ここ数年、毎年東京都立杉並総合高等学校で難民について話す機会を与えられている。NPO法人NICE事務局長の上田英司さんが担当されている社会問題を扱う授業の一コマだ。
毎回、ビルマ難民の人と一緒に行くので、それが生徒たちに印象深いのだという。わたしにとっても貴重な機会なのでとてもありがたい。
今年は、ビルマのチン民族難民のトゥアン・シャンカイくんに同行をお願いした。彼は関西学院大学の学生で、難民のことを世間によく知ってもらうための活動をしている。 新聞やテレビにもしばしば取り上げられる。
彼は難民問題についてあちこちで講演しているだけあって、わたしより話がうまい。高校生たちの関心も高かったように思う。
「難民を言い換えるとしたらどんな言葉がいいか」という問いかけでもって彼は話を始めたが、これはまったく興味深い質問だ。
「難民」=「困難にある人、支援が必要な人」というのはある意味では正しいが、それはまたステレオタイプでもある。そしてこのようなステレオタイプに隠されてしまっている「難民」のさまざまな姿に気付かせるには、この問いは有用だ。
シャンくんはある講演で出た例として「夢民」というのを挙げる。わたしの好みではないが、人々が何でもアイディアを出すのはよいことだ。
わたしが気に入っているのは「平和の使者」というもので、これはかつてインドシナ難民の支援に関わっていた年配の人が言った言葉だ。難民の問題を知れば知るほど平和の重要性というものが分かってくる。
しかし、わたしなりの答を言わせてもらえば、難民を何にも言い換えたくはない。いや、難民とも呼びたくない。そもそも何とも呼びたくない。
むしろ難民自身で自分の呼び名を決めて欲しい。そしてその呼び名が社会の中で通用するようになって欲しい。というのも難民(とそれに似たような人々)のつらいところの一つは、他の人に難民として語られるばかりで、自分の声で自分のことを語り、それを人々に届ける機会が圧倒的に少ないことにあるのだから。
そのような意味で、その難民自身であるシャンくんの活動はとても重要なものだと思う。
毎回、ビルマ難民の人と一緒に行くので、それが生徒たちに印象深いのだという。わたしにとっても貴重な機会なのでとてもありがたい。
今年は、ビルマのチン民族難民のトゥアン・シャンカイくんに同行をお願いした。彼は関西学院大学の学生で、難民のことを世間によく知ってもらうための活動をしている。 新聞やテレビにもしばしば取り上げられる。
彼は難民問題についてあちこちで講演しているだけあって、わたしより話がうまい。高校生たちの関心も高かったように思う。
「難民を言い換えるとしたらどんな言葉がいいか」という問いかけでもって彼は話を始めたが、これはまったく興味深い質問だ。
「難民」=「困難にある人、支援が必要な人」というのはある意味では正しいが、それはまたステレオタイプでもある。そしてこのようなステレオタイプに隠されてしまっている「難民」のさまざまな姿に気付かせるには、この問いは有用だ。
シャンくんはある講演で出た例として「夢民」というのを挙げる。わたしの好みではないが、人々が何でもアイディアを出すのはよいことだ。
わたしが気に入っているのは「平和の使者」というもので、これはかつてインドシナ難民の支援に関わっていた年配の人が言った言葉だ。難民の問題を知れば知るほど平和の重要性というものが分かってくる。
しかし、わたしなりの答を言わせてもらえば、難民を何にも言い換えたくはない。いや、難民とも呼びたくない。そもそも何とも呼びたくない。
むしろ難民自身で自分の呼び名を決めて欲しい。そしてその呼び名が社会の中で通用するようになって欲しい。というのも難民(とそれに似たような人々)のつらいところの一つは、他の人に難民として語られるばかりで、自分の声で自分のことを語り、それを人々に届ける機会が圧倒的に少ないことにあるのだから。
そのような意味で、その難民自身であるシャンくんの活動はとても重要なものだと思う。
トゥアン・シャンカイくん