2010/08/12

「和の民主主義」VS「気持ちの民主主義」 (5)

まず、気持ちが場に依存したものであるかぎり、「気持ちの民主主義」に蓄積はありえない。それは絶えずその場限りに始まって終了するものであり、制度上の改良点や反省点の次回への適用はありえない。これは日本の選挙制度が絶え間ない振り返りと改良の結果であるのと好対照をなす。また、民主主義を愛する気持ちが重視されるのに対して、肝心の民主主義の内実そのものは案外問われることがない。これは、ビルマの人々が民主化を声高に叫ぶ割には、具体的なビジョンとなるとからきしなのと軌を一にしている。さらに、「気持ちの民主主義」は、制度的、理念的裏付けを欠くがゆえに、容易に独裁へと転じうる。

気持ちはあくまでも強度によって計られ、その内容は二の次となる。すると、気持ちの強さが、公平さ、人権、平等に優先するようになり、また、強い気持ちの存在する関係のほうが、弱い気持ちしかない関係よりも重視されるようになる。国民、市民といった包括的なカテゴリーよりも、同じ民族、いや同じ家族のほうが強い気持ちを惹起するに決まっている。かくして、「気持ちの民主主義」は、ビルマの軍事政権と重なり合うこととなる。軍事政権の中心人物たちこそ、気持ちの権化である。彼らは国を分裂から救おうという強い気持ちゆえに、国家を非常事態に置き、武力で「反逆者」たちを虐殺している。彼らは気持ちの強度が遠近法に従っていることを知っている。だから、身内以外に信頼関係が築けるとは信じない。彼らは気持ちを大事にするあまり、気持ちより大事なものがこの世にあることを知らないのだ。

ビルマ人と交流した日本人がしばしばこう感激するのを耳にする。ビルマの人々は本当に真心がある、と。気持ちがこもっている、日本人が忘れてしまった思いやりがある、と。そして、こう言ってみせた後に、多少ましな人ならこう首を傾げる。こんなに素晴らしい心をもっているビルマ人の政府があんなにも残虐なのは信じがたい、と。だが、称賛に値するその「真心」も「素晴らしい心」も、実際のところ、その残虐行為と地続きなのだ(「ましでない」人の場合がどうなるかというと、ビルマ政府の「真心」にもすっかり感激してしまい、その熱心な擁護者となってしまう)。(おわり)