2011/02/18

独裁の大義(3)

少数民族にいわせれば次のようになる。

「我々がビルマ王国の支配下にいたことは一度たりともない。我々がビルマ民族と運命をともにするようになったのは、ひとえにイギリスがビルマ民族と我々少数民族すべてをひとまとめにして植民地支配したことに由来するのだ。もちろん、その当時アラカン民族はビルマ王国の支配下にあった。しかし、それはビルマ民族の王国がアラカン王国を征服し、いわば植民地としていたことを意味するのであり、アラカン民族がビルマ民族にそもそも服していたことを意味しないのだ」

もっとも、 ビルマ民族と他の少数民族がまったく無関係だったとは思わない。相互関係はもちろんあったろう。ビルマ民族、アラカン民族、モン民族などを中心とする仏教的な文化圏、カチン民族のカチン文化圏、シャン民族のシャン文化圏などが重なり合う複合的な文化圏がすでに形成されており、これらをひとつの「文化的統一体」として把握することが可能だったから、イギリスも「イギリス領ビルマ」という形で諸民族を「植民地的共同体」としてひとくくりにすることができたのかもしれない。

とはいえ、イギリスはもちろんのことながら善意で植民地化をしたわけではなく、そこには相当の無理があったのも当然としなければならない。

また、いかに広範なビルマ諸民族文化圏がすでに存在し、それが現在のビルマの版図と関わりがあるとしても、それがすなわち「少数民族はビルマ民族に帰属していた」という主張を裏付けるわけでもない。文化的関係と政治的関係とは異なる原理、異なる時間の流れで働くものであり、それゆえ、政治的関係が文化的関係に優先すると見なすのは誤りである。