2010/05/14

サムライは有機日本食に高楊枝

今年の1月ぐらいから、「新しい公共をつくる市民キャビネット」という市民団体の集合体に参加して、政策提言づくりを行っている。ぼくが加わっているのは地球社会・国際部会という部会で、ここで難民や外国籍住民に関する政策提言を提出させてもらった。

部会のことや自分の政策提言のことなどについては、そのうち取り上げようと思うが、それはともかく、4月29日にこの市民キャビネットの全体集会が開かれた。その集会で、福祉、災害支援、男女平等、子どもなどのそれぞれの部会がつくった提言について意見交換がなされた。

ある部会で学校給食が有機食材のものになるよう政府が積極的に支援すべきだ、という政策提言をつくった人がいた。

有機食材はもちろん結構なことだ。農業のことはよくわからないが、安全なものを食べるに越したことはない。

政策提言作成者によれば、子どもが有機食材をぱくつくようになれば、アトピーやキレる子ども、学級崩壊、学力の低下などの問題などがすべて解決するという。にわかには信じがたい話だが、これもまあ大目に見るとしよう。

だが、「日本人本来の体質にあった食事」を子どもたちに食わせるために「学校給食の主食は米、主菜は魚または大豆製品と」するというふうにいわれると、これはとてもじゃないが食えたもんではないという気がしてくる。

「こんなものばかり食べていたら、子どもがみんな和尚さんになってしまう、あぶない!」とぼくは思うのだが、こんなつまらぬ懸念はさておくにしても、これは根本的に2つの点で現状にそぐわない。

ひ とつは、学校給食を食べる子どもが「日本人」であるとはなから決めてかかっている点。つまり、小学校には、韓国人、朝鮮人、中国人、台湾人、ビルマ人、ブ ラジル人、フィリピン人などなどさまざまな国の子どもがいるのだ。そうした子どもに「日本人本来の体質にあった」食生活を強いることにどれだけ意味がある のか。

また、もしあらゆる子どもにとってその出身文化本来の食事を食べさせるのがよいのであれば、日本人の子どもだけでなく、他の文化の子どもにもその「本来」のものを食べさせるべきである。

もし、日本人のほうが数が多いからという理由で、他の文化の子どもたちに「日本人本来の体質にあった」ものを食べさせるとすれば、それはまさに数の暴力だ。

も うひとつは、「日本本来」のという名目のもと、豚や牛など肉食が「日本人本来のものではない」として排除されている点である。要するに、この政策提言その ものが、部落差別を成立させている「穢れ」による差別観を焼き直したものにすぎないのである。つまり、「有機食材」「子どもを守る」などもっともらしい外 観をまとっているが、その奥には肉食に対する忌避、ひいては食肉加工業に対する差別意識が隠されている。

そもそも、日本人が歴史的に獣の肉を食べなかったかどうかは、簡単に答えられる問題ではない。時代や、階層、宗教、職業あるいは生活の場面によって大いに異なるはずだ。それに、沖縄の人々やアイヌの食生活も考慮に入れなくてはならない。

確かに、肉食が一般化したのは、最近の現象であろうが、それ以前も一般化していなかっただけであって、まったく牛や豚が食べられなかった、あるいは、まったく必要とされていなかった、というわけではない。

い ずれにせよ、不確かな歴史的事実や歴史的にみれば比較的最近はじまったことでしかないことが、いつの間に「日本人の伝統」、あるいは擬似科学的な装いで 「日本人本来の体質に適合した」などと一般化されることが多すぎることを考慮に入れれば、この政策提言の「日本人本来」も大いに疑われるべきであろう。

また、そうした過去の歴史的事象の安易な一般化は、その当の歴史的事象に密接に関連している他の歴史事象をも現代に持ち込むことにもつながりうるのだから(この場合では穢れに基づく差別意識)、なおさら熟慮の上行うべきであろう。

その顕著な例が、日本人のサムライ信仰というヤツで、近頃の日本はどこを向いてもサムライだらけだ。そう呼ばれてるだけならまだしも、自称の多いこととき たら! たいした鼻息だ。しかも、色までついている。だが、農工商とエタ、非人あってのおサムライさんであることをいう声など聞いたこともない。ラスト・サムラ イが生き延びる分だけ、ラスト・エタ、ラスト・非人もむりやり生かされ続けるのが道理ではないか。これでは差別もなくなるまい。

話を元に 戻せば、もちろん、ぼくは有機食材を使った食事に反対しているわけではない。ただ、「有機食=昔ながらの食事=日本人本来の食事」という理屈がおかしいと 思っているだけで、有機農業や環境保全という結構な思想が、無意識のうちに民族主義や宗教的原理主義と結びついてしまう危険の一例をここに示したにすぎな い。

有機農業を持ち上げるのなら、「日本伝統の」とかいうように後ろ向き、排他的にならずに、すべての人、どのような文化の出身者であろうと、おいしく健康に食べられる有機農業のあり方を模索するほうが、ずっと生産的なはずだし、そういう観点から政策提言をなすべきだと思う。