2010/11/05

族か人か(3)

例えば、「日本人」。「日本人」と言われる集団が、大部分「日本民族(大和民族)」からなっていることは一応認められるとしても、「日本人」がそのまま「日本民族」であるとは言えない。アイヌの人々が「日本人」であることは、誰も否定できないことであるし、異論もあるかもしれないが、韓国でも中国でもアメリカでもどこでもよいが、そうした外国の出身者で、「日本国籍」を持っている人もやはり立派に日本人と呼ばれるだけの資格はある(「国籍」にしても「帰化」にしてもそれぞれ議論すべき問題があるが、ここでは省こう)。

そんなわけで、「日本人」という言葉はそれが民族を指しもすれば、国籍をも指しうるという点で、はなはだ曖昧なものとなっており、まともな理性を持った人間ならば、この言葉をためらいなしには使えない。ある人が「日本人の伝統的な食事を子どもに伝えよう」という主張のもと、米だの、菜っ葉だの、漬け物だの、お豆だので一杯の怪しげな菜食を推奨していたが、その人は「日本人の伝統食」に、ルイベだの、ホルモンだの、ラペットゥ(ビルマのお茶のサラダ)なども含まれうる可能性には気がつかなかったのである。

もっとも、これは「日本人」だけの状況ではない。たいていの日本語の「国+人」で似たような問題に出くわすことだろう。

対照的なのが、朝鮮民族の場合だ。周知の通り、この民族は、日本やアメリカなどへの明白な移民を除けば、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、中華人民共和国の三国にまたがって居住している。要するに、朝鮮民族は、「韓国人」であり、「中国人」であり、「朝鮮民主主義人民共和国人」であるのである。ところで、もちろん「朝鮮民主主義人民共和国人」などとはいわない。また「北朝鮮人」とも。おそらく「朝鮮人」と呼ぶのが普通であり、それゆえ、在日韓国人、在日朝鮮人と呼び分けたり、あるいは総称として在日コリアンなどと呼ぶのだろうが、この問題は複雑なのでこれ以上触れない。いずれにせよ、国の国境線が「〜人」の呼び分けに深く関わっていることが分かる。

そこで、次のような傾向を指摘することが適当に思われてくる。まず、日本語の「〜族」は民族的な背景を指し示すためだけに用いられる言葉であること。少なくとも、「〜族」に「〜国民」という意味を読み取ることはできない。いっぽう、日本語の「〜人」とは、国家の領域に関わる政治的な概念であると同時に民族的な背景を指し示すのにも現状として用いられていて、民族的な「〜族」と重なって、かなりの曖昧さを帯びている(具体例は「日本人」)。