2009/11/27

森を見て木を見ない話(10)

10.すべての人の命を守る

人権という概念が一般的ではない時代、国、場面においては、何が人権であり、何が人権侵害であるか判定することは重要であり、それを専らにする組織の役割は極めて大きい。しかし、それは人権を守るという行為と同じではない、あるいはその一部でしかないのである。

人権について語る時、「誰かの人権」という形で語ることはできない。人権とはすべての人間に普遍的に備わるものとして構想されている概念であり、その意味では、「誰かの人権」が問題になっている時、それは同時にすべての人間の人権についても問題になっているのである。

それゆえ、人権を守るということは、もっとも単純な言い方をすれば、すべての人の命を守るために働く、ということ以外にはありえない。すべての人の命を守ることなど無理だ、と考える人もいるかもしれない。だが、それは今現在語られている人権がその目標にまで達するまで鍛え上げられていないということを意味するにすぎない。人権は常に発展途上にある思想といえる。

あくまでも「すべての人の命」であって、一部の優れた人、人権を尊重する人の命なのではない。人権侵害をする人、死刑を宣告されるまでの重い罪を犯した人の命まで守ることによってはじめて人権の普遍性が確保されるのである。

そして、もうひとつ重要なのは、人権は人間についていわれる概念であるということだ。これは人権の出発点が個々人の命の状況に根ざしている、ということでもある。なぜなら、命とは抽象的なものではなく、個別的具体的な人間とともに常にあるものだからだ。この個別的具体的な人間、それらの人間のおかれた具体的状況を忘れたとき、人権という概念は急速に希薄化していく。

希薄化した人権。それは声高に叫ぶに適している。ある国家、ある組織が人権を尊重するかしないか、誰の目にも、つまり糾弾される側の目にもはっきりとわかりやすく示すのには、有用である。だが、実際に人権を守ることが問題になる場合、具体的な命が問題になる場合には、そのような薄味の人権はむしろ害である。その国家なり組織の奥にある個々の命に目を注ぎ、それらが絡み合う濃厚な人権状況の中で、どのような方法、思考、手段がすべての人の命を救いうるのかを見いだすことに全力が注がれなければならない。このような場面において必要なのは、人権の判定者ではなく、人権の探求者なのだ。

大きな組織に属し、その組織がもたらす庇護、恩恵に慣れてしまった人は、組織を中心に考えるという悪弊にえてして染まりがちだ。そのような人は、世界を動かしているのが個々の人ではなく、組織であると考えるようになるのである。かの栄光に満ちた組織は、OKA-Japanに誤ったレッテルを貼ったとき、 OKA-JapanやKNF-Japanなどの組織の姿に気を取られたあまり、それら組織が具体的な人々の命によって成り立っていることを忘れてしまった。かの気高い組織の人々は、森を見たが、木を見ることはできなかったのだ。