2013/05/31

指導者というものは

カレン人の仲間のところで飲んでいたら,かっこいいTシャツを着ているのに気がついた。

「それ,マンシャじゃないすか」

「そうだよ」

敬意を込めてパドー・マンシャと呼ばれるマン・シャラパンはカレン民族同盟(KNU)の事務総長で2008年2月に暗殺された。

わたし自身,何度も会ったことはあるが,親しく話したことはない。

彼はカレン人の融和のために働いた人で,タイのメソットにあった彼の家はすべてのカレン人に開かれていたという(わたしも行ったことがある)。だが,そのオープンな態度が暗殺者の接近を許したのであった。

もっとも,2月にカレン州を訪問したさい,わたしは彼について別の見方のあることも聞いた。どちらが本当かは分からないが,興味深いことだ。

いずれにせよ,彼はTシャツになるほど多くのカレン人に崇拝されており,今のところもっとも最近の英雄の1人と言っていいだろう。

わたしがそのTシャツに目をつけたことを知ると,別のカレン人が余りがあるからあげると言ってくれた。彼はさっそく自宅に探しにいってくれたが,残念ながらなかった。

そんなわけでわたしは写真を撮らせてもらった。

"A Leader Must Have Gone Through A Historic Time in Life"

という彼の言葉は「指導者というものは人生において歴史的な時間を切り抜けねばならぬ」というような意味だろう。

停戦

カチン独立機構(KIA)とビルマ政府軍との間で戦争が始まってもうすぐ2年になる。カチン独立機構(日本)KNO-Japanは6月7日に停戦のアピールを行う予定で,わたしも声明文を訳したり,集会の準備をしたりしている。アピール活動のプラカード用の写真やスローガンを書いた紙の製作も頼まれていて,けっこう面倒くさい。

ところが,今日,双方の間で停戦合意が成立したとのニュースが流れた。

そこでわたしはKNO-Japanの代表のピーターさんに電話をかけた。

ピーターさん「この間頼んでおいたデモ用のプラカードできた?」

「いや,まだですけど」

「え,まだ作ってないの」

「ていうか,停戦でしょ。もうデモだなんだやらなくたっていいじゃないすか」

「ああ,それか! 停戦っていったって,ありゃ紙の上だけ,ビルマ軍は相変わらずカチン人を攻撃してるよ!」

そうそう楽はできない。

で,6月7日のプログラムの詳細に関しては,明日あたりに書きます。

2013/05/29

横浜支局収容所

東京入国管理局横浜支局の収容所の状況についてだが,この日釈放された人の語るところによれば,ブロックは少なくともABCの3つ。Aは非喫煙者,Bは喫煙者,Cはおそらく女性専用とのことだ。

彼が収容されていたのはAブロックで,10ほどの収容房がある。彼の房は6人部屋で,人数分のベッドが並んでいた。しかし,そこに収容されていたのは,3人だけだった。床は畳ではない。

1日の生活はおおよそ次の通り。

7:00 起床・朝食(パン・卵・牛乳)・点呼
9:30〜11:30 フリータイム
11:30 昼食(和食の弁当)
13:30〜16:30 フリータイム
16:30 夕食
22:00 消灯・就寝

フリータイムのあいだは房の扉は開放され自由に行き来できる。シャワー・洗濯もこの時間に行う。 運動場の利用もできるが,今日が午前なら,明日は午後というように決まっている。

被収容者の国籍は,中国,韓国,アメリカ,ナイジェリア,ブラジル,フィリピン,イラン,ペルーなど。ビルマは彼の他にもう1人いたが,彼より先に出た。

不法滞在が収容の理由となっている人はむしろ少なく,刑務所から入管に移されてきた人,あるいは結婚しているのに配偶者ビザが降りない人が多いという。

難民認定申請中なのは,イラン,ビルマ,フィリピンの人だそうだ。

最後に,庁舎内の来訪者向け案内板をここに書き写す。もちろんのこと,ここには収容所に関係する一切は記されてはいない。

3F
企画管理・調査部門     Planning, Management and Investigation Department
処遇・執行部門       Detention and Deportation Depertment
審判部門          Adjudication Department
 仮放免窓口        Provisional Release


2F
申請受付窓口        Application Window
 申請受付         Application Reception
 証印           Approval of Permit
 再入国          Re-entry
 証印転記         Transfer
 難民支援担当窓口     Information and Consultation for Refugee
 行政相談         Consultation and Information
インフォメーションセンター Information Center
総務課           General Affairs Division
 行政相談         Consultation and Information
 情報公開窓口       Disclosure and Other Matters
会議室           Conference Room

1F 
面会窓口          Visiting Detainees
(一行分テープが貼られて隠されている)
売店            Shop
 収入印紙         Revenue Stamps

2013/05/28

秩序と静穏

(東京入国管理局横浜支局で次のような張り紙をたびたび見かけたので,一応参考までに。はじめの1文は赤字。2013年5月27日)

次のいずれかに該当する場合は,その行為の中止又は庁舎敷地内及び建物内からの退去を命ずることがあります。

1 正当な理由がなく,みだりに庁舎敷地内又は建物内をはいかいする者

2 職員に威勢を示し,面会を強要する者

3 座り込み,立ちふさがり,練り歩き,その他交通の妨害をする者

4 示威行為等のために多数で集合する者

5 みだりに張り紙,落書き等をする者

6 寄付の強要又は物品等の押し売りをする者

7 その他庁舎敷地内又は建物内における秩序と静穏を害する者

東京入国管理局横浜支局庁舎管理責任者

東京入国管理局横浜支局

せっかく,東京入国管理局横浜支局に行ったのだから,ちょっとしたインフォメーションを。

まず入管の横浜支局へのリンク

行き方はJR東日本の新杉田駅からバスまたはタクシー。バスだと210円でこちらが時刻表。タクシーだと1250〜1300円ぐらい。15分はかからない。

ずいぶん昔に元町の横浜入管に行った記憶があったが,2009年にこっちに移転したのは知らなかった。
で,仮放免手続きについて。

来るようにいわれたのは午前の9時から10時の間。この間に手続きすれば,12時半頃には手続きが終わる(つまり出てくる)。

千葉からやってきたわたしは10時を少し過ぎてしまったが,特に問題はなかった。

入管につくと,3階の審判部門仮放免窓口に行く。そこで職員に来訪を告げると,2階の会計課の窓口に連れて行ってくれる。ここで,保管金振込書に住所氏名を記入し,押印の後,入管を出て,新杉田駅に戻る。バスはこの時間は1時間に4本ぐらい出ている。

電車に15分ほど乗って桜木町に着く。そこから歩いて横浜銀行本店に。ばかでかい。銀行2階の日銀代理店が目当てだ。保証金(保管金)を支払って,保管金領収書を受け取る。


電車に乗って,再び入管だ。領収書を会計課に渡すと,しばらく待った後,保管金受領証書ができ上がる。今度はこいつを持って3階に行き,担当職員に渡す。コピーを取ってる。

この受領書の確認をもって,被収容者を外に出す手続きが始まる。内部のことは想像できないが,少なくとも彼は今日自分が出る日であることはまだ知らない。

時計を見ると,12時10分頃。20分ほどかかるので,窓口の待合室で待つか,一階入り口脇の建物内のコンビニに行ってきてもよいと職員の人にいわれる。

そりゃもう腹減ったから,とわたしと同行者はコンビニに。店の入り口の前にはテーブルと椅子が設けてあって,来訪者たちが時間をつぶしている。店の中にも小さなテーブルが2つあって,わたしたちはそこで買ったものをがっついた。

今回わたしが会った2人の職員はみな女性で,対応にイヤなところはない。同行したカチン難民が「品川とはえらい違いだ」と笑う。 彼も収容された経験を持つ。

12時30分に3階に戻る。まだ出てこない。待合室にはイラン人と日本人の家族。2人の子どもを連れている。もう1人年配のイラン人がいて,この家族は彼の仮放免手続きのために来たようだ。そして,若い男の弁護士と,アフリカ系の男性が2人。そのうち1人も今日出てきた人のようだ。弁護士が身元保証人をしているようで,流暢な英語で,しかもやけに大きな声で話している。入管内でデカい顔ができるのは弁護士だけだ。「絶対,わたしのサインを忘れないでください!」 仮放免延長手続きのことだ。

12時45分にわたしたちの目当ての人が出てくる。 リュック背負って,大きな荷物をぶら下げて。

まるで山から降りてきた人のようだった。

ポイントとスタンプ

仮放免の手続きのための東京入国管理局横浜支局に行った。

わたしは品川の東京入国管理局,茨城・牛久の東日本入国管理センターはもちろんのこと,大阪の西日本入国管理センター,長崎の大村入国管理センターにも仮放免手続きのために行ったことがある。今回,新たにひとつ加わったわけだ。

弁護士,人権活動家,宗教家,ジャーナリストならいざしらず,わたしのような普通の人間がこんなに行くものではない。

せめて手続きのたびにポイントかスタンプがつけばな……今ごろ景品のひとつやふたつ,自宅のインテリア代わりに。

おお 人生は ラララ
財布の中の
ポイントとスタンプ

貯まらなくては
意味がない

人生をすっかり棒に振ってしまった。

だが,収容されるよりはましだ。

この日仮放免されたのは,カチン人の男性で去年の12月から収容されてた。半年だ。

特に身体に悪いところはない。中では摂生して体重も落とした。結構なことだ。

彼は手に書類を持って現れる。1枚目は顔写真と仮放免中であることが記されている。2枚目には注意書き,そして空欄が並んでいる。

この書類は肌身離さず持ち歩いていなくてはならない。さもなければ,不法滞在者として警察に捕まってしまう。それこそ,財布にでも入れてだ。

それで,毎月,仮放免延長のためにこの書類を携えて入管に行かなくちゃいけないのだ。仮放免許可延長申請書に身元保証人であるわたしに署名をしてもらって。そして,ひと月ひと月の延長許可のたびに,その空欄に入管職員のハンコが押されていく。

おお,ここにもスタンプが!

おお 人生は ルルル
財布の中の
ポイントとスタンプ

押された分だけ
命がすり減る

2013/05/25

ミッター・スッター

ミッター・スッター(mitta sutta)というのは,パーリ語仏典の言葉で,漢語では「慈経」と訳すようだ。

どういう意味かは分からないが,アシン・ソパカ師はこれを「愛と優しさ」と訳していた。

これは2007年のサフラン革命の時のスローガンで,アシン・ソパカ師がこの言葉を発案した経緯が興味深かった。

1989年のベルリンの壁崩壊のきっかけとなった大衆運動に「月曜デモ」というものがある。もともとはライプツィヒの教会が率いる平和のための小さな集会だったのが,やがて多くの東ドイツ市民が加わるようになり,しまいには歴史を動かすほどになった。

その時のスローガンが「Wir sind das Volk」(われわれは人民である)で,アシン・ソパカ師の解説によれば,このスローガンには政府については何も語ってはいないようでいてその実,「人民」を尊重しない政府に対する痛烈な批判となっているとのことだ。

2003年にドイツに亡命した彼は,この月曜デモについて知り,ビルマでも同じようなスローガン,つまり平和的だが政府を批判しているような言葉がないかと考えた結果,件のミッター・スッターが生まれたのだそうだ。

2013/05/24

自殺と功徳

アシン・ソパカ師はドイツに亡命したのだが,慣れない環境と同居人との軋轢から,ついには自殺を考えるまで追いつめられたという。

自殺というものもまた文化的なものだから,ビルマ人と日本人の自殺観は異なる。あるカチン人が2007年の松岡利勝大臣の自殺のさいに「日本人はビルマ人が絶対に自殺しないようなことで自殺してしまう。これは理解できない」と言っていたことをわたしはいつも考えていて,ビルマの人がどういうときにどのような自殺を思うのかを知りたく思っていた。なので,アシン・ソパカ師の体験談は非常に興味深かった。

彼が自殺を思いとどまったのは,次の3つの理由のおかげだという。

1)自分を愛する家族がどれだけ悲しむか考えた。
2)知人たちは自殺した自分を愚か者だと考えるだろう。わたしは自分の人生を汚すことになるのである。
3)「悩みがあればそれを書き記しなさい 」という本の言葉を思い出し,それを実行した。

これらの理由はいわば,彼を死の縁から引き上げた3本の命綱というわけだが,これらの中でわたしの関心を惹いたのは2番目のもの,つまり自殺が自分の名誉を汚すという考え方だ。これは,日本人がしばしば自分の名誉を守るため,あるいは自分を恥辱から救うために死を選ぶのと対比をなしている。

名誉の自決というとずいぶん古めかしいが,これはその実「謝罪としての自殺」という形に変形されて,今も日本で見られる。「死んでお詫びする」というやつで,松岡大臣もやはりそうだった。

要するに自分の死が倫理的な完成(あるいは倫理的負債の完済)と関連付けられる点ではどちらも同じなのだ。しかし,謝罪と死が本当のところは無関係なのはいうまでもない。

さて,アシン・ソパカ師は自らの体験から,もし自殺を考えている人がいたら上記の3つの点に思いを馳せてほしい,そうすればそのような企てをせずに済むだろうから,と語られた。

しかし,注意すべきはこれは自殺を回避した人の言葉であって本当に自殺した人の言葉ではないことだ。このような3つの事柄に思い至り,それを実行できる人は,そもそも自殺する可能性などほとんどないのだ。

本当に自殺を考えている人にとっては,これらの自殺しないための3つの理由など容易に反駁できる。いや,自死の瀬戸際にいる人は,そのような助けに気がつかないほど追いつめられ,視野狭窄になり,思考が凝り固まってしまっている。

ゆえに,そうした人の自殺を防ぐためには別の方法,手立てが必要となろう。

しかし,そうではあっても,そうしたのっぴきならないどん詰まりに追い込まれないための助けとしては,アシン・ソパカ師のいう3つの理由は効果的であるかもしれない。それゆえ,わたしはあるいは誰かの助けになるかと,ここに彼の言葉を記録したわけである。

けだしわたしにとっての功徳とならんか(意地汚ねえな)。

2013/05/23

アシン・ソパカ師講演会

さて,バンカラ学生のことなどどうでもよいのだった。肝心なのはアシン・ソパカ師の講演だ。

講演の主催は早稲田大学平和学研究所で,平和研究の拠点たるべく創設された機関だ。平和以上に重要なものはなかなかないのでわたしは立派なことだと思うが,これは早稲田のバンカラ学生にはお気に召さぬはずだ。なにしろ連中,年がら年中早慶の闘争に明け暮れているから。

だからもうバンカラはいいって。

アシン・ソパカ師は,1977年生まれのビルマのお坊さんで,2007年のサフラン革命の中心人物の1人だ。

1999年頃からビルマ民衆のための地下活動をはじめ,しまいには2003年にドイツに亡命せざるをえなくなったのだが,国外からビルマへの支援活動や平和行進を行い,それがやがて国内の僧侶たちの動きと重なりあい2007年9月のサフラン革命へと流れ込んでいく。

国外からとはいえサフラン革命の当事者の1人なので,やはりその前後の話が非常に面白かった。

彼は自分の体験をエピソードとして語るすべを心得ている人で,それに宗教者として心の成長のドラマ,内面への眼差しが加わるから,非常に魅力的な講演者・活動家だといえる。

いっぽう,こうした実際的な考え方をする人によくあるように,事態の分析や解釈にはそれほど関心がないようで,この点ではわたしには物足りなかった。

例えば,講演の後の質疑応答で,ビルマの仏教は平和的なのに,どうしてその同じ仏教徒が兵士として残虐なことをするのか,という質問があり,これに対して彼は「兵はただ命令に従っているに過ぎない」と答えた。

しかし,これは答えになっていないばかりではなく(というのもその命令の残虐性の説明を与えないから),非ビルマ民族地域で行われている非ビルマ民族に対する人権侵害や不法行為を完全に説明しもしない。おそらく軍の命令に加えて,兵士の貧困と軍紀の乱れ,そして非ビルマ民族への蔑視を考慮に入れるべきであろう。

さらにいえば,この最後のものこそが,ビルマ軍の残虐さのひとつの源泉である。つまり,他民族,他文化,他宗教への蔑視であり,しばしば非ビルマ民族から「大ビルマ民族主義」と批判される態度である。そして,この極端な自民族中心主義はまた,昔から現在に至るまで日本人が発揮してきた他民族への残虐さ(あるいは思いやりのなさ)の源泉でもある。

アシン・ソパカ師は講演の最後に「日本とビルマとの間にはよくない歴史があったが,これからは将来のために過去は忘れて,過去は許してともに働きましょう」と語られたが,俗人であるわたしにはこれはいかにも優しすぎた。

むしろ過去は忘れずに,日本の統治期間に失われたものすべて,それこそ髪の毛一本に至るまで明らかにしようという決意とともに日本とビルマがともに働くことなしには,われわれは本当の意味で許されないであろう。

いや,許されることが本当の目的なのではない。われわれとしちゃ,いつまでも残虐さの根っこを抱えて生きていくわけにはいかないのだ。

2013/05/22

バカ田大学

アシン・ソパカというビルマのお坊さんが来日していて、今日の午後、早稲田大学というところで講演をするというので行ってみた。

早稲田大学はバンカラ学生が名物で、わたしはぜひとも目撃したいと思っていたが、それらしき人はいなかった。少々早すぎたのだろう。たぶん夜行性なのでは……。

さんざん迷ったすえに会場のある建物を見つける。立派な校舎でどこが入り口かも分からない。なんとか中に入ったが、今度はエレベーターに辿り着くまでが一苦労だ。

建物をさまようわたしは次のような張り紙があちこちにあるのに気がついた。


静粛であるのが当たり前の学校内でこうした張り紙があるということは、おそらくこうでもしなければ、ところきらわず放歌高吟したいというバンカラ学生たちの気持ちを抑えることができぬからであろう。

バンカラ学生諸君には出会えなかったが、その豪放破天荒ぶりをうかがわせるこの張り紙を見たことで今回はよしとしたい。

しかし、それにしても、バンカラに対するに「静粛」の文字をもって応ずるとは、まさに「ペンは剣よりも強し」の校風を地でいく話ではないか。

夫婦と親子

仮放免手続きのために茨城県牛久の東日本入国管理センターに行った。

手続きを始めてから、収容されていた人が最終的に「シャバ」に出てくるまで、遠くの銀行までタクシーで保証金を収めに行ったりする手間を含めて約2時間ばかりかかる。

半分ぐらいが待ち時間だ。

さて、その日はわたしの他に手続きをしている人がもう1人いた。

フィリピン人の女性で夫を待っているのだという。彼女はわたしも同じ境遇、つまり妻か家族の誰かの仮放免のためにここにいるのかと思って話しかけてきたのだ。

もっとも、わたしのほうには出てくる人との間になにも格別なものはない。在日ビルマ難民たすけあいの会の仕事のひとつだ。

わたしの素性を知ると彼女は興味をなくしたようだった。その後わたしたちは別々のタクシーに乗って、常陽銀行龍ヶ崎支店に行き、それぞれ保証金を納入し、再び別のタクシーで牛久の入管に戻った。

そこでさらに待つと、いよいよお呼びがかかる。わたしたちは入国管理局の担当職員に連れられて、建物の外に出て、収容棟の一角で待機させられる。通常は入ることのできない部分だ。

せっかくなのでわたしは彼女から話を聞く。夫はペルー人で収容されて2年間になる。2人は日本で出会って結婚したのだが、日本政府が2人を夫婦と認めてくれない、つまり、以前日本人と結婚していたことがあり、ビザを持っている彼女の配偶者として彼を認めてくれないのだ。それで、彼は不法滞在者として収容され、今回は12回目の仮放免申請なのだという。

仮放免申請からその結果が出るまで通常5〜6週間かかる。だから、2年に12回ということは、ほとんど間隔を空けずに申請し続けていたということだろう。

やがて、2人の男たちが荷物を抱えて収容所と外部を隔てる鉄の門をくぐり抜けてくる。彼らはいわば国境を越えたのだ。

わたしたちは収容棟の待合室を出る。フィリピンの女性は夫に抱きついている。優しそうな大男だった。

今回、彼女が払った保証金は10万円。わたしのほうはといえば30万円。この違いが何を意味するのか分からないが、夫婦にとって良い徴であればいいと思う。

抱き合う2人を尻目に、わたしはわたしで自分の連れと歩き出す。彼も1年と1ヶ月ぶりの外だ。絵が上手な人で、ヤンゴンに残した2人の息子の顔を丁寧に描いた鉛筆画を面会のさいに見せてもらったことがある。

明暗

上野をぶらぶらしていたら、カチンの友人に出くわした。

もう10年近くも前のことだが、彼は茨城県の牛久に3年近くも収容されていた。

今は日本での滞在許可も得て、落ち着いた暮らしぶり、といいたいところだが、いつも振る舞いにこわばったところがあり、不安そうだ。

それは彼が心に恐怖を抱えているせいなのだが、これはビルマ軍の凄惨な弾圧の中を生き抜いてきた人々、とくに非ビルマ民族の人々が程度の差こそあれ共有している恐怖だ。

先に声をかけてくれたのは彼のほうで、わたしたちはアメ横の雑踏の中、しばし立ち話をした。

今携帯が使えなくなってしまったので、新しい携帯ができたら電話番号を教える、と彼は言った。

どうしてそんなことになったかというと、通話料金が彼の知らない内に9万円を超えていたのだという。不審に思って通話明細を見ると、覚えのない通話記録がある。誰かが不正使用しているのだ。

「それで、警察に行ったのです。すると警察はまず電話の会社に行けという。そこで電話の会社に行くと、警察に行けという……」

わたしは出口のない入管収容所に閉じ込められていた頃の彼を思い出した。

「……コンピューターに詳しい人に聞いたら、他の人がそんな風に勝手に使うなんてことはできないと言われました。ですが、わたしはそんなところに掛けた記憶はないのです」

彼の口の周りがかすかに痙攣するのに気がついた。携帯の話が終わると、わたしたちは別れた。彼は老眼鏡を買いに100円ショップに行く途中だった。

わたしは彼が経験してきたに違いないさまざまな理不尽を思った。入管への収容も、9万円の損もそのひとつだった。

さあ、暗く不景気な話はもうたくさんだ。別の非ビルマ民族がロト6で38万円を当てた!

彼は難民認定申請中でいろいろと困っていたが、ま、こういう幸運もあったっていいだろう。

彼はそのお金の一部をヤンゴンの家族に送金し、一部を自分の民族のために寄付し、さらにほんの一部、正確には700円ほどをわたしの昼飯のためにはたいてくれたのであった。