2009/05/10

ザイタンクンアさんの遺体(2)

葬礼に関する打ち合わせが終わると、斎場の職員はぼくたちを霊安室に案内してくれた。

ザイタンクンアさんの棺が冷却装置から引き出され、白いクッションに囲まれた彼の黒ずんだ顔があらわになると、チンの人々は一斉に嘆き声をあげた。

在日チン民族協会(CNC-Japan)の会長であるタンさんは、まるで何かを押しとどめるかのように、広げた手をザイタンクンアさんの頭の上に伸ばし、声を出してチンの言葉で祈り続けていた。

その祈りの中に、ぼくは自分の名前を聞き取ったので、霊安室を出た後、タンさんに何と言っていたのか尋ねてみた。以下がその答えである。

「遺 体のそばにいる彼の霊が、われわれ生者に害をなさないよう、語りかけていたのだ。彼は家族のことを心配しているに違いないから、その気がかりから解放して やらなければならない。だから、われわれここにいる者がしっかり面倒を見るので安心しなさい、安らかに眠りなさい、と言い聞かせたのだ。

これは、キリスト教の信仰ではなく、チン人の伝統的な信仰に基づいている。

ま た、われわれはCNC-Japanとして、ザイタンクンアさんに対して『あなたはもう亡くなったので、わたしたちはあなたをもうメンバーとして認めませ ん』という公式文書すら出すつもりですらいる。なぜなら、さもなければ彼は死んでもなお自分が生者の世界に所属していると信じ続けてしまうからだ。

CNC-Japanの会長であり、また日本のチン人コミュニティのリーダーでもあるわたしにとって、彼の魂の行方に責任を持つのは当然のことだ」

以前、カレン人の難民が亡くなった時も、その人が所属していた政治組織がこれ似たような公式声明を準備したとか、しなかったとか聞いたことがあるから、これはチン人だけの習慣ではないようだ。あるいはビルマ民族にも同じような習慣があるかもしれない。

もちろんわれわれ日本人の多くも死者の霊を恐れ、またその安らかな行く末を祈るが、だからといって公的な「絶縁状」を出すまでにはいたらない。われわれにとって死者に対するそうした扱いは、かえって敬慕に欠けるような印象を与える。

なんにせよ、チンの人々が死者をあえて突き放す象徴的行為と、遺骨をそばに置くのを恐れる心理には、関係があるにちがいない。

さて、タンさんは祈り終わると、同行しているチンの若い女性とぼくに、ザイタンクンアさんの遺体の写真を撮るように求めた。チンの女性は平気でフラッシュを焚いて写真を撮り、タンさんたちも棺を囲んでまるで記念写真のようだ。

ぼくとしては、死んだ人の写真を撮るのはそれこそ「敬慕に欠ける」ような気がして、おそるおそるシャッターを押す感じだ。

これもまたチンの人々と日本人の感覚の違いの一例といえるかもしれないが、そうとばかりも言い切れない。

な ぜなら、たとえ遺体であろうとも、同じ民族の仲間の姿をしっかりと記録に残す、というのは、ビルマ軍事政権によって文化と言語を育む権利を奪われてきた、 いいかえれば伝統と歴史を奪われてきた非ビルマ民族にとって、自分たちの歴史を作るという意味で重要な意味を持つからだ。

それに、ビルマ政府から見捨てられた1人の難民の生涯を、同じ境遇の難民以外に誰が記録し、歴史の一部として後世に伝えることができようか。

そんなことを考えると、死に顔を写真に撮ってくれという頼みも拒否することはできないのだ。気分はあまり良くないが。