2011/08/06

骨太の名演説(2)

このロンジー、どのように着るかというと、まず下半身を筒の中に入れる。そして余った丈を脇でピンと張って、その両端を絞るか、ぴったり折り畳むかして、腹のあたりで合わせて丸めるのである。ま、なかなか言葉で説明できるものではない。要するに、これを身につけるにベルトもボタンも紐も用いないということが分かればよい。

わたしがロンジーに着替えるために立ち上がると、ある人がトイレで着替えると良い、と勧めてくれた。これはもちろん、普通はロンジーの下は下着だからである(下着すら履かないこともある)。だがわたしは断って、会場の隅で着替えはじめた。というのも、わたしはたいていズボンの上から纏うことにしているから。

直に履くなんてとてもじゃないが危なすぎて!

わたしはロンジーには慣れ親しんでいるつもりだし、タイ国境に行くときは一日中それで過ごすこともある。だが、それでも真似事に過ぎない。ビルマの人の着こなしに比べれば、わたしのそれはいかにも野暮、優美でも粋でもない。

よく若い人がへその下あたりでキュッと丸くダンゴを作って纏っている姿を見かけるが、これは実にイナセそのもの、惚れ惚れする。だが、不慣れなわたしはそんな風には行かない。

しかも、見た目だけでないのだ。何一つ留める物がないのに、このロンジー、着る人が着ればまったくずり落ちない。ヤンゴンの街角では、財布を腰とロンジーの間に挟んで歩いている人によく出くわすが、これはまったく驚くべきことだ。わたしがそんなことをしたら、財布がいくつあっても足りゃしない。

つまり、ロンジー文化で生まれ育った人にとっちゃ、ロンジーとは確かな相棒みたいなもの。いつだって、しっかりしがみついててくれる。ところが、こちとらベルトの文化で育ったほうにとっちゃ、その逆で、そいつは隙を見ちゃ逃げ出したがる油断のならんヤツだ。ふと立ち上がった瞬間、あるいはちょっと腹に力を入れた瞬間にいくどハラリとほどけ落ちたことか。けだしロンジーとは重力との闘いにほかならぬ。

さて、会場の隅でロンジーを広げていると、友人の一人が巻くのを手伝ってくれた。わたしがやり慣れているのとは違う巻き方だが、きっちりしたやり方なので、総会という公式な場にはふさわしく思える。彼はデジカメでわたしのロンジー姿を撮り、それを見せてくれた。「そう、これこれ!」 わたしはすっかりご満悦だ。

そのまま元の席に戻って隣の席の前会長のZAW MIN KHAINGさんに自慢のロンジー姿をさっそく披露。

そのZAW MIN KHAINGさんの演説の後が、わたしの出番だ。

わたしは前に進み出て、会の旗に敬礼し、演説台越しにALD (Exile-Japan)のメンバーを見渡す。そして、件の骨太の名演説をはじめたのであった。と、思ったら、ロンジーが緩んだ。慌てて締め直すが、例の骨太がもう台無し! みんな笑ってるし。「やあ、愉快な顧問だ!」 

もうなるようになれだ。

ほうほうの体で席に戻ると、ZAW MIN KHAINGさんが「良かった!」と褒めてくれた。おカタい総会にも幕間の喜劇も必要だ、というわけ。なんにせよ、アラカンのみなさんの度量の広さに救われたという一幕で。

《後日談》
そのとき会場に居合わせた友人が、後で「素晴らしい話だった!」と言ってくれたので、うれしくなったわたしは「良かったって、どのあたりが良かった?」と尋ねたら、途端に困った顔で「ちょっとわかりません、すいません」と言われました。