ご存知のようにビルマとイギリスは戦争を3回しています。
第1次英緬戦争、第2次英緬戦争、第3次英緬戦争と呼ばれていますが、この第3次英緬戦争でビルマ王朝は敗北し、1885年にビルマ王国は完全にイギリス領となりました。
イギリスはビルマを植民地としました。つまり、ビルマの歴史にとってイギリスはたいへん大きい存在なのです。
もうひとつ影響力のある存在がどの国かというと、それは日本です。
日本人が直接ビルマを支配した時代はたった3年の期間でしかありません。
ビルマ語でジャパンキッ(日本時代)と呼ばれるこの時期は1942年5月から1945年8月頃までです。
現在ビルマを支配している政府を軍事政権と呼んでいますが、日本時代は日本軍がビルマを支配する日本軍政の時代でした。この軍政はビルマでたいへん悪いこと、ビルマの人々にたいへんひどいことをいくつも行いました。
その日本時代、ビルマで起こったことの中で重大な出来事は、カレン民族とビルマ民族との衝突といわれる数々の事件です。
日本の軍人、飯島大尉はビルマ独立義勇軍(BIA)とともにカレン民族の掃討戦を行っていたわけですが、デルタ地帯で彼が逆に殺されてしまったという事件がありました。
この時期、あの30人志士を率いてビルマに凱旋したBIA創設者、鈴木敬司大佐、ビルマ語名ボ・モウジョウは、カレンの指導者とこの事件について話し合いをしました。
その時にボ・モウジョウに会ったカレン民族の指導者はマン・ソウブという人でした。彼は、鈴木敬司大佐の前にまずひざまずいて「わたしを殺してください。わたしを殺してください」と慈悲を乞うたのでした。
マン・ソウブはカレン民族にとって初期の殉難者であるということができます。
鈴木大佐に対してマン・ソウブが「自分の命を差し出すのでカレン民族に対する怒りを解いてください」と懇願したため、カレン民族がどのような状況にあるのか、カレン民族がどのような気持ちを持っているのかを鈴木大佐は理解したのでした。
このように、日本の高級軍人のなかにも、鈴木大佐のようにカレン人について理解した人もいたのですが、不運なことに鈴木大佐は日本軍大本営から呼び戻され、ビルマを離れて他の場所に行くことになってしまいました。
しかし、この不運ということについていえば、ビルマ今なお不運な状況にあるといわざるを得ません。
ところで、鈴木敬司大佐がボ・モウジョウというビルマ語名を持っていたように、アウンサン将軍も面田紋次(おもたもんじ)という日本語名を持っていました。30人志士はそれぞれ日本語の名前を持っていました。タキン・シュマウン、後のネウィン将軍の名前は高杉晋といいました。
とにかくビルマはいまだに不運な歴史を背負ったまま、今も不運な状況にあります。