かっこいい難民がいるのならば、かっこよくない難民もいるのも道理ではないか?

わたしは決して揚げ足取りをしているわけではない。

難民支援を行う人々の中には、自分が「助けている」難民が不道徳な振る舞いにおよぶと、露骨にがっかりする人がいる。その「支援者」にとっては難民はまるで聖人か賢者のようで、難民がそうしたイメージから外れるような利己主義を露わにすると、「支援者」の自分がまるで汚されたような気がするのである。つまり、このような「支援者」にはあたかも「良い難民」と「悪い難民」がいるかのようなのだ。

ついでにいえば、今回の大震災でも、同じような思考回路の人々が出現した。「被災者たちの心は美しい」とか「被災者の美徳」とかいうような連中だ。まるで津波が悪く醜い心の持ち主を根こそぎ押し流してしまったとでもいいたそうだ。だが、実際の津波はそのようなえり好みをしない。良い人間であろうと、悪い人間であろうと、社会的に価値ある人間であろうと、蔑まれた人間であろうと、等しく命を奪ったのである。

難民についても同じことがいえる。善良であろうとなかろうと、学があろうとなかろうと、見た目が良かろうと悪かろうと、悪しき権力はこれを全く考慮しない。ただ、ある政治信条、ある民族性、ある宗教、ある文化の構成員であるかどうかのレッテルのみが重要なのである。

だから難民を「かっこいい、善良、真面目、学がある、優秀」であると思い込むのは大きな間違いだ。難民にはその逆の性質を持つ者もたくさんいる。そうした個人の特質を超えて働くのが迫害のメカニズムなのである。だから、「支援者」が難民を美化するのは勝手だが、それは難民に託して自分の鬱憤を晴らしているだけのことであり、実際の難民とはなんの関係もない。

わたしの知る限り、難民にはだた2種類あるきりである。すでに殺された難民とまだ殺されていない難民の2種類が。そして、わたしたちが関わることができるのは後者の難民だけであり、このグループ内にはいかなる区別もなく、またあってもならない。善良だろうが凶悪だろうが、立派だろうが、間抜けだろうが、格好良かろうが、見苦しかろうか、まだ殺されていない難民である限りにおいて等しく命を守られる権利があるのだ。

こうした理由に加えて、わたしが「難民をかっこいい」とすることに反対する理由がもうひとつある。

ある人をかっこいいと呼ぶとき、そのように呼ぶ人はそのように呼ばれる人よりもひそかに優位に立つ。なぜなら、かっこいいかかっこわるいかを決めるのは、一つの権力であり、ある人をかっこいいと呼ぶ人はその権力を優先的一方的に行使しているからである。だから「難民ってかっこいい」と主張することは、実際には次のことを主張しているのと同義である。「かっこいいかどうかを決めるのはわたしたちであり、難民であるあなた方ではないのです」と。

難民と呼ばれる事象に付き合っていてつくづく思うのは、難民とは自分の運命を自分で決める力を奪われた人々、言い換えれば主体性を奪われた人々であるということだ。難民は自分で発信することが許されない。難民は常に見られている。計られ、記録され、描写され、尋ねられ、調べられる。難民はまるで名前を付けられるのを待っている品物のようだ。難民は自分の名前を自分で決めることができない。

だから、「難民ってかっこいい」と難民以外の連中がいうことは、難民を元気づけることとも、その地位を向上させることとも、まったく関係がない。それはむしろ難民の主体性をさらに奪い取ることだ。難民の客体化をさらに推し進め、名付けられる物として貶めることだ。

それはまた難民とそれ以外の人々との間に乗り越えられない壁を造ることであり、難民と難民ではない者との関係を固定化し、難民を永遠に二級市民の地位に突き落とすことだ。

自分は新品の服を着ているくせに、難民には古着だけしか着ることを認めず、そして、その古着を着ている難民に「素敵! お似合い!」とご満悦で声をかける人、「難民ってかっこいい」という人はまさにそんなような人なのだ。

2011/09/04

百年も孤独

先日、在日ビルマ難民たすけあいの会の集会があって、ビルマ難民の会員を前にタイ・ビルマ国境を訪問したときのビデオを上映させてもらった。

わたしの報告の前に、アムネスティの熊澤新さんが最近の難民認定申請の動向についてお話しをされた。

そのとき熊澤さんが会員からのある質問に答えて「ビルマが民主化されるには50年、いや100年かかるかもしれない」という発言をされた。

その後すぐにわたしの話す番だったので、わたしは「今回のテーマとは関係ありませんが」と前置きをして、 こんなことを言った。

「さきほど熊澤さんから、ビルマが民主化されるまで100年かかるかもしれない、というお話しがありました。ビルマの現状についてお詳しい熊澤さんのご意見ですから、これはこれで根拠があるのでしょう。

ですが、わたしはまた別の考えを持っています。わたしはむしろ逆で、ビルマが変わるのにあと10年もかからないのでは、と思っています。ま、いずれにしても予想ですから、どちらが正しいということはありません。

もちろん早く変わってくれたほうがよいですが、やはり100年かかるかもしれません。そこで、みなさんの気がかりは、この先日本にたとえば50年、100年いなければならないということになったら、自分、あるいは自分の子どもたちにどのような将来が待っているかということではないかと思います。

ですが、みなさん、心配はご無用です!

100年間このまま難民の波が途絶えず、そして同時に「日本人」の高齢化・少子化が続くのであれば、そのときには、東京の人口の半分ぐらいはビルマの人になっているにちがいないからです!」

みんな笑ってたけど、わたしは半分本気だ。

そのときにはTOKYOもTOKYAWと綴られるようになっていることだろう!

(ちなみにKYAW[チョウ]というのは、ビルマの男性の名前によく含まれている要素。)

2011/09/03

トーチョー・ポリス・ストーリー

在日ビルマ難民たすけあいの会機関誌「セタナー」第4号(2011年8月8日発行)に載せてもらった漫画(オリジナルは英語)。ショープロのアメコミよろしく注釈付きです。


*Panel 1 血痕からはじまる漫画といえば、もちろんアラン・ムーアの「WACTHMEN」。
*Panel 4 デモに参加しているビルマ人が吐いているのは、ビンロウの実などから作る嗜好品のカス(+唾液)。赤茶けた色をしているので、血と間違えたというわけ。ちなみにこれはわたしの実体験。