(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の5回目。)
(2.カレン民族の歴史と文化のつづき)
現代政治史
カレン民族同盟は、カレン民族協会、カレン中央機構、仏教徒カレン民族協会、カレン青年機構の4つの組織が融合して1947年に結成された。終戦後、イギリス人がビルマを去るのは必至であるとわれわれは信じていた。それゆえわれわれは自分たちを守らねばならず、これがため統合を果たす必要があったのである。
1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、ウ・ヌが反ファシスト人民自由連盟(AFPFL。イギリスに抵抗する有力な政治団体)のリーダーとなった。しかし彼の指導の下ではビルマは本当の連邦国家とはならなかった。というのも、彼はパンロン合意を尊重しなかったからである。彼は、諸民族の議会をビルマ人の支配下に置き、仏教を国教化しようとした。名前だけの連邦制であり、ビルマは事実上ビルマ民族の完全支配下にある一元的な国家でしかなかった。
1948年1月、イギリス人はビルマを去った。独立の前段階において、イギリス人の間では、権力委譲があまりにも性急で、ビルマには民主主義に備えて更なる準備期間が必要だということについて議論がなされていた。
1948 年2月11日、KNUは、カレン人のための平等、カレンの本拠地となる州の(連邦制の枠内での)創設を求め、われわれは住民どうしの不和と内戦を望まないと訴えつつ、整然とした平和的なデモを組織した(同時期に一部のビルマ人は、カレン人との戦争を計画していた。われわれに民主主義を許すかわりに、われわれを殺そうとしていたのである)。われわれは封建時代から抑圧され続け、民族的一体感を持ったことはなかった。しかし、その一体感はキリスト教の受容と、 また仏教(そのときにはわれわれが仏教徒になることは可能になっていた)によって発展し、20世紀初頭にはカレン人の作家たちは、カレンの本拠地の可能性についての議論をはじめていた。戦争の後、ビルマ人のあるものは、断固としてこの要求を実現させまいと考えたのである。
一年中、ビルマの新聞はわれわれに関して扇情的な記事を書きたてた。われわれはイギリスの雇われ人、野蛮人として非難された(今日にいたるまで、われわれには「たむし」とい う蔑称がつけられている)。2月のデモはイギリス人が指揮したものだと噂された。その年の終わりごろから、ネウィンの「ポケット・アーミー」がデルタ地方にいるわれわれカレン人を攻撃しはじめた。ポケット・アーミーとは秘密の国防軍であり、非正規の軍であり、ヒトラーがその初期の上昇期に用いていた軍隊に近いものである。ネウィン(1962年になってようやく権力を掌握するのだが)はその当時からビルマ住民間の不和を率先して作り出していたのだった。
クリスマスの時期には、このポケット・アーミーはあちこちで教会を焼いたが、その中にはまだ信徒たちがいたのである。1949年1月、彼らはラングーンのカレン人居住区を焼き払った。それからその月の下旬に、ラングーン北部のインセインの町(現在そこには悪名高い刑務所がある)にやってきて、拡声器で、カレン女性たちを強姦してやる、お前たちを掃討してやる、と脅迫した。まさにこのインセインにおいて、そして、まさにわれわれが現在「抵抗記念日」と呼ぶこの1月の31日に、われわれの革命が公式に始まったのであった。
自衛を目的とする最初のカレン軍がKNUによって組織され、カレン民族防衛機構(KNDO)と呼ばれた。このとき、ビルマ軍の正規大隊に配置されていた3人のカレン人と、さらに幾人かのカレン人警察幹部がKNU/KNDOへと走った。
要するに、われわれの武装蜂起は、われわれを苦しめた攻撃とウ・ヌの取った行為に対する正当な応答だったのである。引き続いてわれわれは、カレン人民解放軍 とカレン人民ゲリラ軍を含む数々の自衛組織を結成した。これらは最終的にカレン民族解放軍(KNLA)に組み込まれた。
また注記すべきは、パンロン合意は、署名したシャン人などの民族集団に、合意の日から10年後にもし国の発展に不満ならば、いつでも脱退できる権利を認めていることである。
*この脱退が可能となる以前の1958年、ネウィンと軍部は政府の支配権を握った(彼らは「世話人」政府と自称した)。
*1960年初頭に選挙が行われ、ウ・ヌが首相として返り咲いた。
*1961年、パンロン合意の山岳地域側の署名者らが、憲法改正と完全な政治的自治権を要求した。
* その後、1962年2月2日、開催中の国会においてウ・ヌが演説をしようとしているときに、ネウィンはふたたび権力を掌握し、今度は絶対のものとした。彼は、憲法改正が、他民族地域におけるビルマ軍の優位を終焉させるのではないかと恐れ、ビルマ人と他のビルマ諸民族の平等が成立しないように断固として行動したのである。
そして40年後のいま、ネウィンの望みはなお実現の途上にある。
1990年、SPDC はビルマにおける選挙の実施を許可した。しかし、われわれには政党を結成することは許されなかった(いかなる政党も名前にカレンという語があってはならなかった)。それゆえ、1990年の選挙で当選したカレン人は、NLDなどの他の政党との提携のもとで事務所を運営したのである。KNUは、本質的にはカレン人のための統一政府であり、抵抗の時代にあって有効な自己統治を行うことのできる唯一可能な形態であり、個別的な政党をそこに含んでいるわけではない。 だが、第3章で述べるように、われわれは民主主義者である。そして、民主主義によってカレン人の民主的価値観の長い伝統は保持されるのである。われわれには選挙の手続きがあり、われわれの会合は自由な開かれた場である。だれもが意見と批判を表明することができる。