2014/12/26

マナウVSクリスマス

多くの在日カチン民族が通う早稲田の東京平和教会に、非常に絵の上手な教会員の方がいる。ビルマにいたときは絵の仕事をされていたということだが、その方がクリスマスのために描いた絵を、別のカチン人教会員の方がFacebookに投稿した。

みれば、ジンポー柄のロンジーに被り物、マナウ模様の縁取りの上着に、銀の飾りのカチンバッグをぶら下げて、プレゼント袋からのぞくは、男柱(おばしら)女柱(めばしら)のマナウ柱に民族刀、見事なサンタのカチンぶり。しかも袋の白ならぬ緑、サンタ服の赤と合わさって、これはまさしくカチン民族のシンボル・カラー。

クリスマスには少し遅いが、載せぬわけにはいかぬ。

2014/12/25

マナウの種類(5)

8)ニンタン・マナウ(Ninghtan Manau)
「わたしたちカチン民族は各地にドゥ(Du、貴族)がいます。例えばラパイ・ドゥ、マラン・ドゥ、ラトウ・ドゥと言うのがそれですが、その人たちが戦争が避けられないと悟ると、血縁関係にあるドゥを呼び、『わたしたちはこれこれと戦争をします』と宣言し、指揮官や参謀を決めます。出陣の前に行うのがこのマナウです。(マナウ・リーダー)」

また、これは開戦にさいして士気を高める目的もある(Traditionsp33)。

9)クムルン・マナウ(カチン文字表記不明)
「戦争の前には本当ならば、ニンタン・マナウを行うべきです。しかし、(2011年6月に)ビルマ政府が突然攻撃してきたため、ニンタン・マナウを行うことができませんでした。現在は戦争中なので、(2012年4月に東京で)クムルン・マナウを行いました。このマナウの目的は、遠方にいる自分たちの兄弟姉妹、同じ民族に『今わたしたちは攻撃されています、迫害されています、どうか助けてください』というメッセージを太鼓に合わせて広く伝えることにあります。中国、インド、タイ、ビルマのカチン民族、それ以外の場所にいるすべてのカチン民族に向けられています。(マナウ・リーダー)」

10)ジュビリー・マナウ(Jubilee Manau)
このマナウはキリスト教化によって生まれたマナウである。ジュビリーは旧約聖書のヨベル書に由来し、キリスト教では25年ごとに開催される記念式典を指す。「これは25年、50年、75年、100年とキリスト教信仰を節目節目で記念するマナウです。わたしたちの時代になって始まったもので、地域によってそれぞれです。例えばその土地の教会建設75周年などに開催され、すべてのカチン人に告げ知らせ、来てもらいます。(マナウ・リーダー)」

カチン人にはバプテスト派かカトリックが多く、双方とも19世紀後半に宣教師によってもたらされた。1977年はバプテスト派の福音伝来100周年に当たり、盛大なジュビリー・マナウが開催され、20万人以上のカチン人がビルマ中、世界中から集まったという。

また、バンマイサマキでも2010年に村の25周年を祝うジュビリー・マナウを開催している。

ナウションの衣服に刺繍されたカチン民族の印とマナウ柱

マナウの種類(4)

6)シャディッ・マナウ(Shadip Manau)
「シャディッと言うのは建設する、打ち立てるという意味です。この地に自分の領土を建設した、この土地はわたしたちが勝ち取った場所であり、わたしたちの領土である、という意味を込めてこのマナウを行います。(マナウ・リーダー)」

このシャディッは、そもそも地の精霊の名前であり(カチン語辞書)、この精霊に新しい場所を示し悪霊を祓うという目的があった(Traditions、p32)。

7)パダン・マナウ(Padang Manau)
パダンとは「勝利」の意で、カチンの首長間で、あるいは異民族との戦争に勝利したときのマナウである。リーチはこのマナウが土地の権利と首長の権力に結びついていることを記している。

あるリニージから他のリニージへの土地の譲渡のしるしとなるのは、両者の手で行われる祝典「勝利のマナウ」(パダン・マナウpadangmanau)である。それ以後、自分が太ももを食う首長だという新たな首長の主張の効力は、このパダン・マナウが行われたという公認の事実にもとづくことになる。(p174)

現代ではこのマナウは、イギリスからの独立とカチン州の獲得に結びつけられている。

「1948年1月10日にパダン・マナウが行われました。イギリスから独立し、ビルマ連邦ができました。そして、それと同時にカチン州ができました。自分たちの解放と、カチン州、つまり自分たちの領土の確立を勝利ととらえ、このマナウを行ったのです。(マナウ・リーダー)」

1月10日はカチン州記念日とされ、1948年以来、3年に一度、大きなマナウが開催されていた。しかし、1960年代にカチン独立機構とビルマ政府との戦争が始まると開催できなくなり、1994年の停戦まで再開されることはなかった。

「2000年以降はほとんど毎年行っていましたが、今年(2012)は、また戦争のためにできませんでした。(マナウ・リーダー)」

この戦争とは2011年6月からはじまったビルマ政府軍によるカチン州への攻撃を指す。

ナウションの衣装に描かれた竜

マナウの種類(3)

3)ティンタン・マナウ(Htinghtang Manau)
「このマナウは、喜ばしい集いや、親睦の集い、宴において開催されます。カチンのすべての地域で見られるものです。(マナウ・リーダー)」

その費用をまかなうことのできる者が行い、通常のマナウの2倍の日数行われる(Traditions、p33)。


カチン語辞書によればこのマナウは「ダブル・ダンス(首長の家の前と後ろで同時に行われるもの)、時に男の双子が生まれた時に開催される」とある。

4)ティンラム・マナウ(Htingram Manau)
「家族や姻戚関係にある家族内の敵対的関係を取り除くために開催される。家族和解を目的としている(Traditions、p33)。」

5)クムラン・マナウ(Kumran Manau、TraditionではGumran)
クムランとは、「家族が別れる」(カチン語辞書)という意味で、その名の通り、村や村落群で人口が増えたため土地が足りなくなり、一族の一部が新しい土地を目指して出発することが議論され、それが決まったときに行われるマナウである。旅立つ人々によい土地が見つかるようにという願いを込めて太鼓が打ち鳴らされ、一族が別れを告げるのである。

ナウションの衣服に描かれたクジャク

マナウの種類(2)

1)ジュー・マナウ(Ju Manau)
カチン民族の偉人や民族のために貢献した人、長老の死のさいに行われるマナウ。マナウでは太鼓が重要な役割を果たすが、その太鼓を打ち鳴らして、例えば「わたしたちの村の長が亡くなりました」と近隣の村々に伝えるのである。Traditions(p32)には、重い病からの平癒や、女性の懐妊のためにも開催されるとある。


オラ・ハンソンのカチン語辞書(Ora Hanson、Kachin Dictionary、1906。以後、カチン語辞書と略す)によれば、Juはマナウとほぼ同じ意味のようだ。また、ジュー・マナウは、イラワディ川(マリ川)東側の首長たちによって主に執り行われるとある。

2)スッ・マナウ(Sut Manau)
「スッ・マナウは特別な財産を得た時、翡翠、金銀などの新たな鉱山を見つけた時、収穫が豊かな時などに執り行われる喜びのマナウです。キリスト教徒になってからは全能の神に対して感謝を捧げるものとなりました。現代でも巨大な財産を得たときなどに個人で行うこともあります。2011年にカチン州の首相になったLajawan Ngan Sengの父であるLajawn Tu Hkawngは、巨額の財産の持ち主で、このマナウを個人で開催しました。これはわたしが実際に見たスッ・マナウです。(マナウ・リーダー)」。

どれくらいの財産を得た時に行うのか、という問いに対して、マナウ・リーダーは「ちょっとした利益ではやりません。並の金持ちにできることではないのです。参加したすべての人々に何日もご馳走するから、ウシとブタが何十匹も必要です。招待客の宿泊場所、交通費全部負担するので、かなりの資産が必要です」と答えた。

なお、スッ(Sut)というのは、カチン語で「富」を意味するが、リーチによればこのスッに含まれるのは、食物、ウシなどの家畜、儀礼的交換に用いられる品の3種に分類される動産であり、土地などの不動産は含まれないという(p158)。

マナウの銅鑼

マナウの種類(1)

2012年4月に東京でマナウが行われたときわたしはナウションにインタビューを行い、マナウに9つの種類のあることを知った。

Lasi Bawk Nawさんの"Traditions, Beliefs and Practices: Links with Nature Concervation in Kachin State (2007)"(以下、Traditions)には8種のマナウが挙げられ、そのうちひとつは上述のインタビューには出てこないものであった。

2012年7月に中国の昆明と瑞麗に行ったときに、中国語で書かれたカチン文化の本を数冊買ったが、そのうちには15種のマナウを記しているものもある。もっとも、語学力の問題で正確には分からないが。

ここではインタビューで得た9種のマナウにTraditionsの1種のマナウを加えた以下の10種について説明しよう。

1)ジュー・マナウ(Ju Manau)

2)スッ・マナウ(Sut Manau)

3)ティンタン・マナウ(Htinghtang Manau)

4)ティンラム・マナウ(Htingram Manau)

5)クムラン・マナウ(Kumran Manau、TraditionではGumran)

6)シャディッ・マナウ(Shadip Manau)

7)パダン・マナウ(Padang Manau)

8)ニンタン・マナウ(Ninghtan Manau)

9)クムルン・マナウ(カチン文字不明)

10)ジュビリー・マナウ(Jubilee Manau)

ナウションの冠

Wunli Hkridip Manau

2012年4月に東京でマナウが行われたとき、わたしはナウションにインタビューを行い、ナウションの役割、マナウの歴史と種類、マナウ柱の名称と意味などについて学んだ。

2013年11月に再び東京でマナウを開催するというので、このときわたしはインタビューをまとめてマナウに関するパンフレットを製作した。そのときにいくつかの文献も利用したが、そのうちにカチンの友人が貸してくれた非常に有益な書物が、このLasi Bawk Nawさんの2冊の本であった。

わたしは彼にそのことを伝え、さっそくこんな質問をした。

「このマナウはウンリークリディッ・マナウ(Wunli Hkridip Manau)と題されていますが、これは新しい種類のマナウなのでしょうか?」

だが、彼の答えを記す前にマナウの種類について説明しておく必要があろう。

カチン文化人

カチン民族と文化に関する2冊の英語の本がある。

Traditions, Beliefs and Practices: Links with Nature Concervation in Kachin State (2007)

Biodiversity, Culture, Indigenous Knowledge, Nature and Wildlife Conservation Programmes in Kachin State, Myanmar (Second Edition)

ビルマ国内の印刷なので多少難はあるにしても、全ページカラー印刷、タイトルにもあるように、カチンの諸民族の文化、カチン州の動植物、自然の貴重な写真に満ちた美しい本だ。わたしはマナウのページしか読んでいないが、写真を眺めているだけでも楽しめる。

そして、12月3日、タイ北部の村、バンマイサマキで、ピーターさんの後を追いかけてナウション小屋に入ったわたしが実のところ知っていたと書いたもうひとりの人が、この本の著者であるLasi Bawk Nawさんであったのだ。つまり名前を知っていたというわけだ。

彼はミッチーナーYMCAのトップだった人で、今は在野の研究者、写真家として活動しているそうだ。

さて、これらの本がごく少部数、マナウ広場脇の受付で販売されていたので、すぐに買いました。2冊で1000バーツ。高いがその価値はある。


ナウションの衣装

ナウションはマナウ踊りの時にはきらびやかな長衣を着用し、冠をかぶり、バッグを肩にかけ、剣を帯びる。衣服の色に決まりはなく、ナウションどうしが色を合わせる必要もない。ナウションであることをもっとも端的に示すのは、鳥の羽で飾られた冠だ。


その鳥はクジャクとサイチョウで、この2種の鳥はまた、長衣にも描かれている。

冠の鳥の羽は、鳥たちとは敵対関係にないこと、したがって鳥は人間に害を与えないということを示す。このような安全な状態、つまり楽しさ、美しさ、うれしさ、平和な状態を象徴しているのである。それゆえ、人間に害を与えるトラのような動物のものは冠には用いられていない。

サイチョウが王権を象徴していることについてはすでに書いた。


冠の装飾においてもう一つ欠かせないのが、猪の大きな牙である。立派な牙をもつ猪はかなりの年齢であり、人間のことも知り尽くしているため、滅多なことでは人間に捕まらない。それゆえこの牙は知識・知恵を象徴しているのだという。



ナウション

ナウション(Nau Shawng)というのは「踊り(nau)」の「リーダー(shawng)」という意味であり、マナウ踊りを率いる役割を持つ人だ。

ナウション自身の言葉によれば「マナウの踊りの列で一番前に立つ者」がナウションであり、マナウ柱を見てどのように踊るべきか分かる人々だという。

ナウションになるには、マナウに関するさまざまな知識、規則に通じ、多くの経験を積んでいなくてはならない。しかし、これは職業や資格ではなく、認可制度や職業的共同体があるわけでもない。ナウションは、マナウのないときは通常の人と同じように生活し働いている。

2012年5月に行ったナウションに対するインタビューから引用しよう。

「ナウションは多くはありません。マナウに関する知識がないとできないからです。人によっては、ナウションである親から知識を受け継いでナウションになる人もいます。しかし、親が普通の人でもナウションになれます。必要なのは才能です。……ナウションは自分で勝手に名乗ることはできません。知識だけでもできません。マナウに何回も参加し、一生懸命まじめに勉強し、あらゆる知識を得なくてはなりません。そして、先人・先輩たちが、この人はまじめで能力も知識もある、マナウの歌や踊りに関する才能と知識もあり、責任感もある、全部そなわっている、と判断してはじめてナウションに選ばれるのです。」

君もナウションになれるかもしれない。

12月4日のマナウの開会式で

ナウション小屋

マナウ広場の脇に設けられた小さな高床式の建物は、マナウを取り仕切るナウションが祭りの間、寝起きする場所であり、またマナウ踊りの前には準備をする控室でもある。

建物正面から切妻型の屋根が大きく突き出ていて、その下は日の当たらない空間となっている。この空間は、(後に触れるように)マナウの出発点として重要な役割を担っている。

小屋の中にはその空間から竹でできた階段を上がって入る。内部は正方形の一間で、大黒柱が真ん中で屋根を支えている。小屋は竹と木の簡素なもので、壁は竹を編んで作ってある。

囲炉裏が手前と奥に二つ設けられており、太い薪から煙が上っている。これは暖房と湯沸かしに用いられているようだ。

壁にはナウションの衣服が掛けられ、壁に取り付けられた棚にはナウションの冠が置かれている。これらについてはまた後で述べよう。

Google Mapでこのマナウ広場を見ると小屋はないので、マナウ祭りのために一時的に作られたものと考えられる。


金の花

マナウ広場とマナウ柱の説明は一応これで終わりにして、タイ北部のカチン村、バンマイサマキ、12月3日の午前の話に戻すと、ピーターさんはわたしを連れてマナウ広場をぐるっと回り、その奥にある高床式の小屋に入っていった。

それは、マナウを率いる指導者、カチン語でナウション(Nau Shawng、踊りの長)と呼ばれる人々が、祭りの間に滞在する、いわば「楽屋」のような場所なのであった。

ピーターさんはそこに知り合いがいるようで、どっかり座っていつものように話を始めたが、実はわたしにも知っている人が二人いたのである。

ひとりは、2013年11月の東京マナウの時にナウションとして来日した年配の男性で、その時に少しだけ話を聞いたことがある。

もうひとりは、やはり年配の男性で、彼は水浴びを済ましてきた様子で首にタオルをかけてこの小屋の裏口から表れた。

彼は、わたしが日本から来たことを知ると「カチン語でジャーは金、パンは花、ジャパンは金の花だ」と英語で言ったのだが、彼について述べる前に、このナウション小屋とナウションについて若干述べておこう。

2014/12/23

マナウ柱の方位

バンマイサマキのマナウ広場への入り口はひとつで、その正面にはマナウ柱が並んでいる。

わたしは入り口が南か北に当たっているに違いないと考えて、iPhoneのコンパスを見てみたら、入り口は真北ではなく、東側に30度ほど傾いている。

中途半端だ。もしかしたら、マナウにおいて方位は関係ないのかもしれない。

念のため、ピーターさんに尋ねてみたら、こんな返事が返ってきた。

「バンマイサマキのマナウ柱は方位が違っているのだ。直さなくてはいけないのだが、今からでは難しい。本当は頭が日の上る東を指していなくてはならないのだ」

「頭」というのはサイチョウの頭のことだろうが、そうすると入り口は南側になくてはならない。とするとほとんど真逆に作ってしまったというわけだ。

マナウ広場の柵。シンプルな装飾が施されている。

マナウの土台柱の図像

ドゥンビャとよばれる土台の柱の正面側にはいくつかのシンボルが描かれている。

バンマイサマキのマナウ柱ではサイチョウの頭側から順に、クジャク、銅鑼、月、太陽、星、マナウの太鼓の図像を見ることができる。

クジャクはサイチョウに次いでカチンにとって重要な鳥で、サイチョウと同じくやはりマナウ・リーダーの衣服や冠にも登場する。

2012年4月の東京のマナウでは、銅鑼や太鼓の図像に加えて、東京都と三重県のシンボルマークも描かれていた。これはマナウが行われる土地のマークを描く習慣によるという。

マナウ柱の鳥

マナウ柱の土台となる水平の柱(ドゥンビャ)には、一端に鳥の頭が、もう一端には鳥の尾が彫刻(あるいは造形)されている。これはサイチョウであり、人間たちがマナウを行う前に、世界初の鳥のマナウ宴会を執り行ったとされる鳥である。

カチン人が言うところによれば、サイチョウとはジャングルの王者であり、その美しい姿と、どの鳥よりも高く飛ぶ習性のために、あらゆる動物が服従するのだという。

それゆえ、この鳥はまたマナウのシンボルとなり、マナウ・リーダーの被る冠や衣服にもその姿が描かれている。統治権を象徴するこの鳥を通じてマナウの持つ政治的性質が表されているというわけだ。

その政治的性質とはカチン民族の共同体の団結に関わるものだと思うが、こうした点からこの鳥はカチン民族に福をもたらすと言われるのであろう。

ところで、このサイチョウはチン民族を象徴する鳥でもあり、伝説によればカチンとチンは兄弟関係にあるそうだ。


マナウ柱の文様と踊り

詳しくは分からないが、マナウ柱の文様には種類がありそれぞれに名前があるという。

この文様はマナウの主題にも関係しており、また、マナウ祭りの踊りはこのマナウ柱の文様によって決まる。男柱の文様と女柱の文様では踊りのスタイルが異なるそうで、ナウションと呼ばれる踊りのリーダーはこの文様を見て、マナウで踊るべき踊りを判断する。


とはいえ、柱の文様が踊りを直接表しているとは限らない。後に見るように文様と踊りのパターンが一致することもあるが、むしろ文様の名称が踊りの方と結びつけられている場合もあるようだ。

さて、ここで「景頗大地」(Kachin Land)を運営する中国のカチン人に3度目の登場を願うが、彼はバンマイサマキのマナウ柱の模様を見て、それが漢字の「光」と「国」の由来であることを教えてくれた。

ま、まさか、漢字までカチン人が?

左端と真ん中の柱の放射状の模様が「光」、
左から3番目の四角い渦巻きが「国」だという。

景頗大地

景頗大地」(Kachin Land)というのは中国のカチン人が運営するメディアで、ネットを通じてカチンのニュースなどを中国語で発信している。

わたしは2012年の7月に中国雲南省の瑞麗でこの「景頗大地」の運営者に会ったことがあり、今回のバンマイサマキのマナウにも彼はやってきていた。

彼がマナウの柱の先端の形の意味について説明してくれたことについてはすでに書いたが、それ以外にもカチンのことを教えてくれた。

いや、教えてくれた、というのでは弱すぎる、真実を明かしてくれた、というべきだ。

彼はわたしのメモ帳を取ると、次のように書いた。

Ruler

Zhou

Zhouというのは中国語のようだ。そこで、漢字で書いてくれと頼むと彼は次のように書いた。

周 統治者

なんと、周王朝がカチン民族の王朝だと?

「ということは、中国がカチンランドで?」

彼はにっこりうなずく。さすがに中国のカチン、発想が壮大にして悠久だ。さらに彼は

清邁 Chiang Mai

と書く。そして、その下に「昌粟」と。

これはカチン語でのチェンマイの意味らしいが……まさか!

「チェンマイも、カチンランド?」

満足げにうなずく彼。

そのうち、われらがJIPANGUも「Jinpaw-g-wun」すなわち「Jinghpaw Wungpawn(カチン民族)」でカチンランドの一部になりそうな勢いだ。

中国のカチン人とタイの軍人

太陽と月

マナウ柱の中央に立つ二本の柱、ドゥンラーとドゥンイーは男生と女性を表すだけでなく、太陽と月を表してもいる。

それは柱の形にも表現されていて、ドゥンラーの先端は太陽のように丸く、ドゥンイーは三日月のように先端が丸く欠けている。

このことを説明してくれたのは、バンマイサマキのマナウ祭りのために中国からやって来たカチン人の一人で、彼はインターネットを通じて「景頗大地」(Kachin Land)というカチン民族に関する情報を発信している。

ドゥンイーは月に結びつけられているが、わたしが2012年4月の東京でのマナウの時に、ビルマのマナウ・リーダーから聞いた話では、女性の柱、ドゥンイーの天辺には太陽を模した飾りを付けるとのことだ。「東京でのマナウでは、わたしたちはこの飾りも指示しておいたのですが、付けられていませんでした。本当は必要なのです」

この飾りはバンマイサマキのマナウ柱には見当たらないが、櫓に立てられた竿の先につけられた太陽と月と星の飾りがそれに相当するといえなくもない。

あるいは、太陽というのはカチンでは女性に対する褒め言葉だそうだから、ドゥンイーを月とし、ドゥンラーを太陽とする解釈はマナウの地域差のひとつかもしれない。

この「景頗大地」にはロゴマークがあり、彼はそれが貼られたシャツを着ていたのだが、それは通常のカチン民族の印と少々異なっていた。交差した片方の剣の先が凹んでいるのではなく突き出ているのである。彼が言うには、ドゥンラーとドゥンイーとのように男女のペアにした、という。

だから、もしかしたら、太陽と月の対比と解釈する傾向は中国のカチンでより強いのかもしれないが、これはもっと調べてみないと分からない。

「景頗大地」のロゴ

2014/12/22

バンマイサマキのマナウ柱

マナウ柱の名称は、わたしが以前、マナウ・リーダーへのインタビューで調べたものだが、これをバンマイサマキのマナウ柱に当てはめると以下のようになろう。


マナウ柱の名称

マナウ広場の中央に設けられ、マナウばかりでなくカチン民族の象徴でもあるマナウ柱(マナウ・シャドゥンManau Shadung)で、この柱についてリーチは「とりわけ目立つものではないが、造形美術に関する限りカチンによる美術的達成の頂点をなす(『高地ビルマの政治体系』p133)」と述べている。


マナウ柱は通常、長い板で作られる。高さはマナウの規模により、3メートルほどのものから、おそらく20メートル近くになるものまである。非常に大きいものは木材ではなく、すでに述べたようにコンクリートで作られている。

マナウ柱は4本から10本の垂直の柱と、それらを補強するX型に交叉した左右2組の柱、そして横に渡された土台の柱とその上の1本の柱からなる。それぞれの柱に名称がある。

垂直の柱は3種に分けられる。中央のもっとも高い2本の柱は、ドゥンラー(Dung La)、ドゥンイー(Dung Yi)とそれぞれ呼ばれる。この2本の柱はマナウ柱に不可欠である。ドゥンラーは男性の柱、ドゥンイーは女性の柱とされている。

脇の短い柱にも男女の区別がある。このように男女が並置されるのは、男女の平等を表しているのだという。

その両脇に同じ数だけ並ぶより短い柱は、ドゥンノイ(Dung Noi)と呼ばれる。これらの短い柱は、マナウの主題によってさまざまな文様があり、また本数もさまざまである。斜めの柱にはドゥントン(Dung Tawn)、土台の柱にはドゥンビェ(Daung Bye)という名がある。

これらの柱には、渦巻きや直線による模様が主に赤、緑、白、黄色、青などのペンキで描かれている。この模様はかつては柱に彫刻されていた。

2014/12/21

マナウ広場の内部

タイ北部のカチン村、バンマイサマキで行われ12月4日から7日にかけて行われたマナウ祭りの会場となるマナウ広場の内部について模式的に表すと以下のようになる。


入り口も広場を取り巻く柵も竹を組み合わせて作られている。

内側から見た入り口

「櫓」というのは高さ3メートルほどの竹でできた構造物で、この上にはマナウ祭りの笛を演奏する二人の男性が座る。


この櫓から長い竹竿が突き出ていて、その先には太陽と月、星のシンボルがぶら下がっている。

マナウ広場とマナウ柱

マナウというのはマナウ広場とマナウ柱、そしてマナウに必要な人々が揃えば、世界のどこでも開催できるものだというが、マナウのためだけの広場があり、マナウ柱が常設されている国は4つしかない。

それはビルマ、中国、インド、タイだ。

そして、タイには当然ながらこのカチン村にしかない。

そのようなわけでバンマイサマキのマナウ広場とマナウ柱はカチンの人々にとって非常に重要な意味を持つ。

ところで、文化人類学者エドモンド・リーチはカチン民族を扱った『高地ビルマの政治体系』で、「伝統によれば柱と舞踏場は祭宴の十二ヶ月後にこわされなくてはならない。(中略)したがって、マナウの舞踏場が実際に存在する村に出くわすのは、ほんの時たまのことにすぎない(p133)」と述べている。

しかし、ビルマでも、中国でも、タイでも(おそらくインドでも)現代ではマナウ広場にコンクリート製のマナウ柱が恒常的に設置されているのが普通であり、リーチの記述とは食い違う。

おそらくリーチが観察した1940年代のマナウと現代のマナウではその役割が変化し、単なる儀式から、対外的にカチン民族の独自性を示す文化的象徴へと変わったということかもしれない。

さらにリーチが、マナウ広場と柱の一時的な性格を誇張しているという可能性もある。というのも、これらが石碑のように永続せず「はかなく消失する」という事実を、彼の主張であるカチン社会の柔軟性のひとつの証拠としているからだ(p134-135)。

もっとも、単に木よりも造形に便利なコンクリートという素材のほうが、実のところマナウ柱に適しているということが発見されただけなのかもしれないが。


マナウ広場

12月3日、タイ北部のカチン村で最初の朝を迎えた。

マナウ祭りは明日からなので特にすることもなく、ピーターさんに付いて回る。彼はこの村のあちこちに旧友がいて、若い頃の話にふけっている。

昔話が終わると、彼はわたしをマナウ広場(Manau Wang)に連れて行った。

東京マナウでは芝公園にマナウ広場を設置したが、ここではカチン村だけあって、マナウ広場が常設されている。

円形の竹の柵で囲まれていて、直径は30メートルというところ。その中央にマナウのシンボルであるマナウ柱がある。

東京マナウなどでのように、木製のマナウ柱を組み立てる場合もあるが、ビルマのカチン州、中国のカチン人自治省などでは、コンクリ製のマナウ柱が建てられ、町とカチン民族のシンボルとして屹立している。

バンマイサマキのマナウ広場とマナウ柱
祭りのために太鼓や櫓が設置され、飾りつけられている。

2013年11月に東京で行われたマナウ広場とマナウ柱(芝公園)

徳宏傣族景頗族自治州瑞麗市のマナウ柱
(2012年7月撮影)

2014/12/20

カチン村のアボカド

12月2日から7日までの間滞在したタイ北部のカチン民族の村(バンマイサマキ)の主な生産物の一つはアボカドで、これはタイのロイヤル・プロジェクトに因るものということだ。

ロイヤル・プロジェクトというのは、タイ農村の貧困を解決するために、現国王が始めたプロジェクトで、今ではその主要業績の一つとして称えられている。

詳しくは分からないが、ロイヤル・プロジェクトで生産された農産物はタイ国内でブランド品として流通しており、この利益が農村に還元されている。

とはいえ、それでも村を支えるのには十分ではないようで、村人からアボカドを日本に輸出したいという希望を聞いた。

実際に、マナウ祭り最終日の12月7日には、アボカドのビジネスのために10人の日本人が来るという話だったが、わたしたちはこの日の朝に村を発ったので詳細はわかない。

いっぽう、ある村人によれば、村のアボカドはロイヤル・プロジェクトのためのものだから、勝手に売ってはいけないことになっていて、村から直接輸出することは難しいらしい。

ロイヤル・プロジェクトは、王室ブランドだけあって規格が厳しいようだ。村で知りあった日本人が規格外としてはねられたアボカドをうまく利用すれば村はもっと豊かになるのではないか、と言っていたが、面白い考えだと思った。

養蜂とか

ゴムの木もありました。

我慢と入管

今日の午後は品川の入管に行って、4人に面会し、そのうちの3人から署名をもらって、3通の仮放免許可申請書を作成して提出した。

3人のうち1人はこれで3回目、もう1人は2回目。ただし1回目は別の保証人で申請している。そして3人目は先月収容されたばかりなので1回目だ。

許可が下りるかどうかはあまり期待していない。5回目ぐらい提出した頃にその時期が来るかもしれない。

重要なのは我慢して続けることだ。

ところで、今日は年末だからか面会希望者が多く、受付までに1時間ぐらい待った。後は割とスムーズに進むはずと思って面会待合室の7階に行ったら、職員にこう告げられた。

「えー、今ちょうど、面会室が一杯になったので20分から40分ぐらい待っていただきたいのですが」

我慢だ。

2014/12/19

カチン村の隣の中国村

タイの村というものに行くのは初めてのわたしには、このカチン村がタイの村として平均的なものなのかどうなのか分からなかったので、ピーターさんに聞くと

「山岳地帯の他の少数民族の村に比べて良いほうだ。というのも、他のカチン人たちが村を支援しているから」

ということだった。

さらに彼はもっと国境に近い隣村のことに触れ、「これは中国人たちの村で、台湾の人々がかなりお金を出している。だからカチン村よりもずっと裕福だ」と。

タイ国内なのにビルマから来たカチン人の村があったり、台湾人の支援する中華系の村があったり、しかもそれらが全部タイ国民で、わたしはもう何が何だか分からなくなってしまったが、それが国境地帯というものなのだろう。あるいは1970年代の共産党勢力対策と関係あるのかもしれない。

いずれにせよ、入管の問題からもわかるが、人間にとっては国境とは所詮人工物に過ぎない。

それはともかく12月3日の夜に、ピーターさんたちがその中国の村に行くというので車で連れていってもらった。もう夜の9時を過ぎていたのでほとんど閉まっていて分からなかったが、村というよりも町のようで、セブンイレブンだけが煌々と輝いていた。

わたしたちは、リスとアカの女の子が働くそのコンビニで少し買い物をして村に戻ったのであった。

カチン村の水

わたしが12月2日から7日までの間滞在したタイ北部のカチン民族の村(バンマイサマキ)には電気も通じており、ビルマの村に比べるとずいぶんマシなように思えたが、飲み水については同じように困っているとのことだった。

そもそも水に乏しい地域なのか、基本的には雨水を利用しており、どの家にも水を溜める巨大な水甕や容器が設けられている。また、貯水池もあったが、その水は非常に汚れていた。数年前に子どもがそこで溺れ死んだそうだ。

衛生上の問題はさておくとしても、雨水だけでは乾期の飲料水には足りない。そのようなわけで、外から水を買うことになる。

12月4日から4日間開催されたマナウ祭りはカチン人だけでなくチェンマイやチェンダオなどの街からも見物する人々がやってきたが、そのなかにこのカチン村への訪問を続けている日本人女性がいた。

その方が教えてくれるには、この村には水道設備がないのではなくて、すでにあるのだが、壊れていて使用できないのだという。

どうして行政が修理しないのか不思議だが、ピーターさんによれば、カチン人たちはそのために現在資金集めをしているということだ。

大きな水甕

貯水池

カチン村の店

わたしが12月2日から7日までの間滞在したタイ北部のカチン民族の村(バンマイサマキ)に、小中高の学校がないことはすでに書いたが、保育所もない。

ホームステイ先の隣がかつてそれだったそうだが、今は閉められている。

わたしが見聞きした限りでは村にある施設などは次のようなもの。

教会が3つ(カトリック、バプテスト、チャーチ・オブ・クライスト)。
公営の農業関係の施設。
カチン文化を教える施設。
雑貨や食料を売る小さな商店が2〜3。
カフェが少なくとも一つ。

タイのどこでもある、バンコクなどでは数十歩ごとに出くわすようなセブンイレブンは存在しない。

わたしがホームステイした家には、20リットルの飲料水ボトルやトマト、ショウガ、カボチャ、ミカンなどの農産物が隣接した納戸に無造作に積まれていた。収穫物かと思っていたが、実はここで商売しているのだった。

さて、村のお店についてピーターさんが言うには、昔から村には店があったが、村人が掛け買いばかりして、結局踏み倒すので、一度みんな潰れてしまったのだという。

それで、今ある第二世代のお店ができるまでは、みんなわざわざ隣の村まで行って買い物をしていたそうだ。
カトリック教会



マリア像

村のカフェ

2014/12/18

運気と入管

ある人によれば、運気の良い人の周りには運気の良い人ばかり集まるそうだ。

すばらしい。

わたしが思うに運気の悪い人間とは、殺されかけて国から逃げ出さずにおれなかった人や、寄る辺無いがゆえに入管に収容されてしまうような人で、アゲアゲの運気を目指す紳士ならばよろしくこれらの人々を避けるべきであるし、入管の収容所などは鬼門中の鬼門だと心得るべきであろう。

ましてや難民支援で尊敬されるような団体を作りたいのなら間違っても近づくべきでない。

それはともかく、今日わたしは牛久の入管に行って、被収容者に会ってきた。

二人の難民の面会と仮放免許可申請のためだ。

そのうち一人は、傷害の罪で服役していた人で、刑期を終えた後、入管に移されてきた。

運気でいうとまぎれもなく最悪だ。

「自分は罪を犯した悪い人間だから、入管から仮放免されるのも難しいかもしれない」と、さらに運気を下げるようなことを言っている。

「入管の仕事は良い人間だろうと悪い人間だろうと、余計な外国人を追い返すことだから気にするな」と言っておいたが、今思えば、もっと励ましになることを言ってあげれば良かった。

ついでに入管の収容所と刑務所のどちらがいいか尋ねた。

そりゃ自由がある入管だ、と彼は答えたが、わたしもずいぶん運気のない質問をしたものだ。

面会室の様子。

牛久入管の玄関。

ルパンのオープニングで使われたサーチライト(嘘)

カチン村の人口

バンマイサマキ、カチン村の人口だが、正確なことは分からなかった。しかし、チェンマイのカチン教会の組織WCC(Wunpawng Christian Church、Wunpawngというのは「民族」という意味)の代表によれば、290戸だという。一家族かりに4人として1200人弱ということになる。

しかし、住人のすべてがこの村にいるわけではない。すでに書いたように小中高がないため、わたしのホームステイ先では子どもたちはチェンマイに寄宿している。また、ある男性は子どもの学費を稼ぐために村を離れてチェンマイで働いているといっていた。同じような家庭はたくさんあると考えられる。

さらに、村に住んではいないが家があるという人もいる。カチン民族機構(KNO)代表、ボウムワン・ラロウさんやKIO/KIAの幹部がそうだ。

そんなわけで村の住人は実際にはずっと少ないようだ。

いっぽう、面白いことに、住民登録上の数は290戸よりもはるかに多いのだという。というのも、チェンマイ、そしてバンコクにはかなりの数のカチン人が暮らしているが、そうした人々がタイでの市民権が欲しいときに、この村の住人として登録するからだという。

そんなわけで、タイ唯一のカチン村、バンマイサマキは、小さな村であるが、タイ中のカチン人の故郷でもある重要な場所なのであった。

トウモロコシの粒を芯から落とす作業 


カチン村の歴史

さて、このタイ北部の山奥にどうしてカチン人が住み着き、村となったかについての話であるが、わたしが聞いた話をここにまとめる。

ラトー・ザウセン(Lahtaw Zau Seng)らカチン人の青年たちが集まって、ビルマ政府の弾圧に武装抵抗をはじめたのが1961年のことで、これがカチン独立機構・カチン独立軍(KIO/KIA)だが、ザウセンらは1975年にタイ・ビルマ国境で暗殺されてしまう。

おそらくKIO/KIAの中に相当の混乱があったためだろうと思われるが、その際に組織を離れた一群のKIA兵士がおり、それらがこの国境沿いの山地に移り住んだのが村の起源だという。

つまり約40年前のことだ。

ラトー・ザウセンの死後、KIOの指導者の地位に就いたのはマラン・ブランセン(Maran Brang Seng)で、彼はそれから約20年間、KIOを率いることになるのだが、わたしをこの村に連れてきてくれた在日カチン人のピーターさんは、このKIA議長の側近として長く働いていた。

ピーターさんによると、ブランセンはタイ語もでき、タイの軍人とも親交があったとのことで、タイの政界にも非常に深い繋がりがあった。それで、この元KIA兵士たちの暮らす村をタイ国内の村として認めてくれるように働き掛け、それがタイ女王による認可へと結びついたのだという。

それが1985年のことで、それ以来、この外国人の集落は「難民キャンプ」でも「不法占拠者居住地」でもない、タイ国民の村として登録されることになったのである。

美しいカチン村(村の子どもの絵)

カチン村の位置

ホームステイ先の家の入り口

わたしが12月2日から7日まで滞在することになったカチン村であるが、正式な名前をタイ語でバンマイサマキ(Ban Mai Samakki)といい、サマキ新村という意味だとのこと。もっと正確にいうと「サマキ新村(カチン)」らしく、すぐ隣のアカ民族の暮らす「サマキ新村(アカ)」と区別されている。なお、サマキというのは地名だという。

タイの行政区画についてはよく分からないが、チェンマイ県のチェンダーオ郡にあることは確かだ。このチェンダーオ郡はビルマとの国境に接している。

そしてこのカチン村は、チェンダーオ郡のなかでもっとも国境に接している村の一つである。カチン村の接する道路を車で5分行くともう一つ大きな村があり、その先を行くともうビルマのシャン州との国境だ。

わたしは日本に帰ってきて地図を見るまでは自分がどこに連れて行かれたのかも分からなかったが、本当に国境近くだったことにびっくりしている。

さて、以下にGoogle Mapでその場所を示すが、ちょうどマナウの行われるマナウ広場のマナウ柱を中心にしてある。

しかも、ストリート・ビューで、村の中を散策することもできる。


2014/12/17

チンの士官たち

11月19日のビルマ軍によるライザの士官学校砲撃で亡くなったのはカチン独立軍(KIA)の兵士だけでなく、アラカン軍(AA)、タアン(パラウン)民族解放軍(TNLA)、チン民族戦線(CNF)、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の兵も含まれている(イラワディ誌報道)。

KIAが他の民族・団体の軍の訓練に関わったり、協力したりしているのはよく知られたことであり、わたしも実際にライザの軍病院でABSDFやシャンの兵士を見たことがある。

12月14日午前、在日チン民族協会(CNC-Japan)の月例会議が開催されたが、そのときに今回の砲撃で亡くなった二人のCNF士官に対する追悼も行われた。

その二人はともに大尉(Captain)で、名前はBiak Tin LianとBawi Ram Hngakという(写真に記されたHrgakはスペルミスのようだ)。

写真を見ればまだ若い、それ以外のことはわからない。