祝典のために来日したマコウ・クンサー氏の演説要約
カチン人弁護士。反政府活動により10年間投獄される。法律家としての立場から、カチン州憲法、連邦憲法起草作業に関わる。カチン民族機構外務副局長、ビルマ連邦少数民族評議会(ENC)事務局長。現在は難民としてイギリスに暮らす。
第2時世界大戦末期の1945年、イギリスは『ビルマ白書』を公表して、今後のビルマ統治の方針を明らかにしました。
そこでは、3〜4年のイギリス統治を経て、ビルマ人の住むビルマ本土は自治領として独立、それ以外の民族の住む山岳地域についてはイギリス政府と各民族との話し合いで決める、とされていました。
その当時のカチン人たちがどうであったかというと、カチン人たちは反ファシスト(日本)との闘いで大きな役割を果たしながら、独立への道を模索していました。
アウンサンをはじめとする当時のビルマ人たちは、この『ビルマ白書』に反発しました。彼らは非ビルマ民族とともに連邦国家として独立したいと考えていたのでした。
ですが、イギリス政府は、カチン人をイギリス支配下に置きたがり、ビルマ人とともに独立することには反対していました。
当時の状況を要約するとこうなります。
1)カチン人は自治を求めていました。
2)イギリス人はカチン支配の継続を求めていました。
3)ビルマ人はカチン人とともに独立して連邦制国家樹立を求めていました。
ビルマ人たちはこのように思っていたのですが、いっぽうカチン人はビルマ人に根強い不信感を抱いていました。
そこで1946年11月、アウンサンがカチン州にやってきて、カチン人指導者たちと話し合い、協力を求めました。
アウンサンは、民族的自己決定権、権利の平等、連邦制の実現などを約束し、カチン人たちは彼を信頼しました。
ただ、カチン州の設置については今後の問題として残されました。バモーなどの町にはカチン人以外の住民もいることから、これをカチン州に含めるかどうかどうか、という境界画定の問題があったからです。
この問題はのちに、いわゆる1947年憲法を定めた制憲議会で議論され、現在のカチン州の境界が画定されました。これに対し、カチン人は今後連邦から離脱はしない、という旨の宣言を行いました。これは、シャン人のシャン州が連邦成立10年後に連邦からの離脱の権利を有していたのに対応しています。
このようにして、カチン人も満足のいく形で連邦制の基礎が固まっていったのですが、1947年7月のアウンサンらの暗殺により、連邦制は変質していくことになってしまいました。
連邦制とは名ばかりの、ビルマ人中心の政府となってしまったのでした。
独立から10年後、シャン人たちは連邦からの離脱権を結局は行使はしなかったのですが、ビルマ軍人たちは少数民族たちにより、連邦が崩壊の危機にさらされている、との認識を抱くようになっていました。
この危機感からネウィン政権が成立し、現在まで続く軍事政権が誕生したのです。
1974年に新たな憲法が制定されましたが、これは中央集権をさらに押し進め、カチン人ら非ビルマ民族の権利をまったく認めないものでした。
そして、2008年の憲法が登場しました。これは非ビルマ民族にとって最悪の憲法です。カチン州の名すらなくすことのできる憲法であり、わたしたちの文化・言語が危機にさらされているのです。
現在わたしたちは、ビルマ人を含んだ他の民族と協力してこの憲法に反対しています。そして、この協力関係を維持しながら、真の連邦国家というものを実現していきたいと考えています。
(通訳は田辺寿夫さん。文責は熊切)