2014/10/27

エボラより怖い

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)はビルマ難民と日本人(とそれ以外の人々)からなる団体だが、結成当初から日本人は非常に少なかった。

そしてただでさえ少ない日本人は、わたしが会長となった2012年にはついに一人となった。

これではいけないというので、BRSAとして日本人会員を増やす取り組みを進めているが、ここ一年ほどの間に、五人ほどの方が会員となってくれた。また会員ではないが関心を寄せてくれる方も結構いる。数としては多くはないかもしれないが、どの人も経験豊富で面白い。

そうした方々とビルマをネタに意見交換し、その後は居酒屋で一杯という集いを不定期で数回行ったが、楽しいし話は尽きないので、毎月一回の定例会とすることにした。

10月は先週の金曜日に御徒町のBRSA事務局でこの集会(正式名称はまだ決まっていない)を開催した。参加者はわたしを含めて9名だった。

せっかくだから新しいことを学びたいので、つい最近会員にもなってくださった国際政治学の研究者の峯田史郎さんにお話しいただいた。峯田さんはシャン州南部のシャン民族政治組織を研究のフィールドの一つとされていて、今回はそのめったに聞くことのできない地域のお話を伺うことができたというわけだ。

タイトルは「 境界上の領域管理―シャン州南部ロイタイレンを事例に―」。専門的に聞こえるが、実際は具体的な観察に基づき、現地で撮影された写真や映像も活用されているためわかりやすかった。

シャン州とタイとの国境に位置するロイタイレンは、シャン民族政治組織であるシャン州軍・シャン州復興評議会(SSA/RCSS)が本部を置く村だ。人口二千人ほどの小さな村だが、その境界上にある村の「生存戦略」がビルマ政府、他のビルマ少数民族政治組織のみならず、中国、タイ、アメリカ、さらには日本などにまで及んでいることが如実に分かり面白かった、というか興奮した。

国際政治学というと国と国の外交関係を扱うものばかりと思っていたが、国家以外で国境を超え出でていくような政治的単位も研究対象となるというのも面白いし、またそうした実証研究を通じて「国家というものを相対化する」という峯田さんの視点も刺激的だ。

こうした視点こそ、何を見ても日本・韓国・中国でしか考えられなくなる国家逆上熱というエボラ出血熱よりもコワイ病気の治療に役立つのではないかと思われる。

プロジェクタを活用

2014/10/25

難民を言い換えたら

ここ数年、毎年東京都立杉並総合高等学校で難民について話す機会を与えられている。NPO法人NICE事務局長の上田英司さんが担当されている社会問題を扱う授業の一コマだ。

毎回、ビルマ難民の人と一緒に行くので、それが生徒たちに印象深いのだという。わたしにとっても貴重な機会なのでとてもありがたい。

今年は、ビルマのチン民族難民のトゥアン・シャンカイくんに同行をお願いした。彼は関西学院大学の学生で、難民のことを世間によく知ってもらうための活動をしている。 新聞やテレビにもしばしば取り上げられる。

彼は難民問題についてあちこちで講演しているだけあって、わたしより話がうまい。高校生たちの関心も高かったように思う。

「難民を言い換えるとしたらどんな言葉がいいか」という問いかけでもって彼は話を始めたが、これはまったく興味深い質問だ。

「難民」=「困難にある人、支援が必要な人」というのはある意味では正しいが、それはまたステレオタイプでもある。そしてこのようなステレオタイプに隠されてしまっている「難民」のさまざまな姿に気付かせるには、この問いは有用だ。

シャンくんはある講演で出た例として「夢民」というのを挙げる。わたしの好みではないが、人々が何でもアイディアを出すのはよいことだ。

わたしが気に入っているのは「平和の使者」というもので、これはかつてインドシナ難民の支援に関わっていた年配の人が言った言葉だ。難民の問題を知れば知るほど平和の重要性というものが分かってくる。

しかし、わたしなりの答を言わせてもらえば、難民を何にも言い換えたくはない。いや、難民とも呼びたくない。そもそも何とも呼びたくない。

むしろ難民自身で自分の呼び名を決めて欲しい。そしてその呼び名が社会の中で通用するようになって欲しい。というのも難民(とそれに似たような人々)のつらいところの一つは、他の人に難民として語られるばかりで、自分の声で自分のことを語り、それを人々に届ける機会が圧倒的に少ないことにあるのだから。

そのような意味で、その難民自身であるシャンくんの活動はとても重要なものだと思う。

トゥアン・シャンカイくん

2014/10/24

小さい日本兵

ヤンゴンに二人の小学生の男の子がいる。

二人とも日本の保育園と小学校で学んでいたが、ある事情により、ヤンゴンに戻ることになった。カレン民族の家庭なので、ビルマ民族の多い公立学校はどうも好きになれない。そこで、ヤンゴンの日本人小学校に通わせることにした。幸いにも学校も理解があって二人を受け入れてくれた。

去年の二月にビルマに行ったとき、わたしは子どもたちの家を訪ね、母親と話をした。彼女が言うには、息子たちは自分のことを日本人だと思っているようで、大きくなったら軍隊に入って日本を守りたいなどと話しているという。

どうしてそんなことを言い出したかというと、小学校の授業である教師が「日本を悪い中国人がいじめている」というようなことを教えたそうで、それで中国人から日本を守らねばと幼心に決心したもののようだ。

これを聞いてわたしは複雑な気持ちを抱きながら立ち去ったのであった。

その訪問から数ヶ月して、わたしは再びヤンゴンに行き、件の小さい日本兵のいる家に立ち寄った。

子どもたちが「遊ぼう」というので、リビングで適当にあしらっていると、上の子がわたしに言った。

「ねえ、日本人は死ぬときは『天皇陛下バンザーイ』っていって死ぬんだよ!」

わたしはさらに複雑な気持ちでその家を後にしたのであった。

エーヤーワディ・デルタの村の保育所

無駄な日々

入管での収容は無駄なことだと思うわたしが、この間、入管で目撃した無駄なことどもを紹介しよう。

東京入国管理局で面会の受付を済ませ、エレベーターで七階の待合所に上がり、呼び出されるのを待つ。

二人の男が後からやってくる。言葉は分からないが、ペルシア語かそれに似た感じの言語を話している。日本語も上手で、職員とのやり取りもそつがない。二人は面会相手に歯ブラシを差し入れしたいようだ。

入管では差し入れは直接渡すことはできず、面会の前に職員に託さなければならない。

その手続きをしていた男が、不意に日本語でいう。

「歯ブラシが欲しいんだってよ。歯もないのにさ……」

もう一つ。

相変わらず待合所で待っていると、面会を終えたばかりの日本人の男が出てくる。五十代の痩せた男で、調理場でてきぱき働いているのが似合う感じ、いずれにせよ、入管の面会に用のある職業ではない。

男は出てくるなり、職員を捉まえて話しかけた。かすかに震えるその声が、憂いと 苛立ちを押さえつける。

「あの……入っている人と私が入れ替わるなんてことはできないんですかね……」

二つ目終わり。


子宮と仮放免

この間、品川の入管に行った。現在、四人のビルマ難民が収容されているようで、そのうちの三人がBRSAの会員なので、 三人に面会した。

ちなみに、牛久のほうでは今収容されているのは二名程度で、いずれにせよ、ビルマ難民に関して言えば収容されている人はほとんどいないといっていい。2006〜2008年ごろには牛久に百人ものビルマ難民が収容されていたこともあることを考えると、まったく悪くない。

わたしが品川に行ったのは10月22日のことで、冷たい雨が降っていた。

ちょうど外の敷地で、牛久の会の田中さんたちが難民の収容に抗議していた。「難民を収容するな」とか「仕事をさせろ」とか書かれた幕をもっている人には、その難民らしき人もいる。

ビルマ難民以外の難民は、相変わらず、厳しい状況のままというわけだ。

だが、ビルマ国内の政治状況と日本政府との関係によってはまた今後ビルマ難民の収容がぶり返さないとも限らないのだから、他人事とも言えない。

心強いのは、入管の収容に反対する人がたくさんいるということで「全件収容主義と戦う弁護士の会 ハマースミスの誓い」というものもできた。10月28日に設立総会をするそうだ。

わたしは面会したり、仮放免申請することぐらいしかできないが、こうした動きにとても期待している。

わたしが面会したBRSA会員のうちの一人は、12月に出産を控えた妻を残しての収容生活だ。

わたしはこの日、その彼ともう一人の会員のために仮放免申請したが、父親が赤ん坊より先に娑婆に出てこれるかどうかは微妙な情勢だ。


白髪

入管に収容されている女性は、無理からぬことだが、疲れた顔をしているし、また老けて見える。

だから、収容される前に面識がない女性の場合は、面会の度に目にするその草臥れた顔がわたしにとってのその人となってしまい、それで、仮放免などされてしばらく後に会ったときに、あれこんなに若くてきれいで明るい女性だったっけかと思うこともしばしばだ。

男性は化粧をしないので入管の中にいたときとの差はそれほど大きくはない。

しかし、わたしが仮放免の申請をした人に、白髪の男性がいて、何とか釈放ということになった。

その時に彼が言うには「我、常日ごろ白髪染め愛用せり。しかるに入管の中にこれを使うを許されず、頭髪ことごとく白く戻る。今、汝の助けによりて獄を出ることを得たり。帰りて直ちにふたたび染めんとす。汝、我の白髪を見ることこれが最後なり」

どうぞ最後にしてください。

牛久入管内から見た風景。白髪のように白い雲が漂う。

韓国からの電話

外国から電話がかかってくる。

+82と表示されるのでどこからかと調べてみたら、韓国の国番号だ。

韓国には知り合いはいない。

わたしの日ごろ愛国的な言動に反感を持つ韓国人からの嫌がらせの電話か、それともわたしの日ごろ反日的な言動に胸を高鳴らせた韓国人からの応援の電話か。

それとも、韓国海苔の宣伝部長にでも選ばれたか。

何度もしつこく電話がかかってくるので、思い切って出てみた。

牛久の入管に収容されているビルマ難民の女性からだった。

通話料を安くするためのプリペイドカードの番号が韓国経由というわけだった。

彼女は品川での収容期間を含めて一年近く収容されている。そして、わたしはBRSAのメンバーである彼女のために五回目の仮放免申請を行い、その結果を待っているところだった。

入管からの返事はないかどうか彼女は聞き、わたしはこの切実な問いに「ない」と言って切った。

幸いにもそれからしばらくして仮放免許可が下りた。

牛久の入管