2012/05/15

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(4)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の4回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき) 
初期政治史

現在われわれが経験している状況は、われわれとビルマ民族との歴史的関係に直につながっている。ビルマ民族には、狂信的民族主義の強い伝統があり、そのためビルマの他の民族集団は筆舌に尽くしがたい苦しみを受けることとなったが、この伝統は現在の軍事独裁政権においてはっきり現れている。

ビルマ人のそうした行動の例としては、モン民族の征服が挙げられよう。この征服以前、クメール人(カンボジアの主流の民族集団)の末裔であるモン人は下ビルマ全域にわたる王国を築いていたのである。1725年ごろ、あるビルマ人の将軍が、ハンタワディにあるモン人の城壁都市を包囲した。3ヵ月後、将軍は、3人の僧侶を遣わして、次のような提案を行った。入城と引き換えに、モン王はその地位と財産を保証される、と。王は同意した。そして、ビルマ人たちは入城し、王と住民すべてを虐殺したのである(それよりさきに、モンの兵のうちには、王の弱腰を知って、包囲を破り現在のタイにまで逃げのびた者もいたにしても)。

ビルマ人将軍は自ら王と名乗り、モン文化の根絶に乗り出した。彼は平和を議する特別会議にモンの僧侶3000人を招き、皆殺しにした(一人が逃亡しそれを伝えた)。それから彼はモンの僧院を書庫もろとも破壊した。

ビルマ人は事実、モン人から仏教を受け入れたのだが、初めのうちモン人は彼らに教えるのを拒んだのであった。しかし、11世紀にビルマ人はバガンからモン人を攻撃し(これがビルマ民族帝国の濫觴となった)、当時のモン王を打ち破り、パゴダの奴隷とした。

近年まで、ビルマ人はカレン人のことをほとんど気に留めなかった。カレン人は無教養であり、それゆえ脅威とならないと目されていたのである。われわれは根絶されるべきものではなかった。ただ下層に留めおくべきものであった。しかし、われわれが仏教徒となるのは禁じられていた。

こうした状況が変わったのは、1820年代のイギリス人の到来によってであった。実際、イギリス人はカレン人の目にとって、ビルマ民族帝国主義からの解放者と映った。しか し、イギリス人のもたらした実質的な影響は一般的には非常に小さいものであった。より大きな影響は、実際のところ、最初のアメリカ人宣教師の到来とともに訪れたのである。この宣教師の名をジャドソン博士という。

(注:ビルマ戦争の時代、カレン人は「重税を課され、ビルマ人支配者に抑圧されていた。このビルマ人によって、カレン人はペグーの田舎者からなる劣等民族だとひとからげにされていた。」さらに戦争中のビルマ人兵士たちは「略奪集団を成し、通り道にある無防備な(カレン人の)村を強奪し、火を放ち、たまたま行き交わす不運に見舞われた村人たち相手に不当極まりない残虐さを発揮した」同書、スノッドグラス)

注目に値するのは、イギリス統治下においてはカレンやシャンなどの山岳地帯の州が、ビルマ人固有の本土(ビルマ人行政区)とは異なる辺境地帯であると見なされ、(イギリスの直接統治下にあったビルマ本土とは対照的に)高度の自治を享受していたという事実である。ビルマ人の政治家にとって、こうした状況は屈辱的なものだった。

第2次世界大戦において、われわれは連合国と協力した。この協力ゆえに、われわれはビルマ独立軍(BIA)の手になる残虐行為の標的となった。1940年、30人の志士と自称するビルマ人指導者たちの集団が、日本人工作員の手助けにより、日本に渡った。さらに、彼らは軍事訓練のために中国の海南島に赴いた。そして、1941年、彼らはタイを占領した日本軍に同行し、BIAを創設したのであった。

日本人がBIAに約束したのは、戦争ののちにビルマは独立国となる、ということと、すでにタイに与えると約束したケントゥンとサルウィン川の東の諸州を除き、シャン州をも獲得することができる、ということであった(『わが消え去りし世界』ネル・アダムズ、サオ・ノアン・ウー著)。

イギリス軍がビルマから駆逐されるや否や、1942年初頭、BIAの部隊はイラワディ・デルタ地帯とパプン地区のカレン人民間人を包囲し、イギリスのスパイと非難して夜ごとに何百ものカレン人を殺しはじめた。カレン人は抵抗し、市民戦争が勃発し、これは6ヶ月続いた。最終的に、原因がBIA側の民族的偏見にあることを理解した日本当局が紛争を停止させた。

BIAはアウンサンの指導の下に結成された。しかし、残虐行為とそれに引き続く紛争が、彼がビルマ北部のミッチナーに長期の旅行に出て不在にしていた間に起きた。戻ってきた彼はこの出来事に衝撃を受け、ビルマ人とカレン人の間の友好のための運動を指導した。しかし、われわれとモン人は、パンロン合意から除外されたのであった。これは1947年2月12日にアウンサンとシャン人と国境地帯の他の民族 (カチン人とチン人)との間で署名され、最初のビルマ連邦を実質的に確立した合意であった(アウンサンはぜがひでも合意に署名したがっていた。彼は、カレン人にまつわるさまざまな問題にかかわって手間取るのを望まなかったのである)。

こうした歴史ゆえに、われわれはいまもビルマ人の態度に恐れを抱き続けている。かりにSPDCが打ち負かされたとしても、われわれはふたたびビルマ人の支配されることになるかもしれない、と恐れているのである。 それゆえ、われわれは、このような歴史がふたたび将来繰り返されないための手だてとして、すべてのビルマの人々が参加し、平等な諸州からなるという強力な連邦体制の理念を支持している。