ビルマにおいては「仏教はビルマ民族ナショナリズムと同義で」ある、とベネディクト・ロジャーズは述べているが、ビルマ軍事政権の宗教迫害政策の背景には、こうした宗教的民族主義がある。だが、この宗教的民族主義とは思うに、ただ単に政策によってのみ発生するものではない。むしろある特定の集団の内部にすでにあった心的傾向が、政策によって煽り立てられるのである。軍事政権は遠からず姿を消し、政策的な宗教迫害も止むときが来るだろうが、この差別的心性が残る限り、非政策的な迫害・差別が軍事政権と命運を共にすることはありそうにない。日本国憲法で「法の下の平等」が定められて何十年も経つにもかかわらず、今なお多くの人が性別や生まれによって差別されているのと同様である。
そればかりではない。軍事政権が長らく続けてきたいわゆる「分断統治」により、宗教と宗教との間に深い溝が生じてしまっている。軍事政権は退場に当たり、ご丁寧にもその溝を修復しようなどとはしないだろう。つまり、この深刻な分断は民主化されたビルマへとそのまま手渡されるのだ。
このような見通しの中で、自分たちの果たすべき役割は何だろうか、と日々の宗教活動の現場で問い続けたキリスト者が導き出した答え、それが宗教間の対話なのであった。もちろん、ただ対話するだけではない。そのようなかけ声だけの対話、「対話することに意義がある」式の対話は、暇つぶしに日本の神学者や宗教者にやらせておけばよい。あの会議で友人の牧師が語った宗教間対話とはまさしく、自分の宗教のもつ排他性、差別性を批判的に見つめながらなされる対話、あらゆる宗教の自由を確保するための対話、あらゆる信仰を持つ人々の命を守るために必要に迫られて行う対話なのである。
対話は、もちろんのこと仏教、イスラム教をはじめとするビルマ国内のあらゆる宗教からの参加があって可能となる。キリスト教徒がキリスト教徒のためだけに行う対話などありえない。
この対話の包括性、非限定性は、日本からのビルマ民主化支援のあり方とも無関係ではない。まず、ビルマにおけるキリスト教徒の迫害は、ひとり日本のキリスト教徒のみが気にかけるべき問題ではなくなった。対話の実現を目標にする以上、日本の仏教徒のみならず無信仰者の関わりすら必要とされている。そして、もっと大事なことなのだが、ビルマにおける宗教間対話の構築過程は、日本における宗教の位置と役割を理解するさいに新たな視点を与えてくれることだろう。公人による靖国参拝など、国家神道的原理主義が、それとはっきり悟られないうちに力を得つつある現在の日本を考える上で、仏教原理主義国家であるビルマにおいて慎重に目論まれる宗教間対話、新たな宗教の自由の可能性の追求は非常に重要な意味を持つように思う。それは日本のみならず世界を席巻しつつある宗教的不寛容といかに立ち向かうかの、貴重な実例となるであろう。日本人はビルマで迫害された人々を支援することもできるが、同じ人々から学ぶこともできるのである。
たしかに、多くの報告書が明らかにしているとおり、ビルマのキリスト教徒は差別され、迫害され、時には命すら奪われるような危機にさらされている。だが、やられているばかりではない。目立たない動きかもしれないが、宗教の自由を取り戻すための闘いが、迫害される人々の間で進行している。これらキリスト教徒たちは単なる弱々しい被害者ではない。苦難の中にありながらも、世界のどこを探しても見あたらない可能性に満ちあふれた強靱な人々なのだ。