2011/09/26

難民はかっこいいか

以下の「難民はかっこいいか」は「平和の翼ジャーナル」に掲載してもらったものです。

何年か前、「難民ってかっこいい」を標語にして、日本に暮らす難民への気づきを訴えるイベントがあった。わたしはこのイベントに参加もしていないので、この標語の意図はわからないのだが、おそらく難民という言葉のもつ負のイメージを払拭し、新しい「難民」像を生み出すことを狙いとしていた、と考えるのが自然な解釈であろう。

その意図自体はよしとすべきなのかもしれないが、それでもわたしはこの標語はバカらしいと思わずにいられない。

理由は二つある。

まず、難民がかっこいいわけなどない。これらの人々が直面している苦しみ、悲しみ、悲惨にいったいどこにかっこいい要素があるのか。自分の故郷から命からがら&泣く泣く逃れてきた人々のどこがかっこいいというのか。土地も財産も家族も夢も希望も喜びも奪われた人がいったいどの地点でかっこよさと結びつきうるのか。もし本当に難民がかっこいいのなら、どうして日本人がみんな難民になろうとして行列を作らないのか。日本の若者がこぞって飛びつかないのか。

いや、そもそも難民を「かっこよい」という審美的な基準で判断できるのだろうか。わたしとてバカではないから、「難民のみんながイケメンであるはずがない」などと怒っているわけではない。標語でいう「かっこよさ」には例えば「生き方のかっこよさ」といった意味も含まれていることも承知している。そして、そのような難民の「かっこよい生き方」を日本社会にアピールしたいという発案者の気持ちもわかる。だが、かっこいい難民がいるのならば、かっこよくない難民もいるのも道理ではないか?

わたしは決して揚げ足取りをしているわけではない。

難民支援を行う人々の中には、自分が「助けている」難民が不道徳な振る舞いにおよぶと、露骨にがっかりする人がいる。その「支援者」にとっては難民はまるで聖人か賢者のようで、難民がそうしたイメージから外れるような利己主義を露わにすると、「支援者」の自分がまるで汚されたような気がするのである。つまり、このような「支援者」にはあたかも「良い難民」と「悪い難民」がいるかのようなのだ。

ついでにいえば、今回の大震災でも、同じような思考回路の人々が出現した。「被災者たちの心は美しい」とか「被災者の美徳」とかいうような連中だ。まるで津波が悪く醜い心の持ち主を根こそぎ押し流してしまったとでもいいたそうだ。だが、実際の津波はそのようなえり好みをしない。良い人間であろうと、悪い人間であろうと、社会的に価値ある人間であろうと、蔑まれた人間であろうと、等しく命を奪ったのである。

難民についても同じことがいえる。善良であろうとなかろうと、学があろうとなかろうと、見た目が良かろうと悪かろうと、悪しき権力はこれを全く考慮しない。ただ、ある政治信条、ある民族性、ある宗教、ある文化の構成員であるかどうかのレッテルのみが重要なのである。

だから難民を「かっこいい、善良、真面目、学がある、優秀」であると思い込むのは大きな間違いだ。難民にはその逆の性質を持つ者もたくさんいる。そうした個人の特質を超えて働くのが迫害のメカニズムなのである。だから、「支援者」が難民を美化するのは勝手だが、それは難民に託して自分の鬱憤を晴らしているだけのことであり、実際の難民とはなんの関係もない。

わたしの知る限り、難民にはだた2種類あるきりである。すでに殺された難民とまだ殺されていない難民の2種類が。そして、わたしたちが関わることができるのは後者の難民だけであり、このグループ内にはいかなる区別もなく、またあってもならない。善良だろうが凶悪だろうが、立派だろうが、間抜けだろうが、格好良かろうが、見苦しかろうか、まだ殺されていない難民である限りにおいて等しく命を守られる権利があるのだ。

こうした理由に加えて、わたしが「難民をかっこいい」とすることに反対する理由がもうひとつある。

ある人をかっこいいと呼ぶとき、そのように呼ぶ人はそのように呼ばれる人よりもひそかに優位に立つ。なぜなら、かっこいいかかっこわるいかを決めるのは、一つの権力であり、ある人をかっこいいと呼ぶ人はその権力を優先的一方的に行使しているからである。だから「難民ってかっこいい」と主張することは、実際には次のことを主張しているのと同義である。「かっこいいかどうかを決めるのはわたしたちであり、難民であるあなた方ではないのです」と。

難民と呼ばれる事象に付き合っていてつくづく思うのは、難民とは自分の運命を自分で決める力を奪われた人々、言い換えれば主体性を奪われた人々であるということだ。難民は自分で発信することが許されない。難民は常に見られている。計られ、記録され、描写され、尋ねられ、調べられる。難民はまるで名前を付けられるのを待っている品物のようだ。難民は自分の名前を自分で決めることができない。

だから、「難民ってかっこいい」と難民以外の連中がいうことは、難民を元気づけることとも、その地位を向上させることとも、まったく関係がない。それはむしろ難民の主体性をさらに奪い取ることだ。難民の客体化をさらに推し進め、名付けられる物として貶めることだ。

それはまた難民とそれ以外の人々との間に乗り越えられない壁を造ることであり、難民と難民ではない者との関係を固定化し、難民を永遠に二級市民の地位に突き落とすことだ。

自分は新品の服を着ているくせに、難民には古着だけしか着ることを認めず、そして、その古着を着ている難民に「素敵! お似合い!」とご満悦で声をかける人、「難民ってかっこいい」という人はまさにそんなような人なのだ。