2009/09/30

脅迫

入管に収容されたすべてのビルマ人が難民認定申請をするわけではない。なかには、強制送還を受け入れ帰国する者もいる。

強制送還される予定のビルマ人が、難民認定申請中のビルマ人知人に自分に面会に来るように求めた。

その知人が面会に来ると彼は次のようにいった。

「俺はこれからビルマに帰国する。すぐに俺に30万円よこせ。さもないとお前が日本で難民認定申請をしていることをビルマ政府に告げ口してやる。そうなれば(ビルマに残してきた)お前の家族は困ったことになるぞ」

新たなビジネス。

2009/09/28

あやしい薬

10年ほど前の話。

カレン人の牧師が日本で暮らす信徒に会うために来日した。

日本暮らしの長いカレン人と一緒に池袋を歩いていると、警察に職務質問されそのまま警察署に連行された。

運が悪いことに、牧師はそのとき、精力剤のような薬を持っていた。その薬は名古屋で売っているもので、その地に住んでいたカレン人が牧師に贈ったものだった。

牧師にそんなに精力が必要か、という問題はさておき、牧師の所持品の中にこの薬を見つけた警察は、麻薬ではないかと疑ったのだった。

同行していたカレン人が警察に事情を説明し、晴れて釈放されるまで3時間かかったという。

この話で面白いのは、一緒にいたカレン人がいわゆる「不法滞在」の状態だったことだ。

警察がこの不法滞在者を見逃した理由はわからない。もしかしたら麻薬担当の捜査員で、不法滞在には関心がなかったのかもしれない。そうだとしても、いまならたちまち逮捕され、取り調べののち入管送りは免れない。

いずれにせよ、2003年10月17日の「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」以前の警察は不法滞在者に対して寛容だったことがこのエピソードばかりでなく他の証言からも知れる。

不法滞在者の増加というと、「不法に滞在する者」の責任ばかり問われるようだが、そのいっぽう、これらの人々を見逃し、利用し、放置してきた国の責任が滅多に問題にされることはないのはどういうことだろうか。

2009/09/26

ありふれた話

あるカレン人の夫婦のうち、妻が今、品川の入管に収容されている。

2人には1歳9ヶ月になる息子がいて、普段からあまりものを食べない子だったが、母親が収容されて以来、ますます小食になって父親を悩ませている。しかも、よく知らないが持病があるそうだ。

妻の代わりに自分を収容してくれ、と夫は入管で頼んだが、もちろん話を聞いてくれる相手ではない。

仕方がないのでこどもを抱えて毎日のように面会に行く。もっとも、妻と面会できるのは1日に1回だけ、しかもたったの10分なのだが。

品川で面会をしたことのある人ならわかると思うが、面会をする人は1階で手続きを済ませると、7階に上がり、狭い待合室で自分の番が来るのを待つ。

どれくらい待つかは混み具合にもよるが、いつかは職員に名前を呼ばれるときがくる。職員からカード・キーを受け取り、奥の廊下へと向かう。廊下の左右には小さな面会室が並んでいて、カード・キーはそのうちのどれかを開くようになっている。

その日すでに面会を終えた父親が、この待合室で待つ知人に用があって、息子を連れて7階に戻る。

待合室に入るやいなや、息子が「お母さん、お母さん」と父親を奥の廊下のほうへと急かした。

2009/09/25

しない理由

これだけ多くのビルマ国籍者が難民認定申請をし、ほとんど毎日のようにビルマ大使館前で抗議の声を上げているにもかかわらず、いまだに入国管理局に収容されてから難民申請をする人が後を断たない。

もちろん、そうした人々に止むに止まれぬ事情のあることはわかっている。自分が難民申請することで、故国の家族に何が害が及ぶのではないか、あるいは年老いた親を故国にひとりぼっちにしたままで亡命などできない、などなど、そうしたジレンマに思い悩んでいるうちに結局、オーバーステイで逮捕・収容されてしまうのである。

しかし、収容中にあわてて難民申請するのと、外から申請するのとでは大違いだ。収容中に申請した場合、収容期間のロスは言わずもがな、仮放免のための保証金・保証人も必要だ(これはなかなか大変)。また収容中の身で審査を受けるというのは、準備の点で著しく不利だ。難民認定申請にはそれなりに証拠資料集めが必要だが、収容所ではそれも思うようにはできないのだ。

そのせいか、収容中に申請した人が1回目の申請で認定されることはまずないように思う。

だから、ビルマに帰ることができない事情がある人は、早めに腹を決めて申請すべきだし、それをするだけの覚悟がないまま、収容されたからあわてて申請し、やれ保証人だ保証金だと頼んでくる人の面倒をどうして見なくてはならないのか。それならば、ずっと以前から申請してるのにもかかわらず、認定されずに収容されてしまった難民のほうを優先すべきではないか。

と、こんなふうなやや厳しい意見を、BRSAの打ち合わせで開陳したら、おそらくバチが当たったのであろう、その同じ日に「申請しない人」に2人立て続けに出くわした。

2人とも、古くから、つまり今のように誰も彼もが難民申請する前からぼくの知っているカレン人のキリスト教徒だ。

そのうちのひとりは久しぶりに会った人で、ぼくはとっくにビルマに帰ったに違いないと思っていた。

「帰れないのなら、申請したほうがいいですよ」

「わたしは本当に帰れないのです。難民認定申請書もすでに書いてあります。しかも2回も書き直しました。ですが、ビルマにいるわたしの妻は重い病にかかっていますし、外国で勉強しているこどもが卒業するまで学費を支えなくてはなりません。そのためには仕事を続けなくてはならないんです。きっと収容されたら申請するでしょう。その時は神様が決めてくださるはずです」

もうひとりのカレン人はたびたび会う人だが、近頃は政治活動の場でも姿を見かけるようになった。そんなわけで、ぼくはデモなどで顔を会わせるたびに申請を勧めていた。

「いつもいうから、うるさいと思うかもしれませんが、日本でこんなふうに政治活動をするのならば、早めに申請したほうがいいですよ」

「ああ、みんなそういいますよ。もちろんわかってます。みんなわたしのことを心配してくれているのです。ですが、わたしには申請をしない理由があるのです。これは自分しか知らないことです。もしわたしが申請をすべきならば、神様がわたしを入管の収容所に入れることでしょう。そうならないということは、まだ申請すべき時ではないのです。その時は神様が決めてくださるはずです」

「それならぼくはもう、申請してくださいとはいわないようにします・・・・・・」

おお、偉大なるかな、神!

だが、いかに偉大な神がいようとも、これらいずれは収容されるかもしれない人々の仮放免許可申請のための保証人となるのは、つねに人間なのである。

2009/09/24

トードゥカター(最後まで守り通せよ)

昨日の記事に書いた合同礼拝のカレン人の歌が非常に素晴らしかったので、何というタイトルか聞いたら、タイトルばかりでなく、歌の内容まで教えてくれた。

しかもカレン語の歌詞を、ビルマ語に翻訳して、さらにそれを日本語に翻訳してくれたのである。

せっかくなので、その大意をここに書き記しておこう。

トードゥカター(最後まで守り通せよ)

カレンの先祖たちは正義を愛した
カレン民族よ
忘れないでくれ

どん欲、嫉妬に陥ることなく
先祖たちは自らの人生を受け入れ
カレン民族のために生きた

祝福の大いなることを信じ
聖書の言葉どおり
蛇のように思慮深く
鷲のように正しく
働くのだ

最後まで守り通せよ
自分の神、自分の民族
自分の伝統を愛せよ

神の栄光のため
自分の民族のため
正しく生きよ

素朴でいい歌だけど、これを日本人が日本語で日本民族のために歌っていたとしたら、ちょっとツライかも。

2009/09/23

ビルマ国民のための合同礼拝

9月20日、荻窪の杉並中通教会で、在日ビルマ国民による合同礼拝が行われた。

カチン、チン、カレンなど、キリスト教徒が多い民族ばかりでなく、それ以外の民族のキリスト教徒、そしてビルマ人ら仏教徒約100名が集い、ビルマ国内で苦しんでいる人々のために祈りが捧げられた。

この礼拝の開催の中心人物はナン・マイトゥンさん。カチン人とカレン人の家族に育った女性で、日本にいる非ビルマ民族活動家の中ではもっとも優れた経験と知性を持つひとりに数えられると思う。

2005年から2006年にかけて、AUN-Japan(在日ビルマ連邦少数民族協議会)の事務局長を務め、その当時ぼくもなぜか日本人ながらAUN-Japanの会計委員だったので、いわば「かつての同僚」だ。

「この礼拝はビルマ国内の人々のためのものです。アウンサンスーチーさんら政治的囚人たち、そして動物のように殺されている多くの国民たちの苦しみのため、宗教・民族を問わず心をひとつにしてじっくり神にお祈りする機会を作りたかったのです」とナン・マイトゥンさんは今回の礼拝の目的を語る。

礼拝の内容はというと、牧師のよるお祈り、説教はもちろんのこと、カレン人、カチン人、チン人のグループによる賛美歌、代表者による長い長いお祈り、参加者によるひとことメッセージなど。

チン人の牧師さんがギターを弾きながら日本語で賛美歌「死んだらどこに行くのか」(確かそんなようなタイトル)を歌ったのには、「死んだらどこにも行かない」が持論のぼくもしんみりさせられた(ちなみに日本人の参加者は数名といったところ)。

参加者の多くが政治活動家ではあったが、礼拝の場ということもあり、表立っては政治活動をしていない人や支援者、あるいは普通の教会信徒も同席していた。また、壇上に立つ牧師、教会関係者のほとんどは、信徒のためにビルマと日本を行き来する人々であった。

そんなわけで、会場で写真を撮る時には十分注意するようにとのアナウンスもあった。

カレン人グループの歌ったカレン語の歌は非常によい歌だった。携帯のカメラで動画撮影していて、YouTubeにでもアップしようかと思っていたのだが、映ってはいけない人がたくさん映っていたので断念(ここに掲載した写真は解像度を低くしているので、問題はなかろう)。

2009/09/22

牛乳

9月21日、チン民族の結婚式に招待される。

伝統的なやり方で行うのは日本でははじめてということで、とても面白かった。

ところで、結婚式やお葬式などで客として招待されるとき、牛乳、紅茶、砂糖を手みやげに持っていくのがチン民族の礼儀とのこと。これはお客に振る舞われるミルクティーとなる。

けれど、たくさんの客が来る時に困るのが牛乳。砂糖や紅茶と違って、せいぜい保って一週間。だから、たくさん余った時は帰り際にお客に持って帰ってもらうのだとか。

来客たちの持って来た牛乳とその裏の紅茶(黄色いパック)

虎の尾

昔、2年も3年も入管に収容されていた難民がいた時代の話(そのまま昔であってくれるかどうか)。

あるカチン人収容者がこんなことを言った。

「ビルマに帰るのも危険、だけど帰国せずに入管に収容され続けるのもつらい。まるで虎のシッポを掴むようなものです」

つまり、掴んでいても、手を離しても危ない、というわけ。

就職難

日本人でも就職するのは難しいのだから、外国人ならなおさら。しかも、入管の収容から釈放されたばかりの人が、新たな仕事口を見つけるのは至難の業。

ある在日ビルマ難民いわく「今、ビルマ人の間では『仕事よりも金(きん)のほうが安い』といわれています」

OKO-Japan月例会議

9月20日夜、海外カレン機構(日本)OKO-Japanの月例会議に出席(高田馬場)。

内容は8月のカレン民族殉難者の日式典の振り返り、ポールチョウさん来日中の活動報告、会計報告など。カレン語のクラス、日本語のクラスなどもはじめる予定とのこと。現在の会員数は42名。


日本のカレン人の組織としては最大だ。

毎年9月を過ぎると現れて、1月のカレン新年祭の準備を呼びかける謎のおじさん、Mr.カレンニューイヤー(命名はぼく)と会議を途中で抜け出して、馬場のシャン料理の店マイソンカーに飲みにいく。

しばらくすると会議を終えたOKO-Japanメンバーが」合流。そこで、カレン人の英雄ソウ・バウジーには妻が3人もいた、などと話していると、店のマスターでありシャン民族のリーダーでもあるサイ・ニュンマウンさん「うちの村には奥さん5人いる人がいたぞ!」。

2009/09/16

赤とんぼ

15日の午後にNHK教育でやっている「日本の話芸」という番組で、桂三枝がやった創作落語「赤とんぼ」は、面白かった。

構成そのものも巧みで、それにも感心させられた。

童謡が主題のこの落語、童謡つながりで『ビルマの竪琴』がオチで大きな役割を果たす。

意外なところでビルマが出てきたのに驚かされたのと、この『ビルマの竪琴』の使い方が最高だったので、思わずここに書き記す、というわけだ。

カレン民族殉難者の日演説(4)

ご存知のようにビルマとイギリスは戦争を3回しています。

第1次英緬戦争、第2次英緬戦争、第3次英緬戦争と呼ばれていますが、この第3次英緬戦争でビルマ王朝は敗北し、1885年にビルマ王国は完全にイギリス領となりました。

イギリスはビルマを植民地としました。つまり、ビルマの歴史にとってイギリスはたいへん大きい存在なのです。

もうひとつ影響力のある存在がどの国かというと、それは日本です。

日本人が直接ビルマを支配した時代はたった3年の期間でしかありません。

ビルマ語でジャパンキッ(日本時代)と呼ばれるこの時期は1942年5月から1945年8月頃までです。

現在ビルマを支配している政府を軍事政権と呼んでいますが、日本時代は日本軍がビルマを支配する日本軍政の時代でした。この軍政はビルマでたいへん悪いこと、ビルマの人々にたいへんひどいことをいくつも行いました。

その日本時代、ビルマで起こったことの中で重大な出来事は、カレン民族とビルマ民族との衝突といわれる数々の事件です。

日本の軍人、飯島大尉はビルマ独立義勇軍(BIA)とともにカレン民族の掃討戦を行っていたわけですが、デルタ地帯で彼が逆に殺されてしまったという事件がありました。

この時期、あの30人志士を率いてビルマに凱旋したBIA創設者、鈴木敬司大佐、ビルマ語名ボ・モウジョウは、カレンの指導者とこの事件について話し合いをしました。

その時にボ・モウジョウに会ったカレン民族の指導者はマン・ソウブという人でした。彼は、鈴木敬司大佐の前にまずひざまずいて「わたしを殺してください。わたしを殺してください」と慈悲を乞うたのでした。

マン・ソウブはカレン民族にとって初期の殉難者であるということができます。

鈴木大佐に対してマン・ソウブが「自分の命を差し出すのでカレン民族に対する怒りを解いてください」と懇願したため、カレン民族がどのような状況にあるのか、カレン民族がどのような気持ちを持っているのかを鈴木大佐は理解したのでした。

このように、日本の高級軍人のなかにも、鈴木大佐のようにカレン人について理解した人もいたのですが、不運なことに鈴木大佐は日本軍大本営から呼び戻され、ビルマを離れて他の場所に行くことになってしまいました。

しかし、この不運ということについていえば、ビルマ今なお不運な状況にあるといわざるを得ません。

ところで、鈴木敬司大佐がボ・モウジョウというビルマ語名を持っていたように、アウンサン将軍も面田紋次(おもたもんじ)という日本語名を持っていました。30人志士はそれぞれ日本語の名前を持っていました。タキン・シュマウン、後のネウィン将軍の名前は高杉晋といいました。

とにかくビルマはいまだに不運な歴史を背負ったまま、今も不運な状況にあります。

2009/09/14

カレン民族殉難者の日演説(3)

象使いはもうどうやっても象を動かすことができなくなり、先に渡りきった象の象使いに向かって声をかけました。象は、どうやら増水した川を渡るを怖がっているようでした。そこで、すでに渡り終えた象を呼び戻して、立ち止まっているほうの象のお尻を押させてなんとか渡りきったのでした。

象使いは「こんなことは生まれてはじめてだ。不吉なことだ」と語ったそうです。

さて、象たちはそのまま進んでいきます。もう午後3時か4時ごろです。雨も降っていますし、暗くなってきました。すると、この土地に生息し、飛ぶことのできない鳥が、地面をうろうろと走り回っています。

これを見て象使いが「もういやだ。これは何かよくないことが起きるぞ。俺はもう帰る」と言い出しました。

この旅についてはすでに多くの人がその前から心配していました。なかには兵士を随行させたほうがいい、といった人もいました。しかし、ソウ・バウジーは聞き入れず、ほかの若者に迷惑をかけたくないと断って出発してしまったのでした。

さて、その村に到着しました。そして、その翌日の朝早く出発する予定だったのですが、雨が激しかったため、その日は出発しませんでした。ですから、村には二晩泊まったことになります。

予定通りに10日は村に泊まり、そして11日に出発していれば、そのときビルマ軍の部隊はまだかなり遠くにいたので、襲撃を受けることはなかったでしょう。しかし天候の関係で、つまり雨がふり、水が出ている状況でもう一日泊まって、出発が12日になったがために、ビルマ軍の攻撃を受けることになってしまったのでした。ソウ・バウジーたちは抵抗し、反撃をしたのですが、結局、殺されてしまいました。(続く)

2009/09/13

カレン民族殉難者の日演説(2)

1950年8月に起きた出来事をお話ししたいと思います。

8月というのは世界でもいろいろなことが起きた月です。8月6日に何が起こったか、8月9日に何が起こったか、これは日本にいる人ならば誰もが知っていることです。また、その間にある8月8日に何が起こったかは、ビルマの人ならばみんな知っていることです。そして8月12日は、カレン民族ならばみんなが知っている日なのです。

まず1950年8月10日の出来事からまずお話しましょう。ソウ・バウジーはこれから重要な用事があるから旅に出る、と言って、ソウ・サンケーら数名の仲間とともに出発しました。出発地はパプンという町でした。

周りの人はソウ・バウジーに旅行を思いとどまらせようとしました。天気も悪いし、雨も降っています、山道をゆくのは大変ですといって、旅を止めさせようとしたのでした。

この旅の行く先と目的について知っている人は2人しかいませんでした。本人とソウ・サンケーだけです。彼らに同行した人にわたしは直接尋ねてみたことがあります。彼らは自分たちがどこに何しに行くのかについてまったく知らなかった、ということでした。

象2頭を連れた旅でした。象の上に2〜3人が乗って旅をしたのでした。目的地はトッコックーという村でした。このトッコックーというのは鳥の名前です。この村はカレン人にとって非常に重要な村なのですが、現在はビルマ軍事政権に寝返ったカレン人たちがこの村を支配しています。

さて、パプンからこの村に行くには川をいくつも渡っていかなければなりませんでした。雨期なので雨が降り、川も増水しているという状況でした。この象2頭のうち、2番目に歩いていた象の象使いからわたしは直接話を聞いたことがあります。それによると、1頭目の象は、ソウ・サンケーが乗っていたのですが、この象はパプンからトッコックー村に行くのに渡らなければいけない川を無事に渡り終えました。しかし、2頭目の象、ソウ・バウジーが乗っていた象がこの川を越えたがらず、歩みを止めてしまったのでした。(続く)

2009/09/10

カレン民族殉難者の日演説(1)

これから何回かに分けてお伝えするのは、8月16日に池袋で行われたカレン民族殉難者の日式典(OKO-Japan主催)において来賓のポールチョウさんが行った演説です。ポールチョウさんはオーストラリアのパース在住のカレン人難民で、カレン人の定住支援活動やオーストラリア政界へのロビー活動を長年続けている方です。OKO-Japanの顧問でもあるポールさんは、今回この式典のために来日しました。なお、通訳はもちろん田辺寿夫さんです。当日の録音をもとにしたものですが、文責は熊切にあります。

カレン殉難者の日:カレン民族同盟(KNU)の創始者である伝説的カレン人指導者ソウ・バウジーがビルマ軍に虐殺された事件に由来する日。

今日、わたしたちがここに集まったのは言うまでもなく、カレン民族の殉難者を偲ぶためです。

では、カレン民族にとっての殉難者とは誰のことでしょうか。殉難者というものが、行い正しい、きちんとした人だったかどうか、ということを考えてみる必要があります。

ソウ・バウジーには妻が3人いました。これは歴史的な事実です。歴史的な事実というものを、人に気兼ねしたり、組織にとって不利益だからという理由で隠蔽してしまう、あるいは言いつのらない、ということがありますが、これは歴史を改ざん、改悪することです。

どの民族にもこの殉難者と呼ばれる人々がいるわけですが、この殉難者が聖人君子であるとは限らないのです。中には酒を飲む人もいるでしょうし、博打打ちもいるでしょうし、女性のお尻を追いかけ回している殉難者だっているでしょう。歴史上こうしたことは起こりうることなのです。

それでもこれらの人々がなぜ殉難者と呼ばれるかといえば、必要があれば自分の命を捧げる、そこまで目的のためには犠牲にする、人のためにそこまでやる、そうした人物であるからこそなのです。

ソウ・バウジーという人は裕福な階層に生まれた人物です。顔もまずまずハンサムな男でした。イギリスに留学し、法学士の資格を取った人でもあります。

最初の妻はイギリス人の女性でした。その女性との間には、息子と娘の2人が生まれました。息子の名前がマイケル、娘はセルマといいます。マイケルさんはすでに故人ですが、セルマさんままだ存命しています。

2番目の妻はカレン民族の女性でした。2人の間にできた娘のティムーさんはまだ健在で、アメリカに住んでいます。最初の妻は、ソウ・バウジーにイギリスに帰るようにいわれて、子どもを連れて帰国しました。その後、ソウ・バウジーはカレン民族のために一生を捧げることになるのです。(続く)

2009/09/07

マサラの工場

マサラというのは現在のビルマ軍事政権の前の軍事政権、ビルマ社会主義計画党政府BSPPのことで「BSPPのビルマ語呼称からそれぞれの語頭の字母を取り出してつなぎ合わせた、ビルマによくある略し方」とのことである(『ビルマ民主化運動1988』田辺寿夫著p138。ここにはこのマサラという言葉に関するいろいろ面白い話が書かれている)。

さて、これからお話しするエピソードはまさに女性差別に他ならないが、ひとつ記録として書き残しておこうと思う。

ある在日カレン人がある既婚女性に面と向かって「あなたはマサラの工場みたいだね」と言った。

つまり当時のマサラの国営工場が何一製品を製造できなかったことをもって、彼女がいまだに子を生していないことをからかったのである。

またこの人はかつてこんな言い回しを教えてくれたことがある。

「ビルマのタバコは短いのが(短くまで吸うと)いい、女性は若いのがいい」

2009/09/02

半可通

ビルマの多くの民族には冠称と呼ばれるものがあって、文字通り「名前に冠する称号」なのだが、これによって、その人がどの民族に属し、男性か女性か、社会的な地位などを表示することができる。

たとえばカレン人の冠称はSAW(男性)とNAW(女性)で、これが名前の前に置かれることでその人がカレン人の男性(もしくは女性)だと分かる仕組みになっている。

とはいえ、このSAWとNAWというのは、カレン人のすべてが用いているわけではない。この冠称を用いるのは、カレン人でもスゴー・カレンと呼ばれる民族で、13以上とも言われるカレンの他の民族集団は別の冠称を用いている。

スゴー・カレンと並ぶもうひとつの大きな民族集団、ポー・カレンの冠称はSA(男性)とNANG(女性)である(ポー・カレンはさらに西と東に分かれるが、この冠称がどちらのだかは忘れた。また男性の年配者にはMAHNという別の冠称もある)。

在日カレン人にポー・カレンでありながらSAWという冠称を持つ人がいる。

その理由を聞いたら、こんなエピソードを話してくれた。

「わたしが中学生の頃のことです。その学校にはビルマ人もおり、また仏教徒ポー・カレンでしばしば見られるようにわたしもビルマ風の名前であったので、わたしは自分の民族の冠称を使わずに、ビルマ民族と同じ冠称MAUNG(若い男性の冠称)を用いていました。するとあるとき、わたしがカレン人であることを知ったビルマ人の学校の先生がこんなことを言い出したのでした。

『カレン人であるきみがMAUNGなど使うことはない。カレン人らしくするがいい』 

そして、先生はわたしの名前の前にSAWを付け、名簿上もそのように変えてしまったのでした。その結果、今もパスポートなどではこのSAWが付いたままなのです。」