これはおそらく、「謝罪する」という行為のもつ役割がビルマ社会と日本社会では異なることに起因するのであろう。
われわれにとって「謝罪」とは、物事を潤滑に進めるためのテクニックのようなところがあって、とにかく謝っていれば、物事は日本社会ではそう悪くは進行しない。
そして、これは重要なことだが、謝罪していても、実際に心のうちではどう思っていてもかまわないのである。謝るという行為自体が重要なのだ。
こうした謝罪には同じ文化を共有し、その謝罪の意味を相互に正しく理解しているという暗黙の了解が必要だ。
その点、他民族や他国との間にはそうした暗黙の了解がないので、日本人はあまり謝罪をしたがらない。自分たちの謝罪を相手が、自分たちの期待している通り理解してくれるかどうか分からないからだ。
他の文化圏への謝罪に関してしばしば言われる「一度謝ると、何度も何度も謝らなくてはならなくなる(それでは毅然とした日本ではない)」という言葉は、日本社会が他の文化に対して抱く「理解されないのではないか」という恐怖のひとつの表現なのだ。
それはともかく、ビルマ社会の謝罪観は、日本のいわば社会の潤滑油的な謝罪観とは異なることは確かなようだ。
とはいえ、それが社会的な権威を損なう何かである、という以上のことはわからない(日本人にとっては逆だ。社会的な地位の高い人が日本人に対して真摯に謝れば謝るほど、その人の好感度は上昇するのである)。
ついでだから、謝罪にまつわるエピソードをいくつか。
松岡利勝大臣が自殺したとき、遺書に書かれた言葉を聞いてあるビルマの人が「ビルマでは死んでお詫びするなんて人はいません」と言った。
少し関係ある別の話。
あるカチン人のオーバーステイのインタビューに参考人として同席した時のこと、入管の調査官がそのカチン人に「あなたはオーバーステイしたことを反省していますか」と尋ねた(これは日本の文脈では謝罪を求めるに等しい)。すると、日本人の通訳が困った顔で言った。「すいません。ビルマ語には『反省』にあたる言葉がないのです。質問を言い換えてもらえますか?」
最後に、ビルマ語で「ごめん」は「ソーリーノー」。
借用語(外来語)は、借り手の言語では言い表すことのできないモノや概念を表す語であるのが普通だが、まさかビルマ人がイギリスに植民地にされるまで謝ることを知らなかったはずではあるまい(もちろん、ビルマ語「純正」の謝罪表現もちゃんとある)。