2010/03/04

新しい公共から新しい市民、そして新しいビルマへ(4)

「市民」という概念でもうひとつ重要なのは、それが同じ市民同士の連帯を可能にするということだ。ところがビルマにあるのは、家族、親戚、民族、軍、宗教的つながりだけである。家族、宗教、民族を越えた市民的連帯というものが存在しない。ゆえに、軍事政権を打ち倒すことのできる、本当の意味での全ビルマ的な反政府運動をいまなお作ることができない。

これはぼくの観察の結果であるが、一方的な批判であるとは思わない。同時に多くのビルマ難民が痛感し、何とか克服したいと願っていることでもあるのだ。

いずれにせよ、こうした意味において「利己的」である人々に「あなたは日本に暮らす以上、日本の市民であり、あなたにも日本社会(国家ではない)をよくするための責任がある」ということを理解してもらうのは一筋縄ではいかない仕事だ。

だが、それはどうしても必要なことだ。ひとつには日本をもっと開かれた住みやすい社会にするためには、これらの「外部」の人々、日本の閉鎖性に苦しめられてきた人々の力と発想が不可欠である(とぼくは考える)から。つまり、われわれ「日本の市民」にとっても市民という概念は今なお発展途上にあり、「大和民族=日本人」といった枠組みを越えた「日本の市民」を生み出すためには、多くの外国人の手を借りなければならないのだ。

また、基本的には他人を容易に信用しないビルマ難民たちを日本社会の中で孤立させないためにも、これらの人々が難民や労働力という立場ではなく「市民」として他の「市民」とつながりをもつのは重要な意味を持っている。

それに、故国の解放を願ってやまないビルマ難民たちにとって、これはまんざら無意味な仕事でもない。日本で「新しい市民」作り(これはまたとどのつまりは「新しい公共」作りでもあるわけだが)に積極的に参与する経験が、将来の民主化ビルマ連邦における「新しいビルマ市民」創出作業にまったく役立つことがないと、誰がいえようか。