「写真は恐怖を写し出す」を読んでくださったある方が、ぼくに「入管の職員にでもなりたいのか」と冗談まじりに尋ねた。
これはぼくがあるビルマ国籍の活動家を批判したことを指しているのだが、もちろんぼくは入管の職員になりたくってあんなものを書いたわけではない。
だが、読んでくれた人のなかにはそんな風に誤解した人もあるかもしれない。そんな風にというのは、あたかもぼくがある人物を偽の難民だと告発しているかのように、という意味である。
だが、読んでいただければ分かるように、ぼくはそのようなことは一切言っていない。それどころか、ぼくはその人物がまぎれもない難民であり、ビルマに帰国すれば間違いなく殺害される、と考えている。
むしろぼくがほのめかした、あるいははっきりと言うべきだったのは、難民だからといってまともな政治活動家とは限らない、という単純な事実である。
この点に関しては、当のビルマ難民にも誤解している人がいる。つまり、ある人が在留特別許可ではなくて難民認定されたのは、その人が政治活動家として優れているからだと、考えてしまうビルマ難民もいるのである。
だが、入管はあくまでも難民かどうかを判定するところであって、政治活動家として優れているかどうかを決めるところではない。もちろん、優れた政治家活動家、影響力のある政治活動家は難民である可能性は高いが、そうでなくても難民として認められる理由はいくらでもあるのである。
たとえば、ビルマのいわゆる少数民族が直面している民族的迫害がそれだ。民族を理由にした迫害はその被害者がただ単にある民族に属しているという理由のみで起こりうる。つまり被害者の人格や才能は民族的迫害においては本質的な原因とはならないのである。
それに、優れた政治家のみが難民となるとしたら、ある避けがたい矛盾に直面することとなる。すなわち、優れた政治家のみがビルマで命を狙われるということは、迫害者である軍事政権がその政治家の優れている理由や民主主義の価値というものを深く理解しているということ、民主主義的政治活動の優れた判定者であるということを意味していなくてはならない。だが、ある政府が民主主義というものを心底理解しながらそれを拒絶するということはありえないのである。
軍事政権が民主主義を拒絶するのは、民主主義を理解していないからだ。それを何か恐ろしい脅威とみなしているからだ。軍事政権はこの恐れに突き動かされて、よい活動家であろうと悪い活動家であろうと、糞も味噌も一緒に政治に関わる者を全てを見境なく踏みつぶしつづけているのだ。