田中龍作記者による記事「長井さんのおかげ」在日ビルマ人在留特別許可急増[JAN JAN]についてこれまでくどくどと論じてきたわけだが、最後にひとつだけ付け加えたいことがある。
それは、たとえ法務省がビルマ人に対する在留特別許可(難民認定ではなく)を人道的配慮から急増させていることをプラスに評価するとしても(急増しているわけでもなく、またそれほど人道的でもないというのがぼくの結論だが)、それが長井さんの死のおかげだとは断じて言えないということだ。
その好転は、むしろ、入管での長期の収容生活や厳しい難民審査を耐え抜いた数多くのビルマ国籍難民認定申請者たちの不屈の精神、日本人の弁護士と支援者たちの献身、そして不備のある法体制の中なんとか人間的であり続けようとする入管の(一部の)職員たちの労苦にこそよるものなのだ。
そして、それでも長井さんの死が法務省の態度に影響していると主張するのなら、ぼくは彼の死とともに、入管での長い収容の後に死んだ人々や、あのサフラン革命の弾圧で殺された僧侶たち、市民たち、あるいはビルマのあらゆる辺境で軍事作戦の犠牲となっている非ビルマ民族の子どもから老人までのあらゆる人々の死もまた、同じような、いやそれ以上の影響力を持っていることを指摘したい。
なぜなら、これらの悲惨な死の総体こそが、難民性の根拠となる迫害の事実そのものなのであるから。
「『ナガイサン・イェ・チェズージャウン(長井さんのおかげです)』は今、在日ビルマ人の流行り言葉となっている。 」と記事は締めくくる。
ぼくはこんな言葉は聞いたことがない。もっとも、だからといってそれが記事の真偽に関わるわけではないが。
だが、なんにせよ、これはあくまでも心優しきビルマ難民の日本人に対するリップサービスとして受け取っておいたほうがよさそうだ。まともな政治活動家が、そのようなことが本気で言えるはずがないのだ。それは、ビルマで殺された数知れぬ人々の死を蔑ろにするに等しいからだ。
だから、もし仮にこんな言葉を大真面目に口にする難民がいたら、われわれ日本人としては、軽率にも得意がったりせずに、逆に眉をひそめるかたしなめるかしたほうがよい。
政治家や政治活動家が人の死を軽々しく称揚するとき何が起きるか、それはわれわれの重々承知するところなのだ。