2012/05/13

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(2)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の2回目。)

2.カレン民族の歴史と文化

文化史

カレン民族はモンゴルに起源を持ち、4000年ほど前にそこから移住をはじめた。われわれが中国を経由し、現在ビルマ、サルウィン川、イラワジ渓谷と呼ばれている地域に到達したのは3000年ほど前である。カレン人はその時代には民族としての一体感を持つに至り、その結果、独自の暦も使われるようになった。その暦によれば今年(2003年)は2742年となる。

1931年 に英国によって行われた最新のビルマの人口統計によれば、カレン人の数は140万ほどと見積もられている。しかし、これははなはだしく過小な見積もりである。調査そのものは、イギリス人に代わって、大部分はビルマ民族出身である役人によって行われ、われわれの信じるところによれば、彼らはカレン人仏教徒をビルマ民族として計算したのである。1942年には日本軍がカレン人口を450万と見積もっている。現在の人口は、800から1000万人の間にあると信 じられており、そのうちおよそ100万人がカレン州に住み、残りはペグーから、ラングーン、メルギ・タヴォイにまでいたるビルマ南部のデルタ地帯に広がっている。

(注:カレン州の境界は、ビルマ初代首相のウ・ヌによって決定されたものである。この州境は、カレン人が伝統的に生活してきた土地のうちのわずかな部分を含むに過ぎない。「道、もしくはその名に値するようなものは、この下部地方では全く知られていない。森の中をあちこちに伸びる踏み しだかれた小道のみが……あるのが分かるのみで、その道が、この土地を耕作しているカリアン族[カレン人]の頻繁に行き来するところとなっているのだ。」 『ビルマ戦争を語る』スノッドグラス少佐著、1827)

カレン人は歴史的に(現在も大部分がそうだが)、渓谷や、平野、山岳地帯に住み、農 業、狩猟、採集によって生活の糧を得る田舎の人々である。ビルマの南部と南東部に拡散した結果、下位集団が形成された。これらの下位集団は、ひとつには言語の違いによって区別されるが、この区分そのものは19世紀初頭のアメリカ人キリスト教宣教師の影響に端を発するものである。

カレンには、 ポー語とスゴウ語という2つの文字を持つ言語がある。これらはそれぞれヴィントン牧師とウェイド博士という2人の宣教師の協力によって作られた。これらの文字を持つ言語はより正確には方言として扱うことができる。というのも、双方とも同じ文法をもち、語彙の80パーセントが共通するからである。デルタ地帯にはポー語と スゴウ語の双方の話者集団がいる。山岳地帯にはブウェ語として知られるポー語の下位方言を使用するカレン人と、パク語として知られるスゴウ語の下位方言を用いるカレン人がいる。山岳地帯にはこれ以外にもさらなる文化的な多様性といくつもの下位方言が存在する。

カレン民族はまたカレンニー民族とも関係がある。カレンニー民族は現在50万から60万の間の人口をもつと見積もられており、ブウェ語を使用している。しかし、カレンニー民族は、カレン州のすぐ北に独自の州を持ち、また独自の文化と歴史を持つ点で、カレン人と区別される。カレンニー人は、領主をいただく封建的政治構造を持つ点で、さらに北にいるシャン民族と似ている(この領主はシャンでは藩王として知られる)。カレン人は平等主義者である。われわれは封建的社会というものを持たなかった。

カレン人は伝統的に、精霊を信仰するアニミストであった。しかし、この精霊信仰は、他のアニミズム信仰の社会によくあるように特定の自然精霊を複数信じるということに眼目をおいたものではなかった。そうではなく、カレン人にとっては水と大地と空の主人が偏在していたのである。さらに、ある最上の精霊が、水と大地と空を支配するという信仰があった。精霊の力をひとつの中心へと集めるこの伝統によって、カレン人は事実、宣教活動の影響のもと、キリスト教一神教へと容易に移行していったのである。現在おおまかに見積もって40パーセントのカレン人がキリスト教徒、40パーセントが仏教徒、残 りの20パーセントがアニミストとなっている。仏教徒の多さの一因となっているのは、仏教では伝統的な宗教行動の多様性が許容されているのに対して、キリスト教では逆に禁止されているということにある。

最後に、カレン州の名前であるコートゥレイについて述べるならば、これはしばしば「光の大地」と訳されるものの、さらに言葉通りに訳すならば「悪のない大地」となる。