2013/06/15

イタい写真

わたしのFacebook上の友人のほとんどはビルマの人で,それは別にいいのだけど,これらの人々は,その置かれている社会状況と,情報リテラシー,特に写真に対する考え方が,日本社会のそれとは異なるので,ときどき実に困ったことが起きる。

いわゆる「閲覧注意」な画像を平気でニュースフィードに乗せるのだ。しかもまったくの善意から。

この善意には,わたしが見るところ,2つのタイプがある。

ひとつは悲惨な画像でビルマの現状に関して注意を喚起しようとするものだ。これはだいたい3つの意図が含まれている。

①ビルマ政府の悪行を広く訴えようという意図。

②ビルマ社会において正義の遂行を求める意図。

③ビルマ社会の不公平さや貧困を訴える意図。

その結果,砲撃で殺されたカチン人民間人の写真,宗教的対立により惨殺された人の写真,災害で亡くなった人々の写真がわたしのニュースフィードに流されることになる。

もっとも印象に残っているのは,何人かの幼児の遺体の写真で,これらの子どもたちは地面に捨てられ腐乱していた。動物に食われているようでもあった。もっとも,それ以上は詳しくは分からない。じっくり見なかったので。

さて,もうひとつの善意は,「かわいそうだから見て!」という形で自分の感じた憐れみや同情心を共有しようというものだ。

これは,さまざまな障害や病気を持って生まれた赤ん坊の写真をシェアするという形で現れる。写真はビルマのものに限られず,この点が最初の善意と異なっている。

これらはたしかに「かわいそう」な写真であるが,だからといってネットという公的な場で拡散すべきものなのだろうか,というのが,おそらく日本社会の普通の感想なのではないかと思う。

NHKの記者の方が言っていたのだが,東日本大震災の報道で遺体をどのように扱うかはひとつの問題で,議論の末に,NKHでは遺体を映像としては映さない,ということになったそうだ。

これは遺体の映像がショックを与えかねないというのももちろんだが,それと同時に亡くなった人の尊厳やその遺族の感情への配慮も大きな理由となったに違いない。

今の日本でのメディアに関するこうした考え方からすれば,被写体の同意のないところで,その被写体が意図しない写真(遺体や著しい肉体的損傷などの写真)を公開するのは,それがいかに同情や共感を呼ぶ内容であろうとも,やはり違和感のあることである。

ビルマ社会と日本社会のリテラシーはこのように異なるのだが,そのどちらがよいかというのは別の問題で,ここでは触れないけれど,少なくとも,いきなりこうした写真を見せられる身にもなってみろ,とわたしはときには文句をいいたくもなるのだ。

そんなわけで,Facebookのフィードを見るときも恐る恐るだ。ヤバそうな写真があるときはさっと飛ばすか,目を細める。

この前も,ちらと見て,うわー,イヤな写真。

なんかの病気だろう。やせ細って,しわくちゃの老人。顔が骸骨みたい……死体か?

と思ったら,キース・リチャーズだった。

GRRR!