2010/11/18

虫けらどもをひねりつぶせ(6)

そうした生身の人間の命を蔑ろにしている権力があるという現状に対して、やはり同じ生身の人間として叫ばずにいられない、そうした切実さのみが、こうしたデモ活動に根拠を与えるのだろうと思います。その切実さの裏付けのない行為は単なる憂さ晴らしか目立ちたがりです。もちろん、デモにはお祭り的な要素もありますから、そうした行為があってもいいのですが、それはあくまでも本筋ではありません。

ぼくの古くからの知り合いの男性が、大使館の脇にある花壇を踏み台にして、大使館の敷地内に政治的主張が記されたA4サイズのプラカードを数枚放り投げました。すぐさま警官たちが静かに駆け寄ってきて両腕を掴まえて制止しました。抵抗しなかったのですぐに放されましたが、彼はデモの列に向かって自分のしたことを声高に訴えはじめました。拍手をする者もいれば、歓声を上げる者もいましたが、笑っている者もいました。もし、彼の行為に有無をいわせぬ切実さがあれば、笑う人などひとりもいなかったことでしょう。

正門前に集まった人々が、ビルマの新国旗を燃やすという出来事もありました。警官たちが押しかけてちょっとしたもみ合いになり、デモの責任者たちは他の参加者が騒動に加わらないように制止して回っていました。ぼくは遠くにいたのでどのような人々によって何がどのように起きたのかは実際には分かりません。押し合いへし合いするデモ参加者と警官とビデオカメラを持った人々、時たまちらりと上がる炎が見えただけです。そんなわけでこの行為を正確に評価はできませんが、ぼくの周りにいた人々の「おっなんかがおっぱじまったぞ」という野次馬的な態度やどことなく冷静なまなざしを含めてどことなく牧歌的な雰囲気さえ感じました。

もちろん、それなりの思いがあって旗を燃やしたのでしょうが、その思いが他の参加者たちに伝わったのかどうかははなはだ疑問です。

本当にすべき行為とは、それによってデモ参加者たちが励まされ、より真剣になり、勇気づけられるものでなくてはならない。これは非常に難しいことですが、そこを目指さない限り、ハイテク埴輪のほうがましということにもなりかねません。