2009/08/14

写真は恐怖を写し出す(7)

さて、2009年1月のこと、在日カレン人がカレン民族新年祭を東京で開催することになった。カレン民族新年祭というのはカレン人の伝統行事のひとつで、日本でも毎年開催されている。ターターの団体は1月のある日曜日を開催日として提案したが、他の2グループは別の日曜日を押し、結局多数決で後者の日程に決められた(ターターの団体はメンバーがビザを取ると次々に離れていくので、公称上はともかく人は少ない)。すると、ターターは次のように言い放ったという。

「わたしたちの団体は今年の新年祭には協力しない。お前たちだけでできるならやってみろ」

ターターの読みとしては、いずれ自分の力が必要になって泣きついてくる、あるいは新年祭が失敗に終わり、そのことで自分の存在感をかえってビルマ人社会、そして日本人社会にアピールできる、というものだったと、ある人はいうが、3年前だったらそれも成立したかもしれない。当時は難民として認定されていたのはほとんどターターとその取り巻きのみで、誰もが一目置かざるをえなかったのだ。

だが、時代は変わった。今では他の2グループのメンバーもほとんどが難民ビザ、あるいは特別在留許可を認められていて、かつてのように無力で寄る辺ない存在ではなくなっていた。むしろターターの言葉に他の2団体は「バカにするな、自分たちでやってやれ」と発奮したぐらいなのである。

結果からいえば、新年祭は成功だった。ぼくはその日、別の用事があってここ数年ではじめてカレン新年祭を欠席したのだが、夜、たまたま高田馬場の駅で出会ったカレン人の知人が、興奮気味にいかに多くのカレン人が集まり、楽しく祝い合ったかを話してくれたのを覚えている。しかも、参加者はカレン人ばかりではなかった。ビルマ民主化団体、非ビルマ民族の政治団体の代表たちも会場にやってきて、歌と踊り、そしてカレン料理を満喫したのだという。

いっぽう、ターターは、自分の団体のメンバーたちに新年祭への参加を厳しく禁止していた。そればかりではなく、彼は別の団体に所属するあるカレン人に対し「あなたはカレン人としてふさわしくないから行くな」などという電話をしていたのだそうだ。そのカレン人は迷った末に遅れてやってきたため、電話の内容が明らかになったわけだが、ターターとしてはあらゆる手を使って、この新年祭を失敗に終わらせようと頑張っていたのだった。

だが、このカレン新年祭そのものは、どこの政治団体のものというわけではない。在日カレン人みんなのものだ。しかも、多くのカレン人にとっては、年一度の楽しみといっていいほどの喜ばしいイベントだ。そのようなわけで、ターターとその取り巻きは姿を現さなかったものの、一般メンバーのうち数人は禁止をものともせずやってきて、他のカレン人と一緒に喜びを分かち合わずにはいられなかった。

これらのメンバーは、普段はターターから他のカレン人と話をするなときつく命じられているので、いつも黙っているが、今回はありがたいことにターターたちの監視の目もない。大いに羽根をのばして、はしゃいでいたという。

新年祭も終わりに近づいた頃、毎度のことだが、みんなで記念写真を撮ろうということになった。参加者たちは会場のいっぽうに集まり、並びはじめる。あるカレン人が、隅のほうにいるターターたちのメンバーに気がつき「こっちに来て一緒に写真に入ろうよ!」と呼びかけた。すると、彼らは首を振りながらこう言ったのだそうだ。

「わたしたちが写った写真を議長が見たら命が危ない。それは絶対にダメ!」(了)