2012/12/01

報告会「カチン州の戦争と難民」配布資料(2012年8月26日)

カチン・イヤー8月のイベント
報告会「カチン州の戦争と難民」

2012年8月26日(日曜日)午後6時30分ー午後8時
豊島区東部区民事務所 第3集会室
カチン民族機構(日本)KNO-Japan+ビルマ・コンサーン

内容
1)カチン州の戦争の背景 ー 2008年憲法の帰結としてのカチン州戦争
*カチン民族はジンポー、ラシ、ラワン、リス、ザイワ、マルー(ロンウォー)の6つの言語の異なる民族からなる文化共同体で、ジンポー語(いわゆるカチン語)を共通語として、ビルマのカチン州を中心にシャン州北部、インド、中国に広がる地域に暮らしてきた民族。そのほとんどがキリスト教徒。

*カチン民族は独自の政治体制を持ち、独立を保ってきたが、ビルマ全土がイギリス植民地支配下に置かれた結果、政治的にビルマ民族やその他の民族と同じ運命を共有することとなった。

*日本軍による短い支配を経て、ビルマ諸民族はイギリス領からの独立を模索することとなるが、それを実現するためにビルマ民族がとったのが、ビルマ民族をはじめとする諸民族からなる連邦制という選択肢であった(イギリス側からの注文があったため)。この連邦制を実現するために、ビルマ主要民族が結んだ協定が、パンロン協定である(1947/2/12)。

*しかしながら、独立後(1947/1/)のビルマの状況は、パンロン協定に約束された連邦制の実現とはほど遠いものであった。これは、協定の立役者アウンサン将軍の暗殺という不幸な事件にもよるが、なによりも問題だったのが、ビルマ中央政府が「大ビルマ民族主義」のもと非ビルマ民族の自治や権利の平等を認めなかったことによる。

*非ビルマ民族側の不満はくすぶりつづけ、ついに武器を持った反政府運動へと発展する。カレン民族は1949年。そして、カチン民族は1961年にKIA/KIO(カチン独立軍・カチン独立機構)を設立し、反政府活動をはじめた。

*ビルマ軍とカチン軍との戦争は、他の民族の反政府運動などと絡み合う複雑な経過を辿ったが、その間、多くの一般市民がビルマ軍により(あるいは時にはカチン軍によって)甚大な被害を受けることとなった。その主なものは、殺害、性的虐待、村の破壊、強制労働、いやがらせなどである。

*こうした状況ゆえ、多くのカチン人が迫害を逃れるため難民として国外に流出するようになった。とくに1988年の全国的民主化闘争以後、その勢いは増し、世界各国にカチン人のコミュニティが生まれた。日本に最初のカチン人難民が訪れたのは1990年ごろのことで、現在は約400人のカチン難民(潜在的な難民、つまり難民認定申請をしていない人も含む)が日本で生活している。

*KIA/KIOは1961年以来の反政府活動に終止符を打ち、1994年2月にビルマ政府と停戦協定を結ぶ。しかしながら、この停戦は、一部のカチン人以外にはほとんど利益をもたらさなかった。多くのカチン人はビルマ政府内においては、潜在的な反乱分子として敵視され、難民の流出は留まるところを知らなかった。

*一方、停戦協定はビルマ政府に対しては莫大な権益をもたらした。カチン州は豊富な地下資源(金・翡翠)、森林資源に恵まれ、さらに水力発電の適地でもあるからである。また、中国への交通の要地という位置もまた重要である。これら資源から生み出される利益は、少数の例外を除けば、現地の住民に還元されることはなく、ビルマと中国とを富ませ、その結果、カチン州各地でさまざまな環境問題が生まれることとなった。

*停戦協定が生み出したこうした期待はずれな結果を見て、公に抗議の声を上げたのが1999年に国外のカチン人によって設立されたカチン民族機構(KNO)である。停戦協定による束縛のため表立った反政府活動ができないKIA/KIOに代わって、活発な国際ロビー活動を展開する一方、KIAに代わる軍を創設するなど直接的な反政府活動にも関わっていた。日本では最初のカチン人の政治団体「在日カチン民族民主化運動(DKN-Japan)」が2003年10月12日に結成され、2007年9月9日にカチン民族機構(日本)(KNO-Japan)と改称された。

*一方ビルマでは2008年憲法の国民投票、新政府の設立、テインセイン大統領の就任、アウンサンスーチーの解放と政治活動とめまぐるしい変化を迎えていた。

*しかし、民主化の期待が高まるさなかの2011年6月9日、ビルマ軍はカチン軍に対する攻撃を開始し、一方的に17年間にわたる停戦を破棄した。後のテインセイン大統領による停戦命令にも関わらず、ビルマ軍による攻撃は今なお続き、80,000を越えるともいわれる難民・国内避難民がビルマ国内、ビルマ・中国国境に押し寄せる事態となっている。

*ビルマ軍の攻撃の原因については、水力発電ダムの支配権を握るため、一般的にいわれている。しかし、この戦争の動機を水力発電に限るべきではなく、カチン州すべての権益の保全を目的としていると見るべきである。すでに述べたように、カチン州にほ豊富な資源があり、これは他のどの民族の居住地域にもないものである(アラカン州沖の天然ガス田も確かにある。しかし、そのガスはカチン州に設置された輸送管を通過して中国に売られるのである)。ゆえに、ビルマ軍の力の源泉は、カチン州の富にほかならない。2008年憲法では、ビルマ軍人のもつ圧倒的優位性が問題となっている。しかし、それはあくまでも紙の上だけのことでしかない。その優位性を支えるのは何よりも軍事力であり、それを可能にする富である。すなわち、この富を求めて引き起こされたカチン州戦争は、2008年憲法の帰結のひとつなのである。

2)カチン政治の新展開(カチン独立機構とカチン民族機構)
*KIA/KIOとKIOの関係は長らく微妙なものであったが、2011年の開戦とその後の展開により、両者の協力が不可欠なものとなった。2012年6月27日-28日にはじめて公式に両団体の協議が行われ、今後の協力関係が確認された(日本のKNO-Japanのメンバーも3名参加)。

*会議の主な参加者
日本からカチン民族機構(日本)KNO-Japan代表団3名
ボウムワン・ラロウ カチン民族機構代表(KNO)
その他KNO代表団 イギリス・デンマーク・タイなどのKNO、
カチングループの代表
カチン独立機構の代表 

*協議を受けて交付された声明は次のようなもの(大意)。 

会議の結果についての公示            

1. KIOとKNOは2012年6月27ー28日にかけて協議を行った。       

2. KIOとKNOはカチン民族の解放のために協力する。       

3. KNOの元にある連合カチンランド軍(UKA)を廃し、カチン独立軍に併合することで両者は一致した。

4. カチン民族が自分たちの目的を達成するため、KIOの方針に従い、戦争への勝利を目指して努力することを望む。

2012年6月28日 ライザ市内

3)難民と国内避難民の状況(ビデオ)
*戦争による破壊、暴力、強制労働を恐れた多くのカチン人が難民・国内避難民となり、約8万人がビルマ・中国国境の各地の難民・国内避難民キャンプで暮らしている。

*ビルマ国内あるいは中国経由からも公的な支援が届きにくい状況にある。UNHCRからの支援もヤンゴン経由で数回あったが、継続的なものではない。国際的な支援があるタイ国内の難民キャンプに比べると栄養状況はきわめて悪い。

*主な支援団体 KIOおよびその関連組織 パンカチン発展協会(PKDS)(カチン人による国際NGO) WPN(KIO地域に拠点を置くカチン人による難民支援団体) 中国のカチン人、中国人キリスト教徒による支援 その他NGO(日本のものも含む)

*中国側にある難民キャンプは中国当局により最近排除された。

*日本からの支援の拡大を!  4)カチン政府(カチン独立機構政府)とその首都の様子(ビデオ)

*KIOはカチン州と中国の国境にある2つの小さな街、ライザとマイジャヤンを支配下に置いている。どちらも、中国との交易によって栄え、中国側とカチン側の2つに分けられている(ゲートがあり中国のチェックポイントがある)。

*どちらの街も中国側から山道を通過して中国当局に知られることなく入ることができる。

*ライザにはKIOの本部が置かれ、いわばカチンランドの首都。周囲をカチン軍の兵士たちが守っているが、15キロほど離れればビルマ軍の支配地域。戦闘も多い。  *6月28日には近くで交戦があり、砲撃の音がライザの街に聞こえた。このときの戦闘で戦死したカチン人の兵士や負傷者が軍病院に担ぎ込まれてきていた。

*ライザでは入国管理や警察などの行政がKIOによって管理され、小規模ながらあたかも「カチン政府」の体裁を整えはじめている。カチン政府パスポートも発行している。まだ実効性はないが。周囲では戦争に囲まれながらも、ライザの人々はカチン人としての自由を満喫しながら暮らしている。