ぼくが大学生だったのは90年代のことで、バブルに浮かれていた時期でもあったが、そんな華やかな時代でも60年代の学生運動の残響が、かすかどころかときおりガンガンと鳴り響きはじめる、そんな迷惑な大学にいた。
ぼくはある偶然のいきさつからその大学で社会活動系のサークルに所属していて、そのサークルはマルクス主義とか左翼思想とは無縁だったけど、60年代70年代の学生運動期を生き延びたこともあり、やはりその「時代の空気」を多分に残していた。
学生のサークルというものは目的もさまざまだが、その成員の精神的成長を考慮に入れるというのは多かれ少なかれ共通していると思う。
「自己啓発」的なノリではなくても、学生というものが学年という階層で仕切られ、やがては卒業していく学生が活動を下の学年に伝えることでサークルの伝統を形成していくという性質がある以上、何らかの意味で「育てる」ということが日常的な営みとして意識されるようになる。
とはいえ育て方といってもいろいろある。体育会系や、音楽サークル、趣味のサークルに応じた育て方があるにちがいない。もっとも、ぼくは自分の所属していた社会活動系のサークルのやり方しか知らない。
さて、ぼくが学生だった頃のそのサークルでは学生の成長とはこんなふうな3段階を経るものと考えられていた。
①強烈な体験、鋭い問いかけ、厳しい言葉などによって今までの自分を否定される。
②否定された状況の中で、真剣に自己を問い直すことで、自分の殻を破る。
③新たな自分へと成長する。
このような成長モデルがどこでどのように生まれたかは知らないが、その起源が正反合のヘーゲルの弁証法にあるのは間違いないと思う。ぼくはずっと後になってこのことに思い至り、これを「ヘーゲル弁証法的成長観」と呼ぶことにした。
とはいえ、ぼくはヘーゲルの思想について詳しく学んだことはないから、この「弁証法」もあくまでも通俗的な理解にすぎない。しかし、社会に与えた影響を考慮するのならば、むしろこの俗流理解こそ重要なのだ。