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2016/03/01

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(23)

これらの人々は、和平交渉においてKNUとカレン人を繋ぐ役割を果たしてきた人々であるが、その中にはわたしが10年以上前から知るカレン人宗教者(牧師)も数名いた。

そして、これらの人々の普段の活動にも同行したことのあるわたしは、この牧師や神父たちが、合意を利用して利を貪ろうとしている悪人とも合意のために利用されている操り人形とも思えなかった(そのようにインターネットで主張するカレン人も多いのであるが)。

むしろ、これらの人々は、それぞれの現場で自分の民族のために地道に働いてきた人々である。つまり、戦争と迫害が自分たちの民族をどのように破壊してきたかもっとも知る人々なのである。

実際のところ、KNUに働きかけ、和平に向けたその決断を促したのは、これらの人々ではないだろうか。

もっとも、その点に関しては判断するだけの材料はまだない。また、具体的にどのような努力がこの停戦に結実したのかについても。同行したカレン人神父によると、和平への動きはすでに90年代からあったというが、詳しくは残念ながら聞く時間がなかったのである。次回の訪問でじっくり聞いてきたい。

いずれにせよ、KNUの停戦合意への参加は、国内のカレン人が抱いている平和への切望に応じたものであるというのがわたしの見方であるが、そのいっぽう、多くのカレン人、特に国外のカレン人が反対しているのも事実である。

それゆえ、これら停戦合意に納得していない人々の理解をどのように得ていくか、つまりカレン民族内の合意と相互理解の形成が、今後の重要な課題となるのではないかと思われる。


2016/02/29

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(22)

そして、そのような自己認識こそ、カレン人とそのほかの諸民族が国際社会への粘り強い働きかけを通じて長い時間をかけてビルマ政府に植え付けてきたものなのであり、これは非ビルマ民族政治運動のひとつの成果といえる。

ゆえに、今回の停戦合意を軽率であるとか、民族を損なうものであるとか、あるいはこれまでの政治運動を裏切るものと単純に見ることはできない。それは同時に、非ビルマ民族の政治運動(これを連邦主義運動と読んでもいいだろうが)の流れに正当に位置づけることもできるのである。

また、今回のKNUの合意に関して、これが普通のカレン人の意志にまったく反したものと見ることも難しい。というのも、KNUの決定は、国内のカレン人社会、特に宗教関係者、市民団体の後押しと協力を背景に為されたものでもあるから。つまりKNUの独断とは言いきれないのである。

わたしがヤンゴンからネーピードーに移動するさいに乗ったバスには、チンの市民代表団ばかりではなく、カレン人の代表団も同乗した。


「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(21)

もっともその勇気は、カレン民族が経験してきた絶望、危機、荒廃、死、悲しみによってもたらされたものだ。

軍事政権下の60年はカレン人の持つ可能性を徹底的に衰退させた。戦争により生活は破壊され、その先にある難民キャンプは、避難所どころか民族の分散と人材の流出の始点でしかなかった。

国内に目を転じてみると、そこにはイギリス植民地時代の自信と教養に溢れたカレン人などもはや滅多に見出すことはできない。そのかわり、熱狂する者、恐怖にとりつかれた者、酒と宗教に溺れた者ならいくらでもいる。これらの人々から現実を直視する力と理性の力を失わせたのは、まさしく軍事政権の無残な迫害であり、この迫害を何とかして止めさせなくてはならない限り、カレン人に将来はないのだ。

そのためにはひとつの道しかない。それはいかなる手段を用いても平和を確立し、カレン人の命を救うことだ。

幸いにも、かつての敵であった軍事政権はテインセイン政権にその座を譲った。この新しい政権は確かに古い政権に似ていて、まるで親子のように瓜二つでもあるが、現在の国際状況ではかつてのように傍若無人にふるまうことはもはや不可能であることを認識している点で大きく違う。


「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(20)

ただし、だからといって、KNUの停戦合意の署名が、まったくの愚行、あるいは多くの人々が考えているようにカレン民族に対する裏切りだというのは分析不足だと、わたしは考えている。

まず、KNUが和平派と強硬派に分かれているという事実を分裂の兆候と捉える見方もあるが、これは逆にカレン人の力を見くびった見方でもある。というのも、この「分裂」は別の見方をすればKNUの多様性の表れであり、そのような多様性を許すほどKNUという組織が変容しつつあるとも言えるわけだ。

これは弱体化であろうか、それとも成熟であろうか。わたしはその両方が当てはまると思う。というのも、弱体化こそ成熟のチャンスであり、その成熟こそが弱体化を乗り越えるであるから。その点から言うと、弱体化に脅えるあまり、強大化を追求する未熟な日本人よりもカレン人のほうがはるかに賢いとも言えるかもしれない。

いずれにせよ、社会はそれが直面する危機によって成長するのではない。それを直視する勇気が成長をもたらすのだ。わたしはカレン人社会はその勇気を十分に持っているのではないかと考えている。


2016/02/14

「我らが勝利の日:チン民族と全土停戦合意(NCA)」(18)

こうした批判は、とくにカレン人において顕著に見られる。

カレン民族同盟(KNU)の議長を含む最高委員会は4年ごとに改選される。現議長はカレン軍出身のムートゥーセーポーさんであるが、KNU内の和平派である彼は対立する強硬派、特に次期議長との声望が高かったデヴィッド・ターカーボーさんに勝利して、主導権を握った。それは国外に暮らす多くの強硬派支援者の失望を引き起こしたが、同時に聞こえてきたのは、ムートゥーセーポーさん一派が選挙において不正を行ったという噂であった。

このためNCAに反対する多くのカレン人は、現在のKNUの指導者たちがその地位を不正に手にしたと考えている。

もっとも、すべての指導者がそうみなされているわけではない。副議長のノウ・セポラセインさんはかねてから強硬派として知られ、たいていの国外のカレン人は彼女には信頼を表明している。そして、その彼女がNCA式典に出席しなかったこともまた重要な事実として受け取られている。つまり無言の抗議というわけで、これをもって、KNU内部の不一致を協調する報道もある。

このように代表としての合法性に疑念が呈されてきたが、そのいっぽう、代表としての資質にも懸念の声がたびたび表明されてきた。ムートゥーセーポーさん一派は、カレン人のために働くという責務を忘れ、ビルマ軍人と組んで経済的利益を得るのに汲々としており、NCAもそのための口実に過ぎないというのである。この疑念は、メディアを通じて報道されるKNU幹部とビルマ政府要人との癒着的関係によっても強められている。


2016/02/03

KNU記念日

1月31日午前、豊島区の高田第二区民集会室(高田馬場)で、日本のカレン民族同盟(KNU-Japan)による第69回カレン民族同盟記念日(KNUの創立記念日)と第67回カレン革命記念日(KNUの武装蜂起記念日)の式典が開催された。

KNUは昨年10月15日ビルマ政府と停戦合意を結んだが、国外のカレン人はほとんどがこれを批判し反対している。日本のカレン人もそうで、KNU-JapanもまたKNU内の合意反対派に近い立場だ。

国外のカレン人にとっては難しい時期というわけで、そのせいかどうか分からないが、今回の式典はカレン人だけで小規模に開催された(そのためわたしはこの式典をブログなどで案内はしなかった)。

内容もシンプルで、2つの記念日の由来の説明と、KNU日本代表のモウニーさんの演説、わたしを含むゲストやKNU-Japanメンバーの挨拶だけだった。全部で1時間ちょっとだ。

挨拶としてわたしは、去年、停戦合意の場でKNUのスポークスマンであるソウ・クエトゥーウィンにインタビューして、彼が「合意したとはいえ難民の帰還には相当長い時間がかかる」と言っていたことについて短く話した。

わたしの後に、あるカレン人のゲストが挨拶したが、その人は滔々と30分も話し続けた。ビルマ語がわからないので退屈したが、そうでなくても退屈するような内容だったろうと思う。




2016/01/16

カレンニューイヤー

カレンニューイヤーのお祭りが、1月10日午後、池袋アカデミーホールで開催された。

ちょうどBRSAの渡邊先生の講演会と重なっていてはじめからは出られなかったが、会場がすぐ後ろなので、終わるとすぐにみんなと行って少しだけ参加できた。カレン料理とビルマ料理もありがたいことにまだ残ってた。

今年はとにかく来場者が多く、おそらくこれまでで一番ではないかと思う。

また、カレンの踊りもはじめて見るもので、聞けばより伝統的なものに近いのだという。

日本社会とのつながり、そしてカレン文化の表現がさらに深まったようで、在日カレン人コミュニティがより成熟していると感じられた今年のカレン新年祭であった。

以下に写真をいくつか。







2015/12/27

ビルマ語早口言葉

今日は早稲田に行き、カレン人の教会の礼拝に出席した。

礼拝の後にちょっとした用事があったからで、礼拝が終わったらすぐに帰る予定だったが、そういうわけにはいかなくなった。

というのもクリスマス礼拝だったからだ。

多くの教会では20日に済ましてしまうが、先週は本教会の合同クリスマス礼拝が行われたため、このカレンの教会では今日がその日なのだという。

なので、通常の礼拝に加えて、歌や踊り、ゲームなどの余興が加わっていつもより長めなのだった。

また通常よりも出席者も多い。普段は30人弱だが、今日は特別な日ということでいろいろなゲストがやってきている。別用でやってきたわたしだったが、そのゲストに含まれていた。

それはそれでいい。ただし残念なことに時間がなくて全部は楽しめなかった。

さて、余興の一つに早口言葉があった。前に呼び出された人々が1人づつ早口言葉を言っていく。

わたしはビルマ語の早口言葉を聞くのは初めてなので、もしかしたら有名なものかもしれないのだが、ここに記しておこう。

ミャウンミャ・ミョ・フマ・マウン・ミャッマウン

というもので、すべてmの音で始まる。フマというのは日本語の「〜で」に当たるもので、難しい言葉で言うと無声化した両唇鼻音、つまりこれもmの一種だ。ミャウンミャはエーヤーワディの町、ミョは町、マウンは若い男性につける冠称(英語のMisterのようなもの)、ミャッマウンは人名で、意味は「ミャウンミャ町のマウン・ミャッマウン」となる。

これはなかなか難しいらしく、みんなうまく言えないので、会場は大笑いだった。

2015/12/11

田舎娘

わたしの世話になっているカレン人の娘さんが、今年の春に日本にやってきて大久保の日本語学校で学んでいる。

年は20歳。エーヤーワディ・デルタの小都市、ミャウンミャで生まれ育ち、留学前の数ヶ月をヤンゴンで過ごした。

彼女のいとこが日本に住んでいて、わたしは彼と2人で空港に迎えに行き、大久保の家まで連れて行った。

わたしたちは彼女の小さなスーツケースを転がして大久保の曲がりくねった路地を進む。ふと気がつくと、彼女はずっと後ろをノロノロと歩いている。わたしたちはしばらく待ち、彼女が追いついてから再び歩き始める。

だが、しばらくするとまたわたしたちと彼女との距離が開き始める。彼女はひどく歩くのが遅いのだ。しかも驚くべきことに、追いつこうとして焦っている気配すらない。

わたしはミャウンミャに何度も行ったことがあるから、すぐにピンときた。あそこはヤンゴンと違ってのんびりしているから、早歩きなどする必要はないのだ。

せわしない東京の暮らしにこの田舎娘は慣れるだろうか? ミャウンミャには車もたいして走っていないから、道なんかちゃんと渡れるだろうか?

そんなことを思ったものだったが、数ヶ月後、そのいとこから、彼女が大久保で道を渡ろうとしてタクシーに引っ掛けられたという電話がかかってきた。幸いなことに怪我はなかったとのことだ。

ミャウンミャの風景

2015/02/17

ライブ・イン・カレン・ニュー・イヤー

2014年12月21日のカレン・ニュー・イヤーではいろいろな人が歌を披露したが、そのバンド演奏を担当したのは、在日カレン人の若い人たちからなるグループ、KMT(カレン・ミュージック・チーム)で、忙しい中、毎週日曜日にスタジオに集まって練習していた。

11月ごろにカレンの人からわたしのところに連絡が来た。ぜひ1曲歌ってください、という。

わたしは『Passage of Life』という難民が主人公の映画で俳優デビューしたばかりだ(ただしセリフは「タン塩定食ください」のみ)。

俳優兼ミュージシャンというのも時代の要請だろう。

そんなわけで歌うことにした。

もっとも、カレン・ニュー・イヤーで歌うのははじめてではない。何年も前のことだが、カレン語で歌ったこともある。ドラムも叩いた。

しかし、今回はあまり時間もない。結局、人類が生み出した最高のバンド、The Kinksの"You Really Got Me"を歌うことにした。

一回、スタジオに行ってKMTのメンバーと練習した。ばっちりだ。あとは歌詞さえしっかり覚えれば……

で、本番で歌詞を忘れた。自分がどこを歌っているのか分からなくなった。

心の傷が癒えるまで2ヶ月かかった。






カレン・ニュー・イヤー

2014年12月21日にカレン・ニュー・イヤーが東京の池袋で開催された。

これはカレン人が新年を祝う伝統行事で、日本でも毎年行われている。日本だと食べて飲んで歌って踊ってという感じだが、カレン人の土地では力試しや駆けくらべなどの催し物も行われるらしい。また、こうした祝祭は野外でするものだが、日本では寒いし、そもそも都内ではなかなか難しい。

今回の新年祭も内容はあまり変わらないが、踊りとバンドのレベルは向上していた。カレン人の伝統的習慣、暮らしぶりや結婚の様子を再現するという新しい趣向の出し物も面白かった。

わたしは小学生1年生の娘と一緒に参加した。はじめは娘もあまり乗り気ではなかったが、そのうちに同じ年ごろのカレンの子どもたちと遊びはじめた。

たくさんの料理が並べられていて、娘と二人で食べた。慣れない食べ物だからいやがるかな、と思ったら、おかわりする始末だ。

今はどうだか知らないが、タイ・ビルマ国境で活動するカレン人はよく短いドキュメンタリー映画を作って、ビルマ軍がカレン人の村人たちにどのようなひどいことをしているか、記録したものだった。

ビルマ軍が村にやってくると、家畜を奪ったり、村を焼いたり、女性を強かんしたりするので、村人たちは軍が近づいてくると森の中に逃げる。

みんなが逃げられればいいが、老人や子どもは逃げ遅れて兵士に捕まることもある。

わたしが見たショートフィルムでは、二人の若い夫婦が泣きながら、そのようにして軍に連行された自分の子どもについて訴えていた。

「わたしたちは自分の子どもがそれ以来どこに行ったのか分からないのです」

父親は、いかにも不器用な感じで、両手の掌で涙を拭い続けながら言う。

「わたしたちはいつだって一番良い食べものを子どもにあげてきたのに……」

子どもたちは祭りそっちのけで駆け回って遊んでいて、うちの娘などは楽しくなり過ぎて帰ろうといってもいっかな聞かないのだった。

開会式の様子

2014/12/17

カレン・ニュー・イヤー

今年もカレン人のお正月のお祝いが開催される。

例年お正月休みの最初の日曜日が開催日と決まっていたが、今年は12月21日日曜日。

この日が本当のカレン・ニュー・イヤーの日で、ちょうど日曜日なので、年内開催ということになった。

時間は午後1時から5時まで。場所は日暮里のホテルラングウッド。日暮里から歩いて1分のホテルの地下2階が会場だ。

いつものように歌あり踊りあり、カレン料理・ビルマ料理ありの楽しい集いだ。参加費無料でだれでも参加できるので、興味のある方はどうぞ。



2014/12/02

カレン魂

チェンマイ行きが決まると、他の旅程も決まった。初めにチェンマイに行って、それからメーソットだ。今のところ12月8〜10日で、当初の予定より短いがこれはしょうがない。

チケットを取ると、カレンの友人たちに何か持っていってほしいものはないかと尋ねた。教会と孤児院に寄付金を持っていってくれ、という人たちがいたので、それを預かる。カレン民族同盟日本支部(KNU-Japan)の代表のモウニーさんが、KNUの世話になった人に持っていってほしいものがあるので、いつ渡せるか、というので、11月30日の昼過ぎに家を出るからそれまでなら、と答えた。

さて出発当日、モウニーさんからは連絡はない。予定通り家を出て、成田空港まであと30分ばかりというところで、電話がかかってきた。

「仕事で疲れて寝てしまいました。大丈夫ですか」

大丈夫じゃない。

飛行機の出る時間が17:45だから、搭乗時間は17:15。入国審査の時間を考えるとだいたい17:00がリミットだと答える。今はもう15:00、東京からだとギリギリだ。彼は「そうですか」と言って電話を切った。

さて空港でチェックインを済ませた頃に再び彼から電話がかかってきた。

「今日暮里! スカイライナーに乗ります」

来る。今は16:00前だから、本当にギリギリだ。

特に免税店で買い物もないので、北ウィング4階出発ロビーのセキュリティチェックの入り口辺りで待っていると、16:50に電話がかかってきた。着いたという。北ウィングにいることを告げると、しばらくして「どこですか?」 そこ南ウィング。

なんとか会えたのは16:55。わたしは手紙とカメラと時計をかっさらってセキュリティチェックに向かおうとする。するとモウニーさん。

「出発前にちょっと一杯飲みませんか?」

何を言い出す。

「もう時間ないです」と断ると、彼はニヤッと笑ってリュックからウィスキーの小瓶を取り出した。

いつでも人を喜ばせるのを忘れない、これぞカレン魂。だが、これに夢中になってついつい時間に遅れるのもカレン人。まったくもう。

2014/12/01

チェンマイのマナウ

マナウというのはカチン民族のお祭りで、日本でも在日カチン人が開催したこともある。

今年の1月2月にも、インド・ビルマ・中国のカチン人たちが盛大にマナウをしたということだが、わたしは行くことができなかった。

しかし、在日カチン人のリーダーの一人であるピーター・ブランセンさんが、11月にはチェンマイでもあるので、それに一緒に行こう、とその時誘ってくれた。

それから、わたしの人生にもいろいろあったが、片時もマナウのことを忘れたことはなかった。

で、11月になった。しかし、ピーターさん方面から、マナウのマの字も聞こえてこない。それで、わたしはもうすっかり忘れてしまったのだが、11月16日のラパイ・センローさんの集会の時、カチンの友人であるナンユンさんが教えてくれるには12月4日から5日にかけて、チェンマイのカチン村でマナウをやる、というではないか。しかも、日本からはピーターさんも行くというではないか。

ちょうどわたしは、カレンの人々から話を聞くために12月はじめ頃にタイのメーソットに行く計画を立てているときだった。これは一緒に行かない手はない。

早速ピーターさんの携帯に電話する。ほぼ片時もマナウを忘れなかったのはいいが、ピーターさんに電話するのを忘れていたというわけだ。

しかし、出ない。で、家にかけると、ピーターさんの奥さんがいうには、彼はもう日本を出発していると。マナウ以外に他の用事もあるのだという。で、奥さんがピーターさんに連絡を取ってくれ、なんとか合流する手はずを整えることができたのだった。

ナンユンさんがFacebookに投稿したチェンマイ・マナウの情報

2014/11/25

タウンセインさんの収容理由

わたしが身元保証人をしているカレン人のタウンセインさんの収容について以前書いたが、他とは違う点がいくつかある。

難民認定申請者は、普通は難民が認められないということを通知されてから、収容されることが多いのだが、彼の場合は申請の結果がまだ出ていないにもかかわらず収容されることになった。

11月14日に面会に行ったら、彼は収容の理由について二つのことを入管にいわれたと告げた。

一つ目は、彼が仮放免許可延長のために提出した書類がコピーであるからダメだ、ということと、もう一つは、前回のブログでも触れたが、4年も仮放免で外にいたのだから十分だろう、ということだ。

初めの理由についていえば、彼が提出した仮放免期間延長申請書は確かにコピーであった。しかし、身元保証人のサインそのもの、つまりわたしの署名は本物であった。そこで、タウンセインさんは入管の職員にサインは本物だと主張したが、それは聞き入れられなかったという。

彼はその時提出したのと同じ紙をもう一枚持っていて、それにはやはりわたしの本物のサインが記してあるので、問題だったのは、申請書のコピーの使用ということになる。

そこで、わたしは仮放免延長の受付に行って、申請書のコピーを使ってもいいですかと尋ねたら、それはOKとのことだった。すなわち、タウンセインさんの言葉から判断する限り、入管は本物のサインを コピーと判断して、彼を収容したということになる。

さて次の理由として入管からいわれたという「4年もいれば十分」だが、もちろん、仮放免中の人を収容するしないの判断は入管が自由にできるので、4年というのは一つの基準かもしれないが、4年以上も仮放免延長されているの人が多くいる中で、どうもこの理由は説得力に欠けるように思う。

そういうわけで、いまのところ分からないことばかりだが、少なくとも入管はタウンセインさんが提出した申請書に疑いを抱いた時点で、身元保証人であるわたしに確認の連絡を入れるべきではなかったろうか。

2014/11/14

衝突

11月9日の夕方は大井町で在日チン民族協会(CNC-Japan)の総会と選挙があったのだが、実は同時刻に駒込で海外カレン機構(日本)(OKO-Japan)の総会も行われていた。

わたしはOKO-Japanの会員だからこっちにも出席しなくてはならない。

スケジュールがぶつかっていることは前々から分かっており、調整しなくてはならなかったが、ぼやぼやしているうちに9日となってしまった。

慌てて昼ごろにCNC-Japanの会長のニンザルンさんに電話する。

「もう一つ別のミーティングと重なってしまったので、そっちの方を先に出て、CNCの方は一時間遅れで行ってもいいでしょうか」

はじめはニンザルンさんも仕方がないという感じだったが、もう一方の用事が同じビルマの人の会議だと知ると「先にCNC総会に来てください」と言い出した。

ビルマの人々が時間通りに物事を始めるわけないのだから、一時間遅れでは済まないだろうと、経験豊富なニンザルンさんは判断したのだ。

それで、わたしはCNCの方に先に出て、45分ばかりいて、それから駒込に向かうという計画を立てた。

もちろん、その通りにはならなかった。CNC-Japanの総会はほぼ時間通りに始まったが、わたしが大井町を出たのは1時間半後となったのだった。

駒込に着いたときにはすべて終わっていた。カレン人たちは帰るところだった。せっかくなのでそのままみんなと一緒に大塚のVANDAに行ってご飯を食べた。

店のテレビを見ていると、フィギュア・スケートの羽生結弦選手の姿が映し出された。前日の中国での国際大会で、別の 選手と衝突するというアクシデントに見舞われた彼は、不屈の精神でリンクに立ち、死力を振り絞って舞ったのであった。その姿には、日本人ばかりでなく中国の人々もまた心を動かされたという。

そして、まさしくその翌日、チンとカレンの総会が激しく衝突し、その衝撃の中から不死鳥のごとく立ち上がった男がいたということを、羽生結弦選手の活躍とともに覚えていてほしい。

 VANDAのトムヤムチャーハン。おいしい。

VANDA店内に掲げられたカレン民族の旗。

2014/11/08

タウンセインさんの収容

ポー・カレン人の難民で、海外カレン機構(日本)の役員でもあるマン・タウンセイン(サ・タウンセイン)さんが昨日、品川の入管に収容された。

わたしは彼の身元保証人をしていて、収容所から彼が電話をかけてきて教えてくれたのだ。

難民認定申請中の人が収容されるときは、難民不認定と告げられれてからが多いが、今回はそうではないらしい。

彼はどうして自分が収容されたかについてわたしに自分の考えを述べたが、それが正しいかどうか分からないので、そのことはここでは触れない。

ただ入管が「もう四年も外にいたのだから十分だろう」と彼に言ったということだけを記しておこう。

彼には弁護士がいて、わたしが電話をかけると「収容されてから不認定を告げる場合もある」と教えてくれた。

タウンセインさんから電話があって数時関して、入管から電話がかかってきた。職員が「タウンセインの仮放免は終了したので、保証金を引き出してください」と伝えてきたのだ。これはいつもの手続きだが、わたしはどうして彼の仮放免が打ち切られたのか思い切って聞いてみた。

すると職員はしばらく調べた後

「総合的な判断です」

と答えた。これはすなわち理由の説明の拒否に等しい。いったい、その総合にはどのような部分が含まれているのか? 入管のすることは何でもそうだが、どこでもブラックボックスに行き当たる。

わたしたちはいつもそれに蹴躓いて、悔し涙を流すのだ。

ブラックボックスの一例
(品川入管の七階の面会待合室行きのエレベーター)

2014/11/02

さらに臭い豆

臭い豆、ビルマ語でタニンディと呼ばれる豆について書いたが、この豆は茹でたらそのまま食べられるというものでなく、結構な時間アク抜きをしなくてはならないという。

そして、アク抜きをするときには、炭と一緒に煮ると良いとのことである。

また、この豆はあまり食べ過ぎてはいけない。腎臓に悪いのだそうだ。

ヤンゴンの中心部にとある大教会があるが、そこの牧師はこのタニンディが大好物で、それで腎臓病になって亡くなったといわれている。

「彼は次から次へと 食べるんだよ。まるでチョコレートみたいに! それがいけなかった!」(あるカレン人信徒の言葉)。

このタニンディには小さな核があり、これが腎臓に悪影響を与えるのだ、ということが近年分かってきたのだそうで、それゆえ、食べるときはその核を取り除くべきだということだ。

タニンディとピーナッツ
2014年7月、ヤンゴン

2014/10/31

アジアンダイニング・バンダ(VANDA)のビデオ

日本とミャンマーを舞台にした国際共同制作映画『Passage of Life』」という映画の制作が進んでおり、これについてはまた別に書くけども、わたしが幾度か取材を受けた関係で、わたしの知っている人たちもこの映画に少々関わっている。

そのせいかどうかわからないが、アジアンダイニング・バンダが取材や打ち合わせに使われることもあるようで、難民のモーミントゥさんとこの映画の監督を務める藤元明緒さんが、バンダのCMを制作し、YouTubeで公開している。

動画の中で店への行き方も案内しているので、ぜひ一度どうぞ。



アジアンダイニング・バンダ(VANDA)

大塚にはミャンマー家庭料理シエルの他に、もう一軒、海外カレン機構(日本)OKO-Japanのメンバーが開いたビルマ料理のお店がある。それがアジアンダイニング・バンダ(VANDA)だ。

マウンマウンと愛称で呼ばれるオーナーのサ・ウィンスエさんは、エーヤーワディ・デルタのミャウンミャ出身のポー・カレン人で、2006年以来のOKO-Japanのメンバーだ。

彼はグループに入り、難民認定申請の準備をしていたのだが、その直前に入管に収容されてしまった。その結果、1年ばかり品川と牛久で過ごすことになった。わたしは当時彼の身元保証人をしている。

その後、日本で在留許可を取得し、まじめに働いた後、ついに今年の6月に自分の店を持つこととなったのだ。やはりデルタ出身の奥さんと二人で頑張っている。

最近ではお客さんも増えて、特に土日は繁盛しているようだ。

「アジアンダイニング」とあるようにビルマ料理だけでなくタイ料理なども出す。日本人にはタイ料理のほうが馴染みがあるからで、わたしはここのタイ風焼きそば好きだ。

ビルマ料理もいろいろあるが、わたしがいつも頼むのはエビのかき揚げのあえもので、これはつまみにいい。

個室もあってOKO-Japanの会議兼飲み会会場としても利用している。






ウィンスエさん(右)

今年の7月にミャウンミャに行ったとき、ウィンスエさんの実家に寄り、そこで一人で暮らしているお母さんに会った。

お母さんはわたしのことを息子のようだと言って歓迎してくれたが、それはひとつにはおなかの形が似ているということもあるだろう。