これだけ多くのビルマ国籍者が難民認定申請をし、ほとんど毎日のようにビルマ大使館前で抗議の声を上げているにもかかわらず、いまだに入国管理局に収容されてから難民申請をする人が後を断たない。
もちろん、そうした人々に止むに止まれぬ事情のあることはわかっている。自分が難民申請することで、故国の家族に何が害が及ぶのではないか、あるいは年老いた親を故国にひとりぼっちにしたままで亡命などできない、などなど、そうしたジレンマに思い悩んでいるうちに結局、オーバーステイで逮捕・収容されてしまうのである。
しかし、収容中にあわてて難民申請するのと、外から申請するのとでは大違いだ。収容中に申請した場合、収容期間のロスは言わずもがな、仮放免のための保証金・保証人も必要だ(これはなかなか大変)。また収容中の身で審査を受けるというのは、準備の点で著しく不利だ。難民認定申請にはそれなりに証拠資料集めが必要だが、収容所ではそれも思うようにはできないのだ。
そのせいか、収容中に申請した人が1回目の申請で認定されることはまずないように思う。
だから、ビルマに帰ることができない事情がある人は、早めに腹を決めて申請すべきだし、それをするだけの覚悟がないまま、収容されたからあわてて申請し、やれ保証人だ保証金だと頼んでくる人の面倒をどうして見なくてはならないのか。それならば、ずっと以前から申請してるのにもかかわらず、認定されずに収容されてしまった難民のほうを優先すべきではないか。
と、こんなふうなやや厳しい意見を、BRSAの打ち合わせで開陳したら、おそらくバチが当たったのであろう、その同じ日に「申請しない人」に2人立て続けに出くわした。
2人とも、古くから、つまり今のように誰も彼もが難民申請する前からぼくの知っているカレン人のキリスト教徒だ。
そのうちのひとりは久しぶりに会った人で、ぼくはとっくにビルマに帰ったに違いないと思っていた。
「帰れないのなら、申請したほうがいいですよ」
「わたしは本当に帰れないのです。難民認定申請書もすでに書いてあります。しかも2回も書き直しました。ですが、ビルマにいるわたしの妻は重い病にかかっていますし、外国で勉強しているこどもが卒業するまで学費を支えなくてはなりません。そのためには仕事を続けなくてはならないんです。きっと収容されたら申請するでしょう。その時は神様が決めてくださるはずです」
もうひとりのカレン人はたびたび会う人だが、近頃は政治活動の場でも姿を見かけるようになった。そんなわけで、ぼくはデモなどで顔を会わせるたびに申請を勧めていた。
「いつもいうから、うるさいと思うかもしれませんが、日本でこんなふうに政治活動をするのならば、早めに申請したほうがいいですよ」
「ああ、みんなそういいますよ。もちろんわかってます。みんなわたしのことを心配してくれているのです。ですが、わたしには申請をしない理由があるのです。これは自分しか知らないことです。もしわたしが申請をすべきならば、神様がわたしを入管の収容所に入れることでしょう。そうならないということは、まだ申請すべき時ではないのです。その時は神様が決めてくださるはずです」
「それならぼくはもう、申請してくださいとはいわないようにします・・・・・・」
おお、偉大なるかな、神!
だが、いかに偉大な神がいようとも、これらいずれは収容されるかもしれない人々の仮放免許可申請のための保証人となるのは、つねに人間なのである。