2010/12/31

森の生活(2)

それ以来、わたしは保証人として定期的に仮放免延長許可申請書に署名するほかは彼と会うことはほとんどなかった。どんな生活をして、どんな政治活動をしているのかも知らなかった。ただ時おり別の人から、体調が優れなくて困っているという話だけは聞いていた。

そこで、仮放免から現在に至る1年9ヶ月の間、どのように過ごしていたのかが知りたくなって、入管でのわずかな待ち時間に尋ねてみると、以前務めていた焼肉屋で暮らしていた、との答えが返ってきた。

「社長さんが良いって言ったんだ」と聞くと、かぶりを振って「ミャンマー人、バングラの人多い」

その店で働いているかつての同僚たちが衣食住の面倒を見ていてくれたらしい。彼は仮放免の身なので給与はもらうことはできない。その代わり、店の仕事を手伝って、食事を食べさせてもらっていたそうだ。身体の具合について聞くと、「咳がとまらない」とだけ言った。

わたしは彼がどうして難民申請をしたのかは知らない。また難民となった事情も聞かなかったので、その難民性の高低についても判断できない。しかし、どうして難民申請を止めたかはわかるように思う。貧困以外に想像はつかないのだ。

ビルマの総選挙が終わった。アウンサンスーチーさんも解放された。それももしかしたら帰国に踏ん切りを付けるきっかけとなったのかもしれない。しかし、 もしも彼が日本で別の生活を送っていたら、つまり、経済的にも自立し、医者にもかかることができたなら、その決断はまた別のものとなっていたろう。

すでに述べたように、わたしと彼は握手をして別れた。彼は入管職員とともに執行部門事務室に入っていった。はじめて会ったとき、彼は収容所 で困っていた。その後、釈放されて2年近くさらに困っていた。そしてその困りが高じて困り果てて再び収容所に吸い込まれることとなったのである。ちょうど 森の生活に嫌気がさして里に出てきたものの、村人の厳しい仕打ちにこりごりして、再び古巣に帰ったタヌキのようなものだった。

もっとも彼にはその先がある。入管職員によれば、年末年始で立て込んでいるので、もしかしたらビルマへの送還は年頭になるかもしれないとのことだった。だが、ビルマに帰ったとて、彼が困らないとは誰もいいきれまい。