2010/03/03

新しい公共から新しい市民、そして新しいビルマへ(3)

今まで市民とはみなされてこなかったビルマ難民たちをも含む「新しい市民」を創造すること、これは「日本の市民」にとってひとつのチャレンジであると思うが、じつのところそれはたいして難しいことではない。ビルマ難民の間に「自分たちもまた日本の市民である」という認識を広めるのに比べれば。

先に「日本の市民」について「日本社会に暮らし、そのあり方に責任を持つ人々」と簡単に定義したが、ビルマにはそのような市民は存在しない。いや、もちろんいることはいるのだが、そうした「市民」は、本当に市民であろうとすれば、たいてい投獄されるか、国外逃亡するほかない。そのような意識をもつこと自体が、すでに反政府活動であるような国なのだ。だから、たいていの人は自分の国のあり方に責任を持たない。誰も責任を取らず、荒れるがまま、火の手が回るままに放置されている国、それがビルマだ。

責任を取らない、と書いたが、実際にはそれよりさらにひどい。本当のところをいえば、責任を取るという習慣が絶えてないため、責任の取り方がそもそもわからないのである。国をよくするための政治活動はたしかに市民としての責任の取り方のひとつだ。だが、市民としての責任を果たしてきた経験がほとんどないため、おうおうにしてその政治活動も中身を欠き、的外れな印象を与え、それどころか有害ですらある場合もある。