日本語を学んでいるビルマ人難民がこんなことを言った。
「一生懸命日本語を勉強して、言葉遣いを学んで、日本人に失礼のないようにしなくちゃ」
この話を聞いてなんとなく暗い気持ちになった。
大人になって学んだ言語が、母語と同じように話せる人というのはまずいない。いるとしたらよっぽどの能力の持ち主で、たいていの人はそこそこというところで進歩は止まる。
つまり、この発言をした人も、いくら上手でも、およそ「ネイティブ」とはいえない程度の日本語能力に落ち着く可能性が高いのである。
そして、日本人に失礼なことが起きないような状態が、完璧に日本語を操ることで獲得されうるのならば、そうした能力に到達しえない人は、常に日本人に失礼なことをしでかさないか恐れながら生きなければならないともいえるのである。
ぼくが暗い気分になったのは、その人の言葉に、日本語を学ぶことで日本人になろうとする悲しい健気さと、その健気さを必ずや砕いてしまうに違いない日本社会のどうしようもない鈍感さを感じ取ったからであった。
日本語教育がこうした萎縮した人間しか産み出せないとしたら、それはもちろん、日本語教育のあり方に問題があるのだ。
日本語教育とは「悲しいえせ日本人」を作るためのものではないはずだ。それは日本語を国際的に通用する「国際語」に育てる過程のひとつでもあるはずだ。つまり、非日本語話者が日本語を話すために身を開いてきた分だけ、日本人も自らの文化をより開放することで、日本人・非日本人の力関係なしに、同じ日本語話者として、コミュニケートし、ともに文化を創造する場を探り当てる、そのための手段そのものが、日本語教育なのではないかと思う。