2009/02/16

第61回チン民族記念日(1/3)

すでにお知らせしたように、第61回チン民族記念日(Chin National Day)祝典が千葉県市川市にて2月15日に開催された。主催したのは、在日チン人の政治活動家の団体である在日チン民族協会(Chin National Community - Japan)。

千葉の市川、というと在日ビルマ国籍者の政治活動ではまず聞かない地名で、たいていの集会は豊島区か新宿区で行われている。なので、人が集まるかどうか不安視する声もあったが、それでも、約150名のビルマ民主化団体、非ビルマ民族政治団体、日本の支援者、NGO、報道機関などの参加があった。

同じ日にはモン民族の祝典が開催されていたとのことで、参加者の中には祝典の第1部が終わるやいなやそちらのほうへあわただしく移動する人もあった。

祝典には報道機関の方もいたので、あるいはどこかで記事になっているかもしれないが、実際にどのような内容であったのかという記録を多少なりとも詳しく日本語で残しておくのも無意味なことではないように思われる。このBBNでは、第61回チン民族記念日祝典を3回に分けてご報告する。


祝典は2部構成で、1時から2時までの第1部ではチン民族記念日の由来の説明、演説などが行われ、2時15分から4時30分までの第2部ではチン民族の歌と踊りが披露された(お昼にはキリスト教礼拝もあった)。

第1部のプログラムのうち、まず来賓の1人であるウ・トゥンウィン氏の演説を紹介しよう。ウ・トゥンウィン氏はアラカン民族の亡命組織アラカン民主連盟(ALD-Exile)の会長であり、日本支部の招きにより2月8日に行われたビルマ連邦記念日祝典のために来日していた。下の写真で話しているのがウ・トゥンウィン氏で、その背後に立っているのが通訳をしてくださった田辺寿夫さん。以下の要約は田辺さんの通訳に負うものだが、むろんのこと文責は熊切にある。


「アラカン、チン、モン、シャンなどの民族は、イギリス植民地支配以前には、固有の領土を持った独立した民族であった。イギリスからの独立闘争においても、互いに協力して闘ったものであった。1947年のパンロン協定においては、署名した諸民族が苦楽をともにしてビルマ連邦を造ろうと誓い合った。

しかし、独立後の憲法は、シャン、カヤー、カレンニー民族には独自の州が与えられるいっぽう、アラカン民族らには州を認められないという、不平等な憲法であった。

またビルマ民族中心の政治が行われたため、結果として内戦が起きてしまった。とはいえ、非ビルマ民族どうしが戦っているわけではない。

アラカン民族とチン民族は古くから共存してきた。アラカンは仏教、チンはキリスト教とアニミズムというように宗教も異なるが、互いの存在を認め合っている。

『チン民族とアラカン民族が手を組めば、ビルマの兵隊は逃げていく』ということわざがある。このような非ビルマ民族間の協力関係を育み、ビルマ民主化を進めるため、23の非ビルマ民族組織を糾合してビルマ連邦少数民族民主連盟解放区(UNLD-LA)という組織を作った。

UNLD-LAでは幾人ものチン民族の指導者が活躍している。

日本に来てうれしく思ったのは、非ビルマ民族が協力し合っていること。これには感謝を申し上げたい。

チン民族にはチンの土地があり、それはチン民族が治めるべきものだ。アラカン民族もやはり同じような土地がある。

民族自決権の保障される新の連邦国家の実現のために、がんばろうではないか。(以上)」